雨傘
先輩は、いつだって周囲の中心にいた。
優しくて、綺麗で、仕事もできて。誰にでも分け隔てなく接して、けれど決して馴れ馴れしくなくて。昼休みになれば、自然と彼女の周りに人が集まっていたし、困ったことがあれば誰もが彼女に相談した。まるで社内に咲く一輪の花。その花を誰もが遠くから見つめ、手を伸ばすことなどできないと思っていた。
わたしも、そうだった。
あの人の周りを回る小さな惑星のひとつだった。ただの後輩。ただの同僚。先輩の笑顔を、横から見るだけの存在。
そんなある日だった。昼休みに戻ると、みんながざわざわしていた。なにか、と思えば、今年の新入社員のホープ、鈴木さんと先輩が婚約したというのだ。
「え、ほんとに? あの二人が?」
「すごいよね。社長も祝福してるらしいよ」
そんな会話が飛び交う中、わたしは動けなかった。お祝いムードの真ん中で、先輩は少し頬を赤らめながらも微笑んでいた。鈴木さんは、というと、堂々とした笑顔で、
「いやあ、頑張りましたから」
と得意げに言ってのけた。
鈴木さん。わたしも、好きだった。
背が高くて、清潔感があって、ちょっと冗談も言える。しかも社長の甥っ子で、どうやらあの社長が一番信頼している姉上のご子息らしい、という噂も耳にしていた。
憧れの先輩と、憧れの鈴木さん。その二人が結ばれたという現実が、胸の奥に冷たいものを落としていった。
それでも。それでも、わたしは諦めきれなかった。
婚約なんて、ただの段階に過ぎない。心が動けば、状況なんて変えられる。そう思って、わたしは行動を始めた。
まずは、社内の飲み会。うまく酔ったふりをして、涙を見せた。家が遠くて帰れない、と嘘をついた。鈴木さんは、困ったような顔をしながらも「送りますよ」と言ってくれた。
チャンスだった。
車の中で距離を詰めて、上目遣いで甘えてみた。でも、鈴木さんは、わたしの手をそっと避けて言った。
「ごめん、今は、そういうの、ちょっと」
結局、なにもなかった。
なにもないまま、帰宅して、悔しさと虚しさで眠れなかった。
でも、諦めなかった。
今度は、もっと違う方法を取った。
給湯室で、先輩にだけ聞こえるように、ささやいた。
「昨日、鈴木さんの部屋に行ったら、洗面所に歯ブラシが二本あって・・・ガウン、貸してもらっちゃいました。すみません」
わたしは、あくまでも申し訳なさそうに微笑んでみせた。
先輩の顔から血の気が引いていくのが、はっきりわかった。
「そう」
それだけをつぶやいた彼女の横顔は、今まで見たことがないほど青ざめていた。
その日の終業まで、先輩はずっと無言だった。
静かに書類を片付け、誰とも話さず、ただ黙って時を待っていた。
わたしは最後に、先輩の席へ近づき、小声でささやいた。
「帰り道で話し合いましょう。彼も来ます」
わたしの声に、先輩は返事をしなかった。ただ、雨傘を手に取って、足早に出て行った。
その瞬間、外で雷が鳴った。
まるで映画のワンシーンのようだった。雷鳴とともに、雨が激しくなった。
先輩の傘はすぐにわかる。薄紫で、縁は白と紫のチェック柄。彼女の雰囲気にぴったりな、上品で静かな色合いだった。
その傘が、横断歩道に、ふらふらと進み出た。
信号は、赤だった。
車のクラクションが、雨音をつらぬいた。
それが、先輩の最後だった。
社内は騒然となった。葬儀、会議、調査、報告、混乱。すべてが嵐のように過ぎていった。
鈴木さんの憔悴ぶりは、ひどかった。まるで魂が抜けたようにぼんやりとしていて、それでもなんとか出勤して、仕事だけはこなしていた。
誰も、わたしのことなど疑わなかった。
わたしがなにをしたかも、なにを言ったかも、誰も知らない。
だけど、雨の日になると、ときどき見かけるのだ。
人混みの中、不意に、あの傘が現れる。薄紫の、白と紫のチェックの縁取り。わたしは一歩も前に進めなくなる。
横断歩道の向こう側で、誰かを待っているように立っている。
信号が青になっても動かない、雨傘。
怖くて、わたしは渡れない。
動けずにいるうちに、いつの間にか、その傘は消えている。
ほんの一瞬の出来事。それとも、わたしの心の幻影?
どちらにしても、忘れることはできない。
傘立てに傘を入れることも出来ない。そこに薄紫の傘があるから・・・
薄紫の傘は、もう何度も現れては消えた。
幻だと分かっていても、わたしは見てしまう。
今日もまた、雨が降る。
わたしは傘を持たずに、外に出た。
濡れるにまかせて歩く。
それが、せめてもの償いだ。
いつも読んでいただきありがとうございます!
楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。
それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。