第12話 影から覗く者
自由都市ヴァレクの夜は、王都とは違う熱気に満ちていた。酒場の歌声、鍛冶場の火花、荷車の音、どれもが混ざり合い、街全体が巨大な生命体のように脈打っている。しかし、その賑やかさの中に、ごく僅かに異質な“静寂”が紛れ込んでいた。
翼たちが宿に戻り、部屋の扉を閉めたその瞬間、通りの影に黒いローブを纏った人物が佇んでいた。街灯に照らされても輪郭がぼやけ、まるで影そのものが形を得たような存在だった。
ローブの人物は、宿の二階にある翼の部屋をしばらく見上げていた。やがて口元をわずかに歪ませる。
「……動き出したな。“回復術師の異端者”。王国が手放した宝を、ようやく拾い上げたといったところか」
その声は男とも女ともつかない響きだった。
「世界の理を見抜けぬ王どもには、もはや用はない。あとは見届けるだけだ。あの少年が、この世界を救うのか、壊すのか――」
黒ローブが窓を見上げたまま言葉を途切らせた。理由は簡単だった。
背後に、人の気配が立ったからだ。
「……そこに誰かいるの、分かってるよ」
声の主はリリアだった。普段は軽やかに笑う彼女が、いまは真剣そのものの表情で路地の影を睨んでいた。手には護身用の小杖を握っている。
影の人物は肩をすくめたように動く。
「予想外だ。“魔眼”の持ち主が同行しているとは」
リリアの瞳が揺れた。彼女の出生に触れる言葉だった。
「……どうして私のことを……?」
ローブは答えず、ふっと影に溶けるように姿を消した。風すら揺らさず、まるで最初からそこにいなかったかのように。
「なに……あれ。絶対ただのストーカーじゃないよね……」
小さく呟いたリリアは眉をひそめ、すぐに翼に報告するべきか迷いながらも宿へ戻っていった。
しかし、彼女が気づいていなかったもうひとつの影があった。
宿の屋根の上に、仮面で顔を半分隠した人物が腰を下ろしていた。外套の裾が風に揺れる。手には折れた魔導杖。
「……王都を護った“回復術師”。聖女の癒しを上回る回復力に、化け物じみた身体強化。規格外にもほどがある」
仮面の人物は瓦に触れ、残留していた魔力の痕跡を読み取るように目を細める。
「この魔力……どこかで……。となると――“封印指定”の可能性もあるな。上に報告すべきだが、軽率に動くのも危険か」
つぶやきながら、外套の人物は月明かりに溶けるように消えた。
さらに別の場所で、第三の影が蠢いていた。
自由都市ヴァレクの中央にそびえる巨大な塔「観測塔」。その最上階で、水晶球が赤く脈動し、塔を管轄する老魔導士が震える手で記録を残していた。
「……また反応が……。“世界干渉者”が現れた証拠じゃ……。この波長は……少年と、あの少女……?」
水晶球には翼とセリアの輪郭が浮かび上がっていた。二人が触れ合うように並ぶと、水晶はさらに強い光を放つ。
「……波長が重なることで、世界の流れが乱れる……? これは……危険すぎる。千年に一度の兆し……」
老魔導士は震えながらペンを走らせる。
『自由都市ヴァレクに、“観測不能”の魔力波が流入。対象は三名。そのうち二名は特に危険。
――回復術師、天城翼。放置すれば世界の構造が崩壊する可能性あり』
書き終えた瞬間、水晶球が赤く明滅し、小さな亀裂が走った。
翼たちが自由都市に到着した夜。
街の影という影が、一斉に彼らを“監視対象”として認識した。
誰が敵で、誰が味方か。
それすらまだ分からない。
だが確かなのは――
この世界の均衡が、翼の存在によって揺れ始めているという事実だった。




