第二話:日傘持ちのアスラ
丘と森と、獣道。
アドアストラの棲家もとい"ローガン邸"と、麓の町もとい"フラフス"とを行き来するには、最低でも三つの難所を越えなくてはならない。
とりわけ、"ユルカの森"と呼ばれる中間地点。
ここには狐や狼、熊をも出没するために、近付きたがる猛者はほぼいない。
結果として、衆目からローガン邸を隠す一因となっている。
「───おや、日傘持ちのレディじゃないか。
今日はいつにも増して、遅いお出かけなんだね。」
「これはどうも。
今朝は日差しが強かったので、つい朝寝をしてしまいました。」
「おやおや、ものぐさなところは変わらずかい。
用件は買い物?それとも、仕事で来たのかな?」
「両方です。
仕事のついでに、美味しいチーズでも買って帰ろうかと。」
「なるほどね。
今からとなると、帰りは夜になりそうだ。」
「いつものことですよ。ご心配なく。」
「西のほうでは、人狼が出たなんて噂もあるそうだよ。
月が真上に来るまでには、君もちゃんと、家に帰るんだよ。」
「……ええ。ご心配なく。」
フラフスに降りたアドアストラに、町の住人がさっそく挨拶する。
中には大の怪異嫌いや、排他主義の輩も含まれるが、そんな者達でさえ今のアドアストラには挨拶する。
「(やれやれ。
吸血鬼を相手に世間話とは、呑気な爺さんだ。
……にしても、人狼か。まさかアイツのことじゃないよな。)」
アドアストラは、人間に擬態する能力を持っている。
生き血のようだった紅い髪と瞳は、赤みがかった黒色に。
尖った耳は丸く、鋭い牙は小さく形を変え、一見して吸血鬼と分からないように変身できる。
青白い肌だけは唯一そのままだが、"病弱だから"で通せなくはない。
日傘とツバ広帽子を常用していることも含め、人間として悪目立ちするのが精々だ。
「───わぁっ!」
「おっと。
大丈夫ですか?女の子さん。」
「あ、わ、ごめんなさい。」
「すみません、うちの子が……!お怪我はないですか?」
「問題ありません。
女の子さんが無事なら、それで。」
「本当にすみません……!
もう、だから走っちゃ駄目と言ったでしょう。
痛いところは?どこも擦りむいてないのね?」
「だい、じょうぶ。いたくない。」
「よかった。
ほら、助けてくれたお姉さんに、"ありがとう"を言って。」
「ありがとう、お姉さん。」
「どういたしまして。」
通りすがりの幼い少女が、アドアストラの傍らで転びそうになる。
アドアストラは少女に腕を伸ばし、間一髪で少女を転倒から防ぎ、少女と少女の母親に礼を言われた。
「(危なかった。
力を抑えていなければ、脊椎ごと粉々にしていたところだ。
反射で動くのも程々にしないとな。)」
人間に擬態している時のアドアストラは、吸血鬼としての力を振るえない。
フルパワーを100パーセントとすると、30パーセント弱まで出力が落ちてしまう。
自慢の怪力も再生力も、丈夫な人間と肩を並べる程度にしか機能しない。
吸血鬼の力を満足に振るうには、吸血鬼の姿に戻る必要がある。
人間の擬態を看破されたことが一度もないのは、引き換えに弱体化するリスクを負っているからでもある。
「───あら、"お使いさん"じゃない!
牛も鶏もイイのが上がってるんだけど、ディナーにいかが?
お屋敷の人達みーんな、ステーキが好物だったわよね?」
「───やっと見付けた、"助手さん"!
前に貰った薬なんだけどさ、あれから凄く調子が良くてね。
前の倍の量を追加でほしいと、お願いに来たんだ。」
「───こんにちは、"ローガンさん"。
今日も今日とて麗しいね。黒が似合うのは勿論だけれど、たまには明るい色のドレスを着てみるのも、悪くないんじゃないかな。
……おっと、失礼。一言余計だったね。
天国にいる大叔父様とやらに、僕の無作法を怒られてしまうかな?」
「───いたいた、"アスラちゃん"。
アスラちゃんが来てるって娘に聞いてね、家を飛び出してきたのよ。
はい、これ。都で流行りだしたお菓子なんですって。このあいだのお礼に、良ければ受け取ってくれないかしら?
……そんな顔をしないで。私たち家族はずっと、貴女と、ブレイクさんの味方。
変わり者だとかって酷いことを言う奴らは、私が代わりにやっつけてやるんだから。」
"お使いさん"、"助手さん"。
"ローガンさん"、"アスラさん"。
アドアストラに対する呼び名も様々で、呼び名の違いは認識の違いに置き換えられる。
「(日に日に名前が増えていくな。
これまでの総数と合わせれば、100通りに迫る勢いだ。
"ステラ"と、愛称で呼んでくれる人は、一人しかいなかったのに。)」
"お使いさん"と呼ぶのは、ローガン家の小間使いとして認識している人。
"助手さん"と呼ぶのは、ブレイクの仕事仲間として認識している人。
"ローガンさん"と呼ぶのは、ブレイクの縁者として認識している人。
"アスラさん"と呼ぶのは、それら全てを包括した上で、一個人として認識している人。
いずれもアドアストラが人間に擬態している時の通り名で、アドアストラの素性を知る者はいない。
中でも"日傘持ちのアスラ"や"星迷いのお使いさん"は、独り歩きしている通り名で、フラフスの外へも伝播されつつある。
「───白服の奴らは……、いないな。よし。」
ユルカの森から暫く行ったところ。
とあるパン屋に面した、路地裏の片隅こそが、アドアストラの目的地。
ここでアドアストラは、定期的に商売をさせてもらっている。
「サムエルさん、こんにちは。」
「おっ、来たね〜。そろそろだと思ってたよ。
いつもの場所に置いてるから、好きに使ってくれていいよ。」
「ありがとうございます。
帰りにチーズを買って行きたいので、ひとつ取り置きしてもらえますか?」
「喜んで。
けど、チーズなら牧場や、直売所なんかで買ったほうが、安く手に入るのに……。」
「せっかくなら、お世話になっている人に貢献したいなと思いまして。」
「嬉しいこと言ってくれるね〜。
偉くて優しいお嬢ちゃんには、新作のパンもオマケしてあげよう。
食べたら感想を聞かせてほしいな。」
「ええ、ぜひ。」
パン屋に借りた椅子に座り、不要になった日傘を畳み、じっと待つこと数分。
うろうろそわそわと、人目を気にしながら路地裏に入ってきた女性が、アドアストラに声をかけた。
「あ、あの……。」
「はい、なんでしょう。」
「"日傘持ちのアスラさん"、ですよね?薬種商をされてるっていう……。」
「はい、そうですよ。
専門は調薬よりも診察のほうですが。」
「えっと、私も診てほしくて……。」
「承ります。
主な症状は?なにを優先的に知りたいですか?」
「実は……。
まだ、確証はないんですけど……。赤ちゃんを身篭っているかも、しれなくて……。」
「なるほど。」
「町の診療所にかかると、家族や近隣の人たちに、すぐに知られてしまうので……。」
「……なるほど。
大丈夫。秘匿性が高いのもまた、ウチの売りですから。
いかな結果になろうとも、ご本人以外にお伝えすることは致しませんよ。」
「は、はい。よかった……。」
「では、必要のものをお預かりします。」
「えっ、それだけ?」
「詳細は紙に書いて頂いたんですよね?」
「それはそうですけど……。」
「十分です。
私は貴女の知りたいことを調べるだけ。貴女の隠したいことを暴きは致しません。
貴女の体に流れる血は、貴女の口から聞くよりずっと、貴女という人を雄弁に語ってくれますから。」
手短な問診を済ませたのち、検体の提出をアドアストラは促した。
女性は手提げのバスケットから手作りらしきポーチを取り出すと、アドアストラに手渡した。
「承りました。
7日後、太陽の沈んだ頃に、また此方にいらしてください。
貴女の知りたいこと、貴女に相応しいものをご用意して、お待ちしています。」
ポーチの中身は、一枚の羊皮紙と一本の小瓶。
羊皮紙には女性のプロフィールとリクエストが書かれており、小瓶には女性の血液が詰められている。
「もし、闇医者さんや。
次は儂の番ということでええかね。」
「"闇医者"という呼び方を改めて頂けるのであれば、どうぞ。」
女性が去ると、別の町人がアドアストラの元を訪れた。
男性に女性、老人に子供。
ひっきりなしにアドアストラの元を訪れては、女性と同じものを預けていった。
「町医者なんかより、君の方がよほど頼りになるよ。
さすが、ブレイクさんのお弟子さんだね。」
今は亡き人間の友、ブレイク・ローガン。
彼はアドアストラに、財産の全てを遺していった。
金銀宝石、屋敷に保管された調度品から、屋敷そのものに至るまで。
そして何より、自らが財を成した方法と、人間社会で生きていく知恵を、教え授けた。
「(なにが"頼りになる"、だ。
町医がヤブと分かるや否や、掌を返してきやがって。
お前とブレイクがどんな関係だったか、私が知らないとでも思っているのか。)」
とどのつまり、"日傘持ちのアスラ"は、ブレイクの軌跡の上に成り立っている。
ブレイクの設けた屋敷に住まい、ブレイクのレシピで薬を作り、ブレイクの築いた人脈を活かして商売をする。
本職のブレイクと比べると調薬の腕は劣るものの、検査の確実性でいえばアドアストラは天下をとれる。
今や噂が噂を呼び、ローガンの人脈になかった新顔をも獲得している。
「(若いから女だからと、それだけで足元を見てくる輩もいる。
いっそ牙を剥いて脅かしてやるか?小便を垂らして恐れおののくに違いない。
実に卑しい、野蛮で狡猾で、醜さを煮詰めたような生き物だよ、人間は。)」
人間。
忌まわしい種族。憎むべき者達。
同胞を殺され、家族を奪われた恨みを、忘れた日はなかった。
約束を破られ、迫害に追われた怒りを、赦せる筈がなかった。
しかし、世界を統べるのもまた、人間だった。
アドアストラに一騎当千の力があったとて、世界を相手に勝てる勝負など存在し得なかった。
「(いや。
必ずしも、すべての人間が醜いというわけではない。
醜い人間がいれば、美しい人間もいる。
吸血鬼でさえ、強く美しいばかりの種族ではなかったように。)」
アドアストラは耐え続ける。
生き延びるためには、人間との共存が不可欠なんだと、自らに言い聞かせて。
募るばかりの恨みと憎しみは息に溶かして、損なわれてゆく誇りと祈りは涙で流して。
アドアストラはただ、忍ぶ毎日を送り続ける。
人間から得た金で、人間の作った物を買って、人間を真似た暮らしを営み続ける。
「せめて、君がいてくれたら。
沸き立つほどの怒りも、ただの小言に変えられたのにな。」
星の瞬く夜空を仰ぎ、アドアストラは呟く。
ブレイクに出会う前の300年余りと、ブレイクを喪った後の10年足らず。
同じ一人を過ごしているのに、後者の方がずっと、アドアストラは孤独だった。