第54話 断層に響くもの
焦げた森の匂いが、鼻を刺した。
空は黒煙に覆われ、太陽はわずかに灰色の輪郭を残しているだけ。
風が吹くたび、崩れた塔の破片が乾いた音を立てて転がった。
――あの光の中から戻ったのは、ほんの一瞬のはずだった。
だが、世界はまるで“数年の時”を経たように荒れ果てていた。
「……ここは、どこなんだ……?」
翼はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。
そこは確かに、彼が知る〈レグナリア王都〉の外縁部だった。
だが街並みは瓦礫と化し、生命の気配はどこにもない。
突如、風を裂くような轟音が響いた。
遠方で、漆黒の光柱が天を貫いている。
その中心に、“人影”があった。
黒い鎧、翼のように広がる炎の尾。
その存在を見た瞬間、翼の全身が凍りつく。
「――第四監視体……!」
重低音のような声が、空気を震わせた。
「貴様が“癒しの理”の継承者か」
ヴェルザの声には、感情の波がほとんどなかった。
ただ存在するだけで、世界の秩序を破壊するような“重み”。
「……あんたが、破壊を司る監視体か」
「そうだ。
だが我は、破壊を楽しむために存在するのではない。
――“創造の準備”として、終焉をもたらす者だ」
翼は拳を握った。
彼が一歩踏み出すごとに、大地のひび割れから淡い光が滲む。
「なら聞かせてくれ。
なぜ世界をこんなに壊した? 癒しの理が、そんなに邪魔だったのか?」
ヴェルザは小さく首を傾げる。
「癒しとは、流れの停滞だ。
痛みを取り除く行為は、進化を止める。
お前の癒しは、人々から“選択する痛み”を奪った」
「痛みを……選ぶ?」
「そうだ。
痛みは、生きるための意思だ。
それを消し去ることは、生命そのものを“無菌化”する行為。
――我は、それを拒絶する」
ヴェルザの掌に黒炎が生じ、轟音とともに地面が崩壊した。
瓦礫が宙を舞い、翼は瞬時に防御結界を展開する。
爆発の余波が止むと、彼の周囲には金色の残光が漂っていた。
癒しの理が、自動的に彼を守っていたのだ。
「俺は、痛みを否定してるわけじゃない。
ただ――誰かが生きたいと願うなら、それを助けたいだけだ!」
翼が両手を掲げると、周囲の光が集まり、一面の“結晶花”が咲き乱れる。
瓦礫の上で、命の欠片が再び息を吹き返していく。
ヴェルザはその光景を、じっと無言で見つめた。
やがて低く、呟く。
「……愚かだが、美しい」
「何だと?」
「お前の理は“欠損”している。
癒しとは、全てを元に戻すことではない。
――壊れた形のまま、それでも歩ませることだ」
その瞬間、ヴェルザの黒炎が翼の足元に走った。
反射的に跳び退ったが、地面はすでに“虚空”に崩れ落ちていた。
そこは深淵――〈レヴァリアの断層〉。
無限に落ち続ける闇の海。
ヴェルザの声が、深みから響く。
「お前の癒しに、痛みを受け入れる意志があるなら、示してみせろ」
「どういう意味だ!」
「この断層の底には、“かつて癒された者たちの残響”が眠る。
お前の力によって救われ、同時に“記憶を消された”魂たちだ」
翼の呼吸が止まる。
暗闇の底から、無数の人影がゆっくりと浮かび上がってくる。
笑っている者もいれば、泣いている者もいる。
だが、誰もが“空っぽの眼”をしていた。
「……まさか……俺が……?」
「そうだ。お前の癒しが、彼らの“痛み”と“記憶”を奪った。
安らぎを与えた代償として、彼らは『自分の人生』を忘れたのだ」
翼は膝をついた。
その中に、懐かしい顔を見つけてしまったからだ。
――王都の少年。リリアを守ろうとして命を落としかけた、あの少年。
彼の笑顔が、光の中で揺れている。
何も覚えていないのに、それでも優しく笑っていた。
「俺が……全部、消したのか……?」
「否。お前が癒した。
だが癒しとは、痛みの記録をも含む。
それを“受け止められるだけの覚悟”が、お前にはまだない」
ヴェルザがゆっくりと降り立つ。
その炎が、闇を赤く照らした。
「我と戦え、天城翼。
痛みと癒し、どちらが“真の再生”をもたらすのか――今ここで証明しろ」
翼はゆっくりと立ち上がった。
目の前の炎が、彼の瞳の奥に反射する。
迷いがあった。
だが同時に、リュミナの声が胸の奥で囁いた。
――痛みを受け入れ、なお癒す。それが“真の癒し”よ。
「……ああ、分かったよ」
翼の手に、純白の光が宿る。
「俺の癒しは、もう逃げるためのものじゃない。
痛みと共に、生きるための力だ!」
光と炎がぶつかり合い、断層全体が震動した。
天と地の境が崩れ、世界がひとつの“音”を放った瞬間――
翼の身体が、眩い光に包まれた。
背中に二枚の翼。
一方は白、一方は黒。
その対称が示すもの――“調和の理”。
ヴェルザが、低く笑う。
「ようやく……辿り着いたか」
翼は答えるように、右腕を掲げた。
その声は、確かにこの世界の理に響いていた。
「癒しと破壊、どちらも否定しない。
この両翼で――世界を立て直す!」
光が世界を包み込み、断層が音もなく崩壊していく。
無数の魂が空へ還り、その中で翼は確かに聞いた。
“ありがとう”――誰かの声が、静かに。
そして、光が完全に消えた時。
翼の前には、再び人の姿をしたヴェルザが立っていた。
その炎は消え、ただ淡い赤の残光が残るのみだった。
「お前の癒し……確かに見届けた。
次の扉は、〈神界の境〉。
――そこが、創造の理の中心だ」
ヴェルザはゆっくりと手を差し出す。
翼は迷いなく、その手を握り返した。
「ありがとう、ヴェルザ」
静寂。
崩壊した世界の中で、ひとすじの風が吹いた。
それはまるで、新たな生命の息吹のようだった。




