第46話 花の雫と動き出す影
自由都市ヴァレクの朝は、喧騒と熱気で始まる。
行商人の怒号、鍛冶場の金槌の音、香辛料の匂いが入り混じる中、翼たちは宿の一室で小さな結晶を見つめていた。
それは、夜の氷洞で手に入れた《氷花の雫》――。
透明で、心臓の鼓動のように淡い光を脈打つ。
「……これが、本当にアークの命を救うのね?」
セリアが小声で問う。
翼は頷いた。
「ああ。蒼鷹騎士団の医師から聞いた。
この雫を精製すれば、“魂凍結毒”を中和できるらしい」
リリアが机に肘をつき、唇を尖らせる。
「でも、なんか妙よね。毒ってより……呪いに近かったじゃない。普通の治療法じゃ説明つかない」
「確かに」
翼は静かに雫を包む。
手の中でひんやりとした感触が伝わるたびに、不安が小さく疼いた。
(あの洞窟……妙だった。魔獣も、罠も、まるで“誰かが試していた”みたいだった)
考えが頭を巡る。
だが今は、それよりも――アークを救わなければならない。
*
昼前、蒼鷹騎士団の本拠を訪ねると、団の雰囲気は昨日とまるで違っていた。
厳しい表情の騎士たちが廊下を行き来し、空気は張りつめている。
「アーク団長代理の容体は?」
翼が尋ねると、受付の女性騎士が小さく首を振る。
「今朝、さらに悪化しました。意識がほとんど……」
セリアが眉を寄せる。
「早く渡そう」
翼たちは部屋に案内される。
そこには、青白い顔で眠るアークの姿があった。
豪胆で冷静だった男が、今はまるで氷像のようだ。
「……アーク」
翼はそっと結晶を取り出し、騎士団の医師に渡した。
薬剤師たちが魔法陣を描き、精製が始まる。
青白い光が部屋を照らし、淡い音が響く。
しばらくして――。
「成功だ! 毒素が反応している!」
医師が叫び、淡い光がアークの身体を包み込む。
その肌に少しずつ血色が戻っていく。
やがて彼のまぶたが、微かに動いた。
「……ここは……」
「アーク! 気づいたか!」
翼が叫ぶと、アークは目を細め、わずかに笑った。
「……助かった……のか」
「まったく、無茶しすぎなのよ」
セリアが腕を組んで睨む。
リリアも頬を膨らませた。
「団長代理のくせに寝込みすぎでしょ」
アークはかすかに笑い、苦しげに息を吐いた。
「……悪い。だが、君たちがいてくれて……よかった」
そう言って、彼は再び眠りに落ちた。
だが今度は、安らかな寝息だった。
*
その夜。
宿の部屋に戻った三人は、ようやく一息ついた。
「ふぅ〜……やっと終わった」
リリアがベッドに倒れ込み、ぐでんと伸びる。
セリアは椅子に腰かけ、ため息をついた。
「でも……気になるのよね」
「何が?」と翼。
「アークの毒、あれ“仕掛けられた”ものじゃない?」
翼もその言葉に沈黙した。
――心当たりがある。
洞窟の最深部で見た黒い紋章。
それは、王都の魔術師団が使っていたものに酷似していた。
(やっぱり、繋がってる……)
リリアが起き上がり、真剣な顔になる。
「ってことはさ、王都の連中……まだこの街で動いてる?」
「たぶん」
翼は頷く。
「監視者も、“あれ”以来姿を消してない。
どこかで俺たちを見てる気がする」
セリアが窓の外を見つめた。
夜の街。
灯りの向こうに、黒い影が一瞬だけ揺れた。
「……まるで、私たちの動きを全部読まれてるみたいね」
沈黙が部屋を包む。
だが次の瞬間――。
「――報告!」
宿の扉が勢いよく開いた。
蒼鷹騎士団の若い団員が駆け込んできた。
息を切らし、焦燥に染まった顔で叫ぶ。
「アーク副団長が、消えました!!!」
「……は?」
部屋の空気が凍る。
「回復してたはずじゃ……!」
リリアが叫ぶが、団員は首を振る。
「護衛が気絶させられていました。
監視魔法もすべて遮断……内部の犯行の可能性が高いです!」
翼は立ち上がる。
「場所は?」
「最後に目撃されたのは……港方面です!」
翼は短く息を吸い、二人に目を向けた。
「行こう」
セリアが頷き、リリアが杖を握りしめる。
夜の自由都市ヴァレク。
無数の灯が揺れる港へと、三人の影が走る。
風が吹いた。
その中で、誰かの低い声が呟く。
「……次の幕を、開けようか」
それは確かに――“監視者”の声だった。
そして、物語は次なる戦いへと進み始める。




