第24話 影を喰う黒手と、揺らぐ記憶の子どもたち
中央区へ向かう道には、焦りと不安の匂いが漂っていた。家々の窓は固く閉ざされ、通りを行く人々は肩をすくめながら早足で立ち去っていく。鐘の余韻が空を震わせ、その音が街全体を薄い膜のように包んでいた。
「孤児院はこの先だ」
アークが短く言う。
翼は走りながら周囲を見渡した。石畳には倒れた買い物袋が転がり、パンがつぶれた形で落ちている。誰かの急いで逃げた足跡も残っていた。
「こんなの、ただの魔獣騒ぎじゃないよね」
リリアが槍を抱えなおしながら呟いた。
「魔獣なら、街の警報は鳴っても、人が“記憶”を失うなんてことは起きない」
セリアが言う声には、冷たい緊張が含まれていた。
「翼」
アークが速度を落とさず言った。
「もし現場でお前の力が暴走しそうになったら、すぐ俺に合図しろ。抑えられる保証はないが、対処はできる」
「暴走なんて……しない、はずだ」
翼は自分に言い聞かせるように返す。
だが胸の奥では、またあの青白い光がうずいていた。
禁書庫で起きたあの現象。
黒衣の女が言った“覚醒の続き”。
思い出すだけで背中がざわりと震える。
「あんまり無理すんなよ、翼。
倒れたらおんぶして走らなきゃいけなくなるだろ?」
「それは嫌だな。お前重そうだし」
「だれが重いって!? 返答次第で今日の晩ごはん奪うからな!」
「こら、走りながらケンカするな」
アークが呆れたように笑った。
そんな軽いやり取りが、心のどこかを少しだけ守ってくれていた。
やがて孤児院の白い大きな建物が見えてくる。
入口の前では、蒼鷹騎士団の隊員が三名、緊張した顔つきで周囲を警戒していた。
「副団長!」
「状況は?」
アークが駆け寄る。
「子どもたちは一時保護室に。怪我はありませんが……五名が“名前を言えない”状態です。その他にも、数名が“昨日何をしていたか”を答えられず、泣き出しました」
「魔力反応は?」
「建物内に、複数の“黒い痕跡”があります。残留魔力は不安定で……一般的な属性魔法とは異質です」
黒衣の女の仕業だと確信できるほど、状況はそっくりだった。
「とにかく中へ入るぞ」
アークの合図と共に、翼たちは孤児院へ踏み込んだ。
中は静まり返っていた。
廊下には子どもたちの絵や飾りが並んでいるが、その空気は普段の温かさを失っている。
そして、曲がり角をひとつ抜けたところで、翼は足を止めた。
壁に黒い手形が、いくつもついていた。
触れれば溶けて消えそうな、煙のような手形。
「これ……魔力の跡……?」
セリアが眉を寄せる。
「いや、魔力というより“魔力を喰った残滓”だ」
アークが低く言った。
「対象の記憶や魔力を“吸いとった”時に残るものだ。古い文献で読んだだけだが……実物を見る日が来るとはな」
翼はその手形を見ているだけで息が詰まりそうだった。
「誰が……なんでそんな……」
「翼」
アークが短く言う。
「子どもたちの保護室に向かう。もしかしたら……“お前の名字”を覚えている者もいたかもしれない」
胸が痛んだ。
知らないはずの過去に、今手を伸ばされている。
自分が知らなかった自分を、誰かが勝手に奪っている。
怒りと不安と悲しさが、胸の中でぐるぐる回った。
扉を開くと、保育士たちに囲まれ、混乱した子どもたちが座っていた。
その中の一人、髪を三つ編みにした少女が泣きじゃくり、叫ぶ。
「名前、なんだっけ……なんだっけ……っ!」
「落ち着いて、大丈夫だから……」
保育士が必死に抱きしめていた。
翼の胸が、痛いほど締め付けられた。
(こんなの……ひどすぎる)
翼はその場にしゃがんで、少女と目線を合わせた。
「ねえ、聞こえる?」
少女は涙の膜を通して、かすかに翼を見た。
「名前、思い出せない……こわいよ……」
翼はゆっくりと言葉を選んだ。
「名前を忘れても、大丈夫だよ。
君を知ってる人は、ここにたくさんいる。
ゆっくり、戻ってくるから」
少女はまだ震えていたが、少しだけ呼吸が落ち着いた。
その瞬間だった。
背後の空気が、ふっと冷えた。
アークが振り返るより早く、黒い影が天井から糸のように降り注いだ。
「来るぞ!!」
影は床に落ちる寸前、人の形に変わった。
全身が黒く、顔は仮面で覆われた“影の兵”。
五体。
「またお前らかよ……!」
翼は剣を構える。
「子どもたちを守れ! 戦闘可能者は前へ!」
アークの声に、リリアとセリアが動く。
黒影は音もなく動き、奇妙な振りで突き進んでくる。その手からは黒い霧が漏れ、触れたものを煙のように侵蝕していく。
リリアの槍が一体を貫くが、黒影は煙のように形を崩し、別の場所で再びまとまって立ち上がる。
「ちょっと! 固まったり溶けたり、どっちかにしてよ!」
「文句は後だ、数を減らせ!」
アークが飛び込み、光刃で影を一体切り裂く。
その瞬間、翼の胸の奥で光が鼓動を打った。
青白い輝きが脈打ち、指先に集まってくる。
(……また、来るのか)
黒影の一体が子どもたちに向かって伸びた。
その手は、まるで記憶を吸いとるために開かれた穴のように黒い。
「させるかよ!」
翼が飛び込んだ瞬間、胸の奥の光が爆ぜた。
青白い波紋が周囲に広がり、黒影の体を押し返す。
影が苦悶するように揺れ、煙のように揺らめいた。
「なんだ……この力……!」
翼自身が一番驚いていた。
だが、影はまるで怒ったかのように翼へ集中する。
五体すべてが、翼へ狙いを定めた。
「おい翼! 下がれ!」
「無理だ、動けない……!」
光が強まり、脳内に知らない声が響いた。
──開け。
──まだ眠っている“記憶”を。
「やめろ……俺の記憶に触るな!」
翼は叫びながら剣を振りぬいた。
青い光が剣を包み、半月状の斬撃が影を裂く。
黒影は悲鳴も上げず崩れ、煙となって消えた。
残りの影もアークたちが切り伏せ、一分もせず全滅した。
だが、静かになった部屋で、翼は肩を震わせていた。
「翼、大丈夫……?」
セリアが駆け寄る。
「……記憶を、引っ張られた。
なんか……知らない景色が見えたんだ」
アークの表情が固まる。
「何を見た?」
「……白い部屋で、俺が……
誰かに抱き上げられて……
“番号”で呼ばれてた」
言葉にした瞬間、背中が冷えた。
孤児院の子どもたちが泣き、部屋の空気が重く沈む。
「翼」
アークが静かに言う。
「お前の過去……“番号の子ども”かもしれない」
翼は唇をかみしめた。
自由都市に、外の影が忍び寄っている。
翼の出生と、記憶を喰う黒い魔術。
すべてがゆっくりと形になりはじめていた。
「行くぞ」
アークが立ち上がる。
「影の出現源を探す。これで終わりじゃない」
「うん……逃がさない」
翼は剣を握り直し、揺らぐ胸を押さえながら立ち上がった。
黒影を操る“女”。
そして、その背後にある組織。
すべては、翼の記憶へ続いている。




