第55話 神界の境
光の嵐が静まり、風が止む。
足元の大地は透明な結晶でできており、歩くたびに淡い音を立てた。
見上げれば、天も地もなく、ただ無限の空間が広がっている。
「……ここが、“神界の境”……」
翼は息を呑んだ。
まるで時間の概念そのものが存在しないような空間。
過去も未来も混ざり合い、すべてが“今”として息づいている。
ヴェルザが静かに隣に立つ。
「ここは理の交点。
創造、癒し、破壊、そして停滞――あらゆる概念が始まる場所だ」
「創造の理……この世界を作った力、なんだな」
「ああ。そして、今もこの空間の中心で“再構築”を繰り返している」
前方に浮かぶ巨大な“門”。
金属でも石でもない、不思議な光の膜でできている。
それは脈動しており、まるで“心臓”のように鼓動していた。
翼は無意識に手を伸ばしかけた。
だがその瞬間、足元の結晶が鋭い音を立てて砕ける。
「止まれ!」とヴェルザが叫ぶ。
次の瞬間、空間そのものがねじれた。
光が反転し、闇が裏返る。
そして――“何か”が現れた。
真っ白な衣を纏い、顔の半分が仮面に覆われた存在。
瞳は金と銀の二色に輝き、声はどこか男女の区別すらない。
「ようこそ、天城翼。
……いや、“癒しの理を継ぐ者”よ」
「お前は……?」
「我は“第一監視体”。
創造の理を管理する存在。
そして、お前たちをこの世界へ導いた者だ」
ヴェルザが低く唸る。
「……ルミエル、貴様がまだ存在していたとはな」
「当然だ。監視体は滅びぬ。
この世界が続く限り、我々もまた存在し続ける」
ルミエルは翼の方へ歩み寄る。
その一歩ごとに、空間の色が変わる。
青、白、金、そして紅――まるで“理”そのものが震えているようだった。
「天城翼。
お前は癒しの理を“形”として受け継いだ。
だが、癒しは本来、“世界を繋ぐ橋”ではなく、“選別の刃”だ」
「選別の……刃?」
「そうだ。癒しとは、再生を許す者と、終わりを与える者を選ぶ力。
すべてを救うなど、矛盾そのもの。
お前の理は、いずれこの世界を“過飽和”に導く」
翼は強く拳を握る。
「……そんな理屈で、人を見捨てるのか?」
「我々は“感情”を持たない。
ただ均衡を維持するために存在する。
救済が過ぎれば、痛みを忘れた世界が生まれる。
痛みが過ぎれば、滅びしか残らぬ。
――だからこそ、均衡を取る者が必要なのだ」
ヴェルザが一歩前に出た。
「均衡という名の停滞だな、ルミエル。
お前は、世界を守るために“動かないこと”を選び続けた。
だが今、翼はその鎖を断とうとしている」
「鎖を断てば、世界は崩壊する」
「違う。あいつは――新しい理を生む」
ルミエルの瞳が細められる。
光が強まり、空間が震え始めた。
「ならば見せてみよ。
癒しと破壊、その先にある新たな“理”を――!」
言葉と同時に、光の門が開く。
その奥から、膨大な情報と記憶の奔流が押し寄せてきた。
翼の脳裏に、過去の世界が次々と流れ込む。
――幾千年も前、創造の神々がこの地を作り出した光景。
――監視体たちが生まれ、世界の理を管理し始めた瞬間。
――そして、最初の“人”が願った言葉。
『どうか、痛みのない世界を』
その願いが“癒しの理”の原点だった。
翼は息を詰まらせる。
その願いの主は、見覚えのある姿をしていた。
――それは、リュミナだった。
「リュミナ……?」
光の中、彼女は静かに微笑んでいる。
だがその目には、深い後悔の影が宿っていた。
『翼……あなたがここに来たということは、
私が犯した過ちを、もう知ってしまったのね』
彼女の声は、光と共に世界に響いた。
『私は“癒し”を創った。
人々の痛みを取り除きたくて、苦しみを減らしたくて。
でも……それは、心を奪う行為でもあったの』
翼の視界が滲む。
すべての繋がりが、ここで一本の糸になる。
『あなたは、私の失敗を正すために生まれた。
癒しを超え、痛みを受け入れ、それでも前に進む存在として』
ルミエルの声が割り込む。
「それが“創造の理”の最終段階――調和の理だ。
だが、まだ不完全。翼、お前には“代償”が必要だ」
「代償……?」
「新たな理を創るには、“旧き理”を壊さねばならない。
お前が癒してきた命、その記録をすべて――捧げることになる」
翼の身体が震えた。
それはつまり、自分の記憶を、癒したすべての人の記憶を失うということだ。
「……みんなとの思い出を、失うのか」
「そうだ。
それでも、お前はこの世界を“繋ぐ”ことを選ぶのか?」
沈黙。
時間が止まったような静寂の中で、翼はゆっくりと目を閉じた。
思い出したのは、仲間たちの笑顔。
セリア、リリア、アーク、そしてリュミナの笑み。
――救いたい。
その願いは、いつだってそこにあった。
「……構わない。
たとえ記憶を失っても、想いだけは――残るはずだ」
その言葉に、ルミエルの瞳がわずかに揺れた。
金と銀の光が交錯し、静かに頷く。
「……ならば、お前に“創造の権限”を譲渡する」
光が爆ぜた。
翼の身体から無数の羽が舞い上がり、空間中に散る。
その光は、まるで新しい世界の種のように輝いていた。
「翼……」
最後に聞こえたリュミナの声は、どこか安らかだった。
『ありがとう。もう一度、“癒し”を愛してくれて』
光が彼を包み込む。
記憶が薄れていく。
だが、心の奥底で確かに聞こえた。
――また、会おう。
そして、神界の境は静かに閉ざされた。
残されたのは、再び誕生する世界の鼓動だけだった。




