第一話:星いだく乙女
吸血鬼。
ヴァンパイア、ヴァンピールとも。
狼男やフランケンシュタインの怪物などと同様に、世界中で知られる伝承上の生き物。
その存在は口伝等によって語り継がれ、多くの人々に認知されているが、実態を把握できている者は極少ない。
主に挙げられる特性としては、以下の四つがある。
ひとつ、吸血を食事の代用とすること。
ふたつ、人間離れした怪力や、不思議の力を持つこと。
みっつ、眷属と呼ばれる、血縁に依らない独自のコミュニティーを築けること。
そして、忘れてはならない最後の特性。
老化をしないこと。若さを失わないこと。
人々の間ではこれが実質的な不老不死とされ、吸血行為と並んで恐れられる要因となっている。
「───ああ、よく寝た。
なにか長い、楽しい夢を見た気がするが、なんだったか。」
18☓☓年、ヨーロッパ。
ここにも一匹の吸血鬼がいた。
彼女の名前は、アドアストラ・カリブンクルス・ナジ・ドミトレスク。
生き血のような紅い髪と瞳を持ち、小柄な体躯に似つかわしくない低い声で話し、名家の令嬢を思わせるドレスを身に纏った、外見年齢18歳ほどの淑女である。
なぜ少女然とした外見なのに淑女かというと、件の特性が働いているから。
本人の記憶が曖昧なため、正確な数字は不明だが、実年齢は優に300歳を超える長寿なのである。
「今朝は鳥の声が元気だな。
そこらに糞を落としていくのだけは、勘弁しておくれよ。」
アドアストラの一日は、正午に起床するところから始まる。
大の大人が100人は入ろうかという広い寝室にて、これまた広い天蓋つきのベッドから這い出し、あくびと同時に背筋を伸ばすストレッチ。
諸説によると、棺桶の中で寝起きする吸血鬼や、朝日を浴びると灰になる吸血鬼もいるらしいが、アドアストラはこの限りではない。
普通にベッドを寝床とし、昼夜を問わず外出もできる。
ただし、苦手には変わりないので、滅多なことではカーテンを開けない。
ベッドに備えつけの天蓋も、暗さと閉塞感の確保が目的なので、棺桶に近いと言えなくもない。
「今日はどちらの色がいいだろう。
昨日が青だったから、赤にするか。間をとって紫もアリだな。
いや、空が明るいなら、赤のほうが目立たないかもしれない。」
起床の後は、階下に設けられた洗面所へ。
よく磨かれた鏡の前で顔を洗い、炭と香草を混ぜた薬剤で口を濯ぎ、寝間着のネグリジェから普段着のドレスに着替える。
諸説によると、鏡やガラスに映らない吸血鬼や、匂いの強い植物を嫌う吸血鬼もいるらしいが、アドアストラはこの限りではない。
普通に鏡にもガラスにも映るし、ニンニクやスパイスの効いた料理も美味しく頂ける。
ちなみに吸血鬼は、本来は歯磨きが不要な体質。
手入れをせずとも虫歯も口臭も心配ないが、眠気覚ましのついでにアドアストラは歯磨きを習慣としている。
「おはよう、レディたち。ご機嫌うるわしゅう。
今朝の食事はとっておき、新鮮な野菜と麦を合わせたものだそうだ。
こちらも食事にしたいんだが、失礼してもいいかい?」
身嗜みを整えた後は、朝食をとりに厩舎へ。
牛の乳をマグカップいっぱいに搾り、鶏の卵をバスケットに3個から5個集め、それらを生のまま交互に飲み干す。
諸説によると、生き血の代わりとしてトマトジュースや赤ワインを好む吸血鬼もいるらしいが、アドアストラはこの限りではない。
トマトジュースも赤ワインも、見た目が生き血に似ているだけの別物。
そもアドアストラは嗜好のための吸血はしないので、似て非なる別物よりも、元は血である牛乳のほうが糧として相応しいと考えている。
「───いつもと変わらない朝。
きっと今日も、昨日とさして変わらない、平和で退屈な、いつもの一日になるに違いない。」
ここまでが、アドアストラにとってのモーニングルーティン。
日によって多少の差異はあるが、アドアストラは毎朝このルーティンを続けている。
「なあ、"ブレイク"?」
メインホールの大階段、踊り場に掲げられた一枚の肖像画。
そこに描かれた初老の紳士を、アドアストラは仰ぎ見た。
紳士の名前は、ブレイク・ローガン。
この屋敷の元主人にして、アドアストラの数少ない友人でもあった男である。
"───なんてことだ、なんてことだ!
尖った耳、鋭い牙、青白い肌に真っ赤な瞳!
間違いない、吸血鬼だ!半世紀を生きて漸く、本物の吸血鬼にお目にかかれた!"
ヨーロッパ諸国ではかつて、魔女狩りに並び、吸血鬼狩りも盛んに行われていた。
吸血鬼の特性を恐れたり妬んだりした者たちが、人類の敵になる前にと早合点をしたためである。
アドアストラも、この吸血鬼狩りの対象だった。
どこへ逃げて隠れても、誰に頼って訴えても、どこかで誰かに刃を向けられた。
いつしかアドアストラは疲れ果て、朽ちるままになればいいと諦めた時だった。
人里離れた深い森にて、死に場所を求め彷徨った末に、ブレイクと運命的な出会いを果たしたのである。
"───助けた?お前が?"
"その通りにございます!
昨晩はやけに森が騒がしくてですね、何事かと様子を見に行ったところ、そちら様が行き倒れておられまして!"
"説明になってない。
弱った吸血鬼を見付けたらば、当局に連絡して然るべきだ。
何故そうしなかった。"
"何故、と申されましても。
当局なんぞに差し出して、吾輩になんの益がありましょう。"
"懸賞金が出るはずだ。
一生遊んで暮らせる額と聞いた。"
"あいにくと、一生を暮らす額は既に貯えております。
端金を掴まされるより、憧れの存在と言の葉を交わすほうが、吾輩には有意義に思えたのです。"
"……危険だとは、思わなかったのか。
起き抜けに襲いかかって、お前が干からびるまで血を吸い尽くすとか。"
"本望です。
なんなら、今からでも吸います?干からびるまで。"
"いい。
お前の血はなんだか、胸焼けがしそうだ。"
"なるほど。
つまり、カップ一杯程度なら問題なしと。"
"は?"
"先程ですね、そちら様が魘されている間にですね、気付けくらいにはなるだろうってことでですね、吾輩の左腕を裂いて出した血をですね───。"
"お前のほうが重傷ではないか!"
ブレイクは世にも珍しい、吸血鬼に理解のある人間だった。
吸血鬼の特性を恐れず妬まず、あわよくば眷属になりたいと望んでさえいた。
故にこそ人界に馴染めず、人里離れた深い森にて、屋敷を構えた。
人間の悪意に晒されないように、人間の思惑に巻き込まれないように。
いつか本物の吸血鬼と出会えた時、ゆっくり語らうために。
"───いかがでしょう貴女様!
この着丈とか、貴女様の美しい御御脚が映えて大変に扇情的かと!"
"仮にも憧れの存在になんてこと言うんだ。
そもそもお前、なんでお前が選ぶ服はこう、無駄に装飾が多いんだ。"
"おや、気に入りませんか?
では次は、もう少し控えめな、貴女様の美貌がより引き立つ服を選んで参ります。"
"そういうのじゃなくて、もっと動きやすい、農民とかが着るような───。"
"ああっと夕食の時間だ!
今宵は血の滴るステーキ肉をレア中のレアに焼いて差し上げます!
食後のデザートは、吾輩特製ミルクドリンクでよろしいですかな?"
"……うん。"
"───じゃじゃーん!見てくださいお嬢様!
なんと!麓の町に!彼の大人気小説が売られていたのです!
いくぶん値は張りましたが、国を跨がず済んだのは、むしろ重畳というもの……。"
"前から疑問なんだが、お前のその無駄金はどこから湧いてくるんだ?
確か、一生暮らせる額だとか言っていたよな。"
"おや、覚えていてくださったのですね。
実は吾輩、こう見えてちゃんと働いているのですよ。"
"えっ。"
"えっ?まさか世捨て人だと思われてた?"
"だってお前、たまに外出するくらいで、ほとんど屋敷でニタニタしてるだけだろ。"
"確かにニタニタはしておりますが……。
たまの外出こそ、出稼ぎの機会でもあるのですよ。"
"なにをしてるんだ?"
"薬種商です。
頼まれた薬を作って売っています。
町には医者がいますが、あっちは呪いだのなんだの、気休めの類も商売にしているようですから。
一部の庶民の間では、吾輩の薬のほうが信用できると評判なのですよ。"
"……お前を嫌っているくせに、自分たちが困った時だけ、お前を頼るのか。"
"そうですよ。
人間とは、得てしてそういう生き物なのです。
我が身可愛さに、戦いもするし諂いもする。定命の身の性ですかね。"
"そんな奴らと取り引きなんかしなくていい。
食い物なら私が森で獲ってきてやるし、服や靴だって、その辺の人家から掻っ払ってくればいい。"
"……ありがとうございます。
お気持ちだけ、慎んで頂いておきます。"
"───ブレイク。"
"どうしました?ステラ。"
"本当に、無理なのか。
お前の病気は、お前の薬では治せないのか。"
"残念ながら。
私の薬も、所詮は気休めの域を出なかったわけですな。"
"お前で無理なら、もっと高名な医者か薬師を呼んでくる。
もっと栄えた、大きい町に行けば、他にもいろいろ選択肢が───。"
"行かないで。
そんなことしなくていいから、貴女はただ、ここにいてください。"
"……死ぬのが怖くないのか?"
"怖かったですよ、ずっと。
自分は何のために生まれて、生きて、死ぬのか。
何をも為せず、何者にもなれないまま、一生を始めて終えてしまうのが、言葉にならないほど、恐ろしかった。
吸血鬼の眷属になりたいと願ったのも、そのためです。"
"私は─────。"
"いいんです。同情を引きたいのではない。
言ったでしょう?怖かったと。昔の話ですよ。
今はもう、怖くない。価値ある一生だったと、やっと、思えるようになりましたから。"
"……私と二人きりで、退屈じゃなかったか?"
"まさか。
こんなに楽しい毎日を、私以外に知るものですか。"
"妻も子もいなくて、寂しくなかったか?"
"とんでもない。
かけがえのない友達が、私にはいてくれました。"
"……そうだな。
私はお前の、お前は私の、たった一人の、友達だ。"
アドアストラを拾ったブレイクは、大喜びで屋敷に連れ帰った。
食事や寝床はもちろん、必要とあらば高価な嗜好品まで。
アドアストラの望むまま、ブレイクはなんでも施し、与えた。
なにか見返りをとアドアストラが尋ねると、ならば眷属にとブレイクは答えた。
それだけは叶えてやれないとアドアストラが拒むと、それでもいいから友達でいたいとブレイクは願った。
"───ステラ、ステラ。そこにいますか?"
"ああ、ブレイク。ここにいるとも。"
"水を、とって貰えますか。喉が渇いた。"
"水だな。
ほら、これだ。起きられるか?"
"ありがとう。
……ああ、美味しい。すまないですね、いつも。"
"お安い御用さ。
他に何か、して欲しいことはあるか?"
"いいえ、ありません。
少し眠いので、少し眠ります。"
"……なあ、ブレイク。"
"なんですか?ステラ。"
"分けてやろうか、お前に。"
"分ける?"
"お前を私の眷属にしてやろうか、と言ったんだ。"
"おや。
……おやおや、まぁ。これは、また。
一体どういう風の吹き回しでしょう?"
"しばらく前から、考えていたんだ。
お前にだったら、許してやってもいい。
お前と悠久の時を生きるのも、悪くはないと。"
"なんと魅力的なお誘いでしょう。
かつての私だったら、飛び付いたでしょうね。"
"今は?"
"ご覧の通り、私は病人です。私の体には、悪い血が流れている。
私のせいで、貴女を汚したくない。"
"お前は汚くない。私は構わない。"
"私が構うんです。
貴女は長らくの孤独に耐え、純血を貫いてきた。
それはきっと、貴女が真に愛する人を見定めるため。
真の意味で貴女が愛し、貴女を愛してくれる人と添い遂げるためです。"
"お前は、その人になってくれないのか?"
"私は貴女を愛しています。貴女も私を好いてくれた。
しかし、我々の想いは等価ではない。私の愛は畏れを孕み、貴女の情は憐れみを含む。
きっちり等価の愛を示してくれる相手とこそ、貴女は契るべきなのです。"
"そんな相手、お前以外に、見つかる気がしないよ。"
"ステラ、どうか、手を。
手を、握ってくれませんか。"
"ブレイク。
お前が死んだら、私は悲しい。"
"……そんな顔を、しないで。
僕の決意を、未練にしないでおくれ。"
やがて、ブレイクが老いに臥した時。
今なら願いを叶えてやってもいいと、アドアストラは言った。
願いならもう叶えてもらったと、ブレイクは言った。
"アドアストラ。
星いだく乙女よ。
貴女と会えて、良かった。
貴女にも、会えて良かったと思える誰かが、いつか現れてくれますように───。"
かくしてブレイクは息を引き取り、屋敷にはアドアストラのみが残された。
悲しいかな、人間の友を持たなかったブレイクだからこそ、彼の死を顧みる者もなく。
おかげでアドアストラは、窮屈ながらも自由な棲家を手に入れ、たった一匹の吸血鬼生活を謳歌できている。
「いってきます。」
アドアストラ・カリブンクルス・ナジ・ドミトレスク。
かつての日々を偲び、これからの日々を費やすばかりの、誇り高くも寂しがりな淑女。
彼女こそ、世界最後の吸血鬼。
この世で唯一の、純血種なのである。