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第29話 渓谷遺跡の入り口と“黒い影”

自由都市アークローナの北西に広がるガルス渓谷は、ひとことで言えば巨大な裂け目だった。大地が怒り狂って拳で叩き割られたみたいに、あまりにも唐突に口を開けている。翼たちは朝早く街を出発し、三時間ほど歩いて渓谷の縁にたどり着いた。


地面の上には乾いた風が走り抜け、渓谷の底からは、かすかに魔獣の唸り声のような音が響く。音の正体は分からないが、うかつに下へ落ちればさよならコースである。


翼はその縁からそっと覗き込みながら息をのむ。


「……うわ、深い。というか、これ落ちたら生存ルートある?」


「落ちた瞬間、人生のメニューが消えるわね」とセリア。


「僕、飛べたらいいのに」とリリアがふざけながら手を広げる。


三人はそんな軽口を交わしつつも、胸の奥には緊張が走っていた。ここから先が、監視者の手がかりと噂される遺跡なのだ。ギルド副長ヴェイルは慎重な男だった。それがわざわざ「裏のアークローナ」と呼んだ場所なら、どれほど危険なのか想像すら難しい。


「遺跡は渓谷の中腹らしいけど、どこから入るんだ……?」


翼が地図を広げた瞬間、セリアが指をさした。


「こっち。崖沿いの細い道。たぶんあれね」


見ると、崖の側面に細長い岩の道がへばりついていた。まるでヘビが岩を噛んだ跡のように狭い。人が二人並ぶだけで落ちそうだ。


「ここ通るの嫌なんだけど……」


「翼くん、落ちそうになったら私が引っ張るよ。たぶん」とリリア。


「“たぶん”を付けるな!」


しかし他に道はない。三人は慎重に通路へ足を踏み入れた。渓谷の風は鋭い刃のように顔に当たり、足元の砂がザラザラと落ちていく。


途中で、翼は違和感に気づいた。


「……誰か、ついて来てない?」


セリアが振り返る。


「気づいてたのね。さっきから空気が妙に揺れてる」


リリアもわずかに眉をひそめた。「足音はしないのに、誰かの息みたいなのは聞こえる感じがするよ」


三人とも歩みを止めないまま、ほんの数ミリだけ警戒レベルを上げる。もし監視者か、監視者と同じ勢力なら、ここで不意打ちされてもおかしくない。


崖の道を進むほど空気は冷え、渓谷の底で不気味な影がうごめく。人の気配は濃く、しかし姿は見えない。


ついてきている者は、一体どこに潜んでいるのか。


「気にしすぎてもバランス崩すわよ」とセリアが小声で言う。「遺跡まで進んで様子を見るのが先」


「うん……」


翼は不安を胸に押し込み、前へ足を運んだ。


やがて、細い道が終わり、洞窟のような入り口が現れた。そこには古代の石板が倒れ、文字がうっすらと刻まれている。


セリアが文字に触れ、目を細めた。


「古代語……読めるわ。“影の門を越える者、記録を抱け”?」


「記録って、なんの?」


「さあね。ただの遺跡ならこんな煽り文句は書かないはずよ」


翼が洞窟に一歩足を踏み入れた瞬間、背後の空気がずしんと重くなった。


そのわずかな圧だけで、ついてきていた“何か”が本物であることが分かる。


「来るぞ……!」


翼が振り向いた瞬間、岩陰の暗闇が“立ち上がった”。


人の形をしているようで、していない。影が人型を真似して動いている。輪郭だけが揺らぎ、顔も身体も黒い霧のように漂っている。


リリアが思わずのけぞった。「な、何あれ……!」


「影……いや、霊体型の魔獣?」セリアが魔術式を構えながら答える。


影は音もなくこちらへ滑るように進んでくる。足音も呼吸もない。ただ、空気だけが沈んでいく。


翼は咄嗟にヒールを発動した。


すると、影が一瞬だけ明るい部分を避けたように揺れた。


「通る……効いてる? これ」


ヒールは回復魔法だ。だが、翼のヒールは特性が異常だと王都で判明している。生命力を“正す”という形で発動しているらしく、アンデッド種や霊体に対しては毒のように作用する。


「やれるかもしれない」


翼は両手を構え、ヒールを連続で放った。光が脈打つように広がるたび、影は嫌がるように身体を歪ませ、退いた。


だが――。


「……増えてる」


セリアの声で気づく。影は一体ではなく、二体、三体と岩陰から溶け出すように現れる。


「物量で押すつもりか……!」


「リリア、前で抑えて。私が火で追い払う」


「任せて!」


リリアが影の進路へ飛び出し、巨大な影の拳を柔道の受け身のように流して投げ飛ばす。地面に叩きつけられた影は形が崩れ、黒い霧になった。


セリアの炎の魔術が壁のように広がり、影たちは左右に散る。


翼はヒールで撃退し続けるが、数が多い。


そして、影たちの後方に、“別の影”が立ちあがった。


先ほどの群れとは明らかに違う、輪郭のはっきりした黒衣の人影。肩までのフードで顔は見えないが、そこから放たれる気配は他の影とは段違い。


「……監視者の“手駒”か?」


セリアがわずかに震える声で言った。


影の指が持ち上がり、空気が一気に凍りつく。


攻撃の予兆――。


「伏せろ!」


翼が叫んだ瞬間、黒衣の影が指先を向ける。空間が歪み、音のない圧力が三人を襲った。翼は反射的に防御のヒールを展開し、光の膜を張る。


衝撃が膜を叩き、ヒールの光が火花のように散る。


「う……っ!」


膜はなんとか持ちこたえたが、今の一撃は完全に殺意があった。


「来る……近づいてくる!」


黒衣の影はゆっくりと歩いてくる。部屋の空気が冷え、呼吸するごとに肺がきしむ。


敵は人間なのか、魔獣なのか分からない。それでも、三人の脳に共通して浮かんだ。


これは、ただの遺跡荒らしなんかじゃない。


翼は立ち上がり、歯を食いしばった。


「……退くぞ! このままじゃ消耗戦になる!」


セリアが頷く。リリアも歯を食いしばりながら影を押し返す。


三人は洞窟の中に走り込み、奥の闇へ消えた。黒衣の影は追ってこようとしたが、洞窟入口の石板がひとりでに崩れ、影の進路を塞いだ。


影はしばらく立ち尽くし、ゆっくりと闇へ溶けていった。


洞窟の奥を走りながら、翼は胸の奥がざわざわしているのを感じた。


あの黒衣の存在は、明らかに“何かを探している”。


そして、それはおそらく――翼自身に関係している。


息を整えながら、翼は後ろで走る二人にちらりと目をやった。


「……ごめん。巻き込んでるかもしれない」


しかしセリアは前を向いたまま、短く言った。


「今さらね。巻き込まれるなら、最後まで付き合うだけよ」


リリアも笑う。


「今の相手、絶対ボス級でしょ。あれ倒せたら絶対楽しいって!」


翼はふっと笑い、前を見据えた。


奥へ進むほど、洞窟の空気は変わる。


影も黒衣も消えたが、ここから先は、もっと大きな秘密が眠っている。


渓谷遺跡の“本来の目的”が、まだ姿を見せていないのは分かっている。


翼たちの冒険は、表面だけかじって終わるようなものじゃない。


監視者の存在も、王の焦りも、翼の魔力の異常さも、すべて繋がっている気がした。


三人は暗闇の先へ進み、最奥を目指す。


その扉の向こうに、彼らの運命を左右する“記録”が眠っているとも知らずに。

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