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ネコズキの里

作者: 甘夏 みかん

 幾つかある林間学校先の中からネコズキの里を選んだ茉冬(まふゆ)。ネコズキの里を上から見ると座っている猫の形をしている。バスを降りて最初に目に入るのは猫耳部分のサビネコ街道。街道を抜けると猫の顔の部分となるクロネコタウンがある。宿泊施設もそこにある為、まずはクロネコタウンに向かう。

 引率教師と里を選んだ数人の生徒と共に街道を進んでいく。草色の絨毯を敷き詰めた大草原はとても心地よくて優しい。人気なんてほとんどなく吸い込む空気も汚れていなかった。ただ、街道には魔物も居ると聞いていたのに見当たらない。都会の魔物と違って好戦的ではなく隠れているのだろうか。

 今回の林間学校の目的は新しい魔物を図鑑に登録すること。腕時計型の魔物図鑑への登録は契約すると自動で行われる。魔物使いが魔物と契約する方法は愛の鞭で魔物を打つこと。一応、打っても魔物が痛くないよう設計されているらしい。が、仲間になる魔物だから手加減するように授業で習った。


 新しい出会いに心を躍らせながら到着したクロネコタウン。里唯一の町だからか、家がたくさん建ち並び、商店もある。町の中に入ろうとした刹那、美少女が此方に向かってきた。風光明媚な景色が霞むほど眩く美しく可愛い整った容姿だ。

 ただし、緩く波打つ腰まで伸びた金髪の上には二つの狐耳。梔子色の指貫に隠れた尾骶骨から九本の尻尾が伸びている。どこからどう見ても人間ではない。恐らくこの里の魔物だ。襲の色目が紅の匂いの単衣や梔子色の指貫、真紅の袿など。洋服を着ている町民との差で別の種族感を醸し出している。


 だが、町中に居る魔物を見ても町民達に焦りや不安はない。それでも魔物は魔物だ。このまま放っておけば危険だろう。それに、初めて見る魔物なのだから、是非とも契約したい。他の生徒も同じ考えなのだろう。愛の鞭を片手に身構えた。買ったのか貰ったのかトマトを入れたカゴを持つ美少女は。目をパチパチと瞬いて、不思議そうにキョトンとしている。隙だらけな九尾の狐に鞭を打とうと生徒達が一斉に動いた。


 と、驚いていた九尾の狐が金色に輝く双眸を妖しく眇める。刹那、ブワッと真正面から風が吹きつけてきて目を閉じた。風が止んだ頃に瞼を開けると、九尾の狐が飛びついてくる。尻餅を突いた茉冬の背中に両腕を回してギュッと抱き締め。上機嫌にスリスリと胸板に顔を擦り付けて擦り寄ってきた。

 先程会ったばかりの人間に対してするような行動ではない。どういうことかと九尾の狐に尋ねる為、口を開こうとする。が、それよりも先に九尾の狐が両手で茉冬の右手を掴んだ。そのまま掴んだ手を頭に乗せてグリグリと擦り付けてくる。撫でてほしいのだろうか? 茉冬は試しに恐る恐る撫でた。

 九尾の狐が一瞬だけ瞠目した後、嬉しそうに顔を綻ばせる。気持ちよさそうに目を細める彼女の姿に庇護欲を刺激され。ふにゃりとした柔らかく無邪気な笑顔に愛しさが芽生えた。もっと可愛らしい笑顔が見たくて。もっと甘えてほしくて。他に何かしてほしいことはないか? そう尋ねようとする。


 途端、視界がぐにゃりと歪んだかと思えば青空を見ていた。立っていたはずなのにいつの間にか地面に横たわっている。何が起きたのか分からなくて何度も目を瞬いていた茉冬に。九尾の狐が「おれを甘やかしたいの?」と問いかけてきた。上から覗き込んでくる彼女は先程までと違い甘えてこない。なにがどうなっているのか。混乱する茉冬に教師が言った。


「貴方は九尾の狐の妖術で欲望を叶える幻を見ていたのよ」


 茉冬は「幻!? あれが!?」と、目を見開いて驚嘆する。違和感はあったが、術に嵌ったことに全く気づかなかった。よく見れば、他の生徒達はまだ目を閉じて気を失っている。恐らく、いまだに欲望が叶う幻を見せられているのだろう。では、何故。茉冬だけ幻術から脱出して現実に戻れたのか。


「君だけ他と違っておれと仲良くなる幻を見てたからだよ」


 視線で問いかけた茉冬のそばに屈みこみ九尾の狐が答える。どうやら妖術をかけた本人は幻を見ることができるらしい。他の生徒達がどんな幻を見ているのか気になりチラ見する。そんな茉冬の唇に猫の顔の形をしたトマトで触る九尾の狐。


「おれの今日の晩御飯だけど特別に一個だけ食べていいよ」


 そう言ってトマトを渡し自分も新しいのを一つ口に運んだ。トマトを渡す程度には茉冬に心を許してくれているらしい。もぐもぐと美味しそうにトマトを食べる彼女は隙だらけだ。愛の鞭を打つ好機だろうが、何となく不意打ちは嫌だった。きちんと九尾の狐の了承を得てから優しく打ってあげたい。そんなことを思ってしまうぐらいには茉冬も絆されていた。


「食べないの? 食べないんだったらおれが貰っちゃうよ」


 トマトを食べ終えた九尾の狐が茉冬の顔を覗き込んでくる。かと思えば、茉冬が持つトマトにあむっと齧り付いてきた。しかも、齧った場所は、渡す際、茉冬の唇に触れた場所だ。なのだが、我が子を愛おしく思う親のような感情だからか。全然恥ずかしくなんてなく、むしろもっとあげたくなった。ということで、食べかけのトマトを九尾の狐にお返しする。「要らないの?」と目で問う彼女に「君が食べな」と告げ。嬉々として二個目のトマトを食べ始めた九尾の狐に言った。


「君と契約がしたい。けど、君が嫌がることはしたくない。でも、どうしても君が欲しいから、我慢もできそうにない。だから俺と契約したくないなら遠くへ行ってくれないか?」


「おれがもし契約したい場合は此処に残ってれば良いの?」


「えっ!? う、うん。此処で、愛の鞭を打たせてもらう」


 予想外の言葉に期待と不安を混ぜた瞳で首を縦に振る茉冬。九尾の狐が二個目のトマトを綺麗に食べ終えて立ち上がる。


「ケイヤク? してもいいよ。おれは何をすれば良いの?」


「あ、ありがとう! そこに立ってこの鞭を受けてほしい」


「うえぇ、痛そう。おれ、初めてだから痛くしないでね?」


「わかったから、誤解を招きそうな言い回しはやめようね」


 ぱあっと顔を明るくさせた茉冬は愛の鞭を片手にツッコむ。九尾の狐は「誤解?」と純真無垢な表情で首を傾げていた。綺麗で色気溢れていて、けど可愛くて無自覚に煽るなんて。貞操が心配すぎて契約したら過保護が増してしまいそうだ。

 なんて未来に不安を抱きつつ愛の鞭で九尾の狐を軽く打つ。愛の鞭を打った際、「あれ?」と不思議そうにしていた故。予想に反して全く痛くなかったのだろうと胸を撫で下ろす。


「公民館に着く前に魔物と契約できるとは幸先がいいわね」


 幻にかかることなく遠くで見守っていた教師に褒められる。十五歳にもなって女性から頭を撫でられて何だか照れ臭い。すると、それを見上げていた九尾の狐が茉冬の手を掴んだ。幻で見たのと同じように頭上に乗せた手に擦り付けてくる。

 茉冬は撫でてほしいのだと察して左右に手を動かしてみた。九尾の狐が「ふへへ」とご満悦な様子で破顔してはにかむ。幻術よりも遥かに可愛くて持て余すほど愛しさが込み上げ。茉冬がわしゃわしゃと飽きることなく金髪を撫で続ける中。


「悪いけど、他の生徒達の幻術を解いてもらえないかしら」


 と、教師が申し訳なさそうに眉尻を下げて割り込んでくる。「そういえば、まだ幻術の中だった」と思い出した茉冬は。早速、九尾の狐に指示を出して皆の幻を解こうとした矢先。指示に必要な名前をまだ聞いていないことに気付いて聞く。

 「夏梅(なつめ)」と答えた九尾の狐に改めて幻術を解くよう告げる。瞬間、地面に転がっていた生徒達が、一斉に目を覚ました。キョロキョロと周囲を見渡し九尾の狐を見つけてガックリ。どうやら今までの出来事は夢だったんだと気付いたらしい。


「この子は茉冬くんが契約したことだし、皆は諦めなさい。さぁ、いつまでも寝転がってないで早く宿泊先に行くわよ」


 引率教師が手を叩いて色々な意味で項垂れる生徒を起こす。いよいよクロネコタウンに入るというところで夏梅が言う。


「じゃあ、おれは家に帰るから困ったらいつでも呼んでね」


 トマトを早く持って帰る為か手を振りつつ駆け足で去った。最早可愛らしい子供にしか見えないが、足の速さは異常で。やっぱり人間ではなく魔物なのだと改めて思い知らされる。


 宿泊施設はクロネコタウンに入ってすぐのところにあった。宿泊先の公民館は意外にも広く綺麗で都会に負けていない。きちんと設備も整っていて、個室も全員分用意されていた。公民館の管理人に「お世話になります」と挨拶して部屋へ。

 茉冬はスーツケースを置いて入浴に必要なものを取り出した。時刻は既に夕方。公民館に着いた後はすぐ入浴時間だった。間違っていないか念の為しおりを確認した後、立ち上がる。鼻歌を歌いながら部屋を出ようとするよりも先に開くドア。


 勢いよく開いたドアの向こうに居たのは夏梅と新しい魔物。後ろで一つに結んだ肩甲骨まである焦茶色の髪と同色の瞳。額から生えた鋭利で大きく立派な二本の角と酒気漂う瓢箪。黄緑色の単衣と緋色の指貫の上から桃色の狩衣を着ている。腕時計型の図鑑を起動し調べてみると名前だけ載っていた。角や瓢箪から察するに、この魔物は酒呑童子というらしい。何故か焦茶色の瞳の奥でメラメラ怒りの炎を燃やしていた。


「見つけたで! お前が夏梅ちゃんを誑かした奴やな!?」


 怒髪衝天の酒呑童子がビシッと人差し指を突きつけてくる。その後ろで夏梅がごめんと言わんばかりに両手を合わせた。何度、違うと説得しても、聞いてもらえなかったのだろう。まさか公民館の中で戦闘でも開始するつもりなのだろうか? 管理人に迷惑がかかるから、出来れば外で戦わせてほしい。というか、早く何とかしなければ、入浴の時間がなくなる。そもそも、どうして公民館内に魔物が入ってきているのか。ネコズキの里の人達は魔物と共存でもしているのだろうか。


「おっと、戦う準備万端やな。けど俺は戦いは苦手やねん。別の形でお前と夏梅ちゃんの関係を解消させてもらうで!」


 愛の鞭を持った茉冬にそう宣言しどこかに向かう酒呑童子。何をするのか気になるのか後ろを夏梅が追いかけて行った。取り敢えず、戦闘にならずに済んで、ホッと胸を撫で下ろす。そして、風呂に入る為、必要なものを持って浴室に向かった。広い露天風呂には既に髪等を洗い終えた生徒達が揃っている。茉冬は手っ取り早くシャワーを浴びてさっさと風呂場を出た。

 妙に強い酒気を帯びた新しい類の露天風呂は気になるものの。不特定多数の人間が入った湯に入りたくない性分なのである。備え付けのバスタオルでササっと全身を拭いて浴衣に着替え。自動販売機で牛乳を買おうとしたら酒呑童子と夏梅に会った。自動販売機の横に置かれた長椅子に座って牛乳を飲んでいる。と、茉冬に気付いた酒呑童子が立ち上がり大股で近付いた。


「何で立派な露天風呂があるのに入らんと出てくんねん!」


胡春(こはる)、他の人達が泥酔してるんじゃない? 助けにいこ」


「人間なんて放っておいてええ気がするけど助けに行くで」


 こめかみにピキッと青筋を浮かべ不平を鳴らす酒呑童子は。クイクイと着物を引っ張った夏梅に連れられて浴室に行った。どうやら茉冬用に露天風呂に何か仕掛けをしていたらしい。人間なんてどうでもいいと言いつつ助けに行くとは優しい。他の人たちを巻き込んでしまった申し訳なさに背を押され。茉冬も牛乳のことは諦めて来た道を引き返し救出に向かう。

 順番に部屋のベッドに運んだ後、先生を読んで診てもらう。皆、酒気に当てられて泥酔し気を失っているだけのようだ。まだ全員十五歳の子供とはいえ一瞬で泥酔状態にするとは。一体、酒呑童子と夏梅は、露天風呂に何をしたのだろうか。このまま悪戯を続けられると不味い。早々に見つけないと。茉冬は二人の行き先に見当をつけながら、食堂へと向かう。


 入浴の後は食事の時間。男子生徒は茉冬以外、来ていない。女子生徒に囲まれながらの居心地悪い食事を手早く済ます。水も飲まず料理をかき込んで食器や盆を片付けていた矢先。教師を含めた食堂に居る全ての人達が次々と倒れて行った。椅子から落ちた人達は皆、目をグルグル回して泥酔している。まさか酒呑童子の仕業だろうかという予想通り本人が登場。プンスカと怒り悔しそうに地団駄を踏みながら不満を吐露。


「何でご飯中も終わった後も水飲まへんねん! 飲めや!」


「胡春、男湯に入ってなかった女の人達も倒れちゃったよ」


「人間なんてどうでもええけど仕方ないから介抱したる!」


 死屍累々な食堂を指差す夏梅と共に酒呑童子が介抱に行く。どうでもいいなんて言いつつ介抱するとはやっぱり優しい。けど、これ以上、他の人達を巻き込む悪戯を放置できない。二人ともいい子だから話し合いで解決できるかもしれない。茉冬は介抱を手伝った後、一人になる為、部屋に向かった。部屋に一人で居れば、多分誰も巻き込むことはないだろう。しおりで明日の予定を確認していると、勢いよく開くドア。怒り心頭の酒呑童子が、栓を開けた瓢箪片手に迫ってきた。


「記憶を消したいのはお前だけやのに姑息な真似しよって。こうなったら、無理矢理にでも瓢箪の酒を飲ませたるわ!」


「ちょ、ちょっと待って。記憶を消すってどういうこと?」


 あっけらかんと恐ろしいことを言われた茉冬は慌てて聞く。いい子だし可愛い悪戯しかしないと思って油断していたが。ただ泥酔するだけではなく記憶を失うならば話は別だった。夏梅と出会った時の大事な記憶を消される訳にはいかない。得意満面な表情で胸を張った酒呑童子がご機嫌に説明する。ようやく茉冬を焦らせることができてご満悦なようだった。


「これを飲んだら、泥酔した挙句、前後の記憶を失うんや」


「大酒呑みの酒呑童子は平気だから泥酔すらしないけどね」


「フフン、凄いやろ? もっと褒めてくれてええんやで?」


「胡春、凄い! よっ、酒豪! 強すぎる! カッコいい!」


「よし、気合が入ったし、夏梅ちゃんとの記憶を消すで」


 本人は瓢箪の酒に酔わない補足を入れた夏梅に褒められ。両手を腰に当てて自信に満ちた誇らしげな顔をする胡春。有頂天になったかと思えば、やる気を漲らせてしまった。夏梅が思わず「あれ?」と声を漏らして首を傾けている。その反応により、夏梅は茉冬と縁を切りたくないと予測。ならば、彼と契約して二人一緒に居られるようにしよう。瓢箪を持ち迫ってきた胡春に押し倒されながら案を練る。


「分かった。なら夏梅を呼ぶ時は君も必ず呼ぶと約束する。だから、もしも君がよかったら俺と契約してくれないか?」


「嫌や。俺との契約は諦めて大切な夏梅ちゃんを解放しろ」


「うーん、それはできないな。俺にとっても大切だし……」


「なら、やっぱり記憶を消して契約を破棄するしかないな」


 必死に考えだした作戦は、間髪入れずに断られてしまった。余裕の色を取り戻した風を装う茉冬に瓢箪を近付ける胡春。これを飲んでしまったら泥酔するだけじゃなく記憶も失う。挙句、胡春に勝手に夏梅との契約を解除させられてしまう。絶対に飲むわけにいかないのに鼻を摘まれて息ができない。身体が足りない酸素を求めて徐々に口を開きかけたその時。


「待って、胡春。おれ、茉冬とケイヤク? したままがいい」


「人間と契約することの意味も分からん子にはまだ早いわ」


「うっ。わ、わかるもん! 仲良くなるってことでしょ?」


 夏梅が胡春の着物を控えめに掴んで上目遣いで首を傾ける。胸を撃ち抜く可愛らしい仕草により胡春の動きが止まった。だが、フンっと鼻を鳴らして煽る胡春に、夏梅が押される。契約の意味を聞かれて口ごもった夏梅が出した答えは微妙。茉冬が見せられた幻術にだいぶ引っ張られてしまっていた。同じ判断をしたのだろう胡春は楽しそうに夏梅に罰を送る。


「はい、ざんねーん。合ってるようで違うから間違いです」


「おれ、茉冬と友達やめたくないよ。どうしても、だめ?」


 間違ったことより茉冬と契約を解消されることが嫌らしい。しょんぼりと伏せた双眸を不安と涙で揺らして訴える夏梅。大好きで大切な女の子に上目遣いと涙目で嫌だと訴えられ。胡春が「ぐっ」と茉冬の上に乗ったままの身体を軽く引く。「あー」とか「うー」と唸りながら悩みに悩み抜いた結果。茉冬の上から退いた胡春が瓢箪の酒を夏梅の方へと向ける。


「くっそー、俺の夏梅ちゃんをこんなにも誑かしよって! こうなったら、夏梅ちゃんの記憶をなくすしかないやん」


「やだ! やぁだぁ! 胡春のばか! おれ、お酒やだ」


「駄々っ子になっても可愛いだけやで。ほら、飲んでや」


 駄々をこねて泣く子供みたいな口調で飲酒を嫌がる夏梅。そんな彼女を押し倒した胡春が瓢箪を口に近付けていく。ジタバタ暴れて重ねた単衣がぐちゃぐちゃになっていた。それでも男女の差で抑えつけられて動けなくなっている。だが、胡春も夏梅だと無理矢理は飲ませられないらしく。眉尻を下げた泣きそうな顔で「飲んで」と懇願している。

 大切な人が人間と契約したことで余程焦っているようだ。不安と焦燥を混ぜた顔で飲酒を乞う胡春に夏梅が負ける。大切に思っていることが伝わってきたからこそだろうか。夏梅は意を決した顔で瓢箪を受け取り口に近付けていく。だが、憐憫の情は浮かぶものの茉冬だって負けられない。このまま夏梅の記憶が消えて堪るかと瓢箪をひったくる。


「夏梅から俺の記憶を消すぐらいなら俺から記憶を消す」


「よく考えたら、記憶を消しても契約の消し方知らんわ」


「何だそりゃ!? 無駄に飲み干しちゃったじゃねぇか」


 硬い顔でカッコつけたのに台無しにされて瓢箪を投げた。あっけらかんと言った胡春が落ちて割れる前にキャッチ。栓を開けたまま投げてしまった茉冬は、一応謝っておく。瓢箪の中に入った酒は飲んでも飲んでも減らない仕組み。

 つまり、謝る必要なんてこれっぽっちもないと言う胡春。結果、茉冬が酒を散らばした床を掃除するだけで済んだ。だが、動こうとした瞬間、ぐらりと身体が傾いて倒れる。視界が霞んでいき、意識を保っていられず、眠気に負けた。


 翌朝、目覚めたら、昨日のことは綺麗さっぱり忘れていて。何があったか思い出せないのに契約していた夏梅を呼んだ。夏梅の幻術で、思い出したい欲が叶い、思い出すのに成功。と同時に、物凄い速さで飛んできた胡春が夏梅を抱き締め。

 「夏梅ちゃんを連れて行くなら俺も連れて行け」と迫った。契約できる魔物が増えるなんてありがたいことこの上ない。よしっと喜んで、遠慮なく愛の鞭を叩き込み、契約を完了。すると、叩かれたお尻を抑えた胡春が、何故か睨んできて。


「お前、まさか夏梅ちゃんの可愛いお尻も鞭で叩いたんか。言っとくけど、立派なセクハラやからな。警察に訴えたる」


 なんて、とんでもない誤解をされ、変態扱いされてしまう。今後の為に奮闘したものの、解くのにかなり時間を有した。


 記憶を取り戻して誤解を解いた後、公民館を出発した茉冬。教師の引率で訪れた場所は猫の首部分となるシロネコ河原。クロネコタウンを出てすぐの場所に位置しており、大きい。此処ならば水辺に住む魔物と出会えそうだ。ということで。早速、自由行動になった生徒に混ざって茉冬も探索をする。

 透き通った水の中を覗いてみたり端の方まで行ってみたり。九尾の狐や酒呑童子みたいに珍しい魔物が居ない確認する。何も収穫がなく端から戻ってくると、ゴミ拾いをしていた。魔物を探す素振りを見せず、一心不乱にゴミを漁っている。


「何で来たことない河原に来てまでゴミ拾いしてるんだ?」


「どうやら、人魚の歌声に魅了されてしまったみたいやな」


秋菜(あきな)は妖術で歌声を聴いた人間の心を魅了できるんだよ」


 どこからともなく現れた胡春と夏梅が理由を教えてくれた。商店で買ったらしいお肉や野菜を入れたカゴを持っている。何で歌声で魅了した人間たちを操ってやることがゴミ拾い? と茉冬が秋菜という名前らしき人魚の行動に疑問を抱く中。夏梅が「こっち、こっち」と茉冬の手を引っ張って走った。後ろから胡春にものすごい嫉妬に塗れた顔で睨まれている。人魚は夏梅と共に河原を走った先、大きな川の中央に居た。

 水に浸っている絹糸のように真っ直ぐな黒髪と黒色の双眸。大きな胸を包む綺麗な貝殻にヒラヒラとした薄桃色の羽衣。水の中に沈んでいる下半身は、恐らく魚の尻尾なのだろう。そして、夏梅と胡春同様に見目麗しい容姿をしている。人魚は魅了した生徒達に河原のゴミ拾いをさせ続けながら。夏梅と胡春に気付いて、満面の笑みで近くまで泳いでくる。美しく綺麗な微笑は主に夏梅に向けてのものだったらしい。歓喜を溢れさせ水に引き摺り込む勢いで夏梅を抱き締める。


「夏梅に胡春。随分、人間と仲良しじゃねぇか。何者だ?」


「あのね、おれと茉冬はケイヤクしてるから友達なんだよ」


「契約だと? おい、胡春! 何で夏梅を止めねぇんだよ」


「契約を解除させようと頑張ってんけど無理やってんもん」


 えへへと照れ臭そうな嬉しそうな夏梅の説明を聞いた途端。彼女を腕の中に閉じ込めたままの秋菜が胡春を睨め付ける。胡春は昨日の出来事を思い出したか頰を膨らませて拗ねた。確かにクロネコタウンの公民館で夏梅の為に頑張っていた。結局、契約を解除する方法が分からなくて断念していたが。夏梅の幻術で見た光景を思い出し茉冬は顔を引き攣らせる。すると、秋菜がやれやれと言わんばかりの顔で溜息を吐く。


「仕方ねぇなぁ。あたしが二人とも魔の手から救ってやる」


 薄々、そんな予感がしていた為、乾いた笑みを携える茉冬。どうやらこの人魚、人間の事が嫌いなタイプの魔物らしい。夏梅は普通にクロネコタウンの商店で買い物までしていた。胡春だって公民館に勝手に入ってくる程度には良好だった。此処に来て初めて人間への敵対心を持つ魔物の登場である。秋菜が夏梅を離し顎をくいっと持ち上げて口の端を上げた。


「あたしと夏梅、どっちがその人間を魅了できるか勝負だ。もしも、夏梅が負けたら、二人との契約を破棄してもらう」


「うぇぇ? 魅了って言っても、一体、何すれば良いのさ」


「夏梅ちゃんやったらそこに立ってるだけで充分やけどな」


「正直、あたしもそう思うが、簡単には負けてやらねぇぜ」


 二人が困ったように小首を傾ける夏梅に適当な助言をする。否、彼女の麗しい容姿なら適当だと言い切れない気がした。本当に立っているだけで異性も同性も魅了できそうである。

 閑話休題。そんなことよりも、契約した魔物が離れる危機。魔物使いとしては、折角、契約した二人と別れたくはない。だというのに、茉冬が口を挟む隙もなく決まった勝負と罰。


「凄い。俺が一言も口を挟んでないのに、勝手に話が進む」


「どうせ全部却下するし人間の意見なんざ要らねぇからな。どんな奴だろうと歌声を聞けばみーんな虜になっちまって、どんなに酷い仕打ちをされても言うことしか聞けなくなる」


 心の中の言葉がうっかり溢れた茉冬にニヤリと微笑む秋菜。黒い瞳に妖しい光を滲ませた秋菜が小さく息を吸って歌う。綺麗に奏でられる歌声が耳に届いた途端、ボーッとする頭。視界に魅力的な歌を紡いでいる人魚の姿しか映らなくなる。

 フラフラと足が勝手に妖艶に笑う人魚の方へと進みだした。刹那、茉冬の右の腕に誰かがギューっとしがみついてくる。其方に目を向けたいのに人魚から目を離すことができない。完全に魅了された脳内に夏梅の切なくて淡く儚い声が届く。


「やだ、秋菜のところに行かないで。おれのそばに居てよ」


 瞬間、脳内がスッキリし視線も自由に動かせるようになる。茉冬の右腕にしがみついているのは、予想通り夏梅だった。仄淡い焔が揺れるような不安げな瞳で茉冬を見上げていて。

 まるで置いてけぼりにされた子供のように寂しそうな顔だ。こんな顔で先程の台詞を響かせたなんて庇護欲が駆られる。魅了から解放された身体で力強く抱き締めて、頭を撫でた。


「安心して。俺が夏梅のそばから離れるわけないんだから」


 夏梅が「うん」と少しだけ泣きそうな声で胸板に擦り寄る。大事な友と離れ離れになるかもしれない恐怖で震えていた。そんなに大切だと思ってもらえていることに歓喜が溢れる。

 持て余すほどの喜びが心の中で渦巻き、自然と口を緩めた。今すぐ舞い上がりそうなほどの喜悦に包まれて幸せな茉冬。そんな茉冬にジトッとした半眼を突き刺した胡春が呟いた。


「今、人魚の歌声に魅了されて、離れかけとったけどなぁ」


「一度魅了されても夏梅の声で正気に戻ったから問題なし」


「あたしの魅了の妖術を解くとは流石の可愛さだな、夏梅」


 親指を立てた茉冬を鼻で嗤った秋菜が美しい歌を再開する。鼓膜に吸収されると同時、茉冬の頭が真っ白になっていく。またもや、勝手に動きだした足が人魚の方に進んでいった。

 夏梅がてってってと海に向かう茉冬へと小走りで駆け寄った。正面に移動して茉冬の両頬に両手を添えて自分を見させる。花が咲き綻ぶような柔和で人懐っこさを感じられる笑顔だ。

 既に魅了から身体が解放されかかっているのかときめいた。ドスっと太い矢で心臓を貫かれたみたいに痛みが駆け巡る。と、夏梅が蜂蜜みたいに甘みのある声色で愛の言葉を紡ぐ。


「おれ、茉冬のこと大好きだよ。だから、こっち向いて?」


「俺も大好きだよ、夏梅。何回魅了されたって戻るからね」


「夏梅ちゃんが居ないと無理やし諦めた方がええんちゃう」


 告白に答えた茉冬に冷めた視線を突き刺して釘を刺す胡春。寒すぎる茶番でも見ているようなどうでも良さそうな目だ。好きだと言われ喜びながら飛びついてきた夏梅を抱き締め。茉冬はケッとつまらなさそうな顔をする胡春に問いかける。


「何か胡春、俺に冷たくない? 俺から解放されたいの?」


「当たり前やろ。俺の目標は夏梅ちゃんと俺の解放やもん」


「解放したら困るからそろそろ諦めてもらってもいいかな」


 胡春の辛辣な答えを聞いた茉冬は苦笑を頰をに含ませる。ネコズキの里に来て初めて契約した二人と別れるなんて。そんな周りに笑われそうな哀愁漂うこと絶対したくない。茉冬にとってもう夏梅だけでなく胡春だって大切なのだ。そんな本音を、優しく微笑みかけながら訴えかけてみる。胡春がチッと舌打ちをしてからカゴから何かを取り出した。ニヤリと悪戯っぽく口の端を吊り上げて秋菜に目を向ける。


「まあ、そろそろ飽きてきたし秋菜もこっち来てもらうで」


「あたしに何をす……むぐっ!? んむむ、むぐぅむむ?」


「今や、夏梅ちゃん! ドカンと一発、強烈なんいったれ!」


 猫の顔の形をしたトマトを投げつけて夏梅を焚き付ける胡春。トマトで口を塞がれて歌を止めた秋菜に魅了の技は使えない。今の内に一撃を入れて茉冬をメロメロにすることができれば。秋菜に歌って魅了し返されることもなく、夏梅の勝ちになる。

 胡春の意図を汲んだ夏梅が茉冬の手を両手でギュッと握った。溶かされるんじゃないかと思うほど熱くて甘い視線を浴びせ。こっちが恥ずかしくなるような恋慕を滲ませた笑みを浮かべ。嘘偽りなどない本音だと一目瞭然なほど真剣な瞳で吐露した。


「おれ、茉冬がそばに居てくれるなら、何だってしてあげる」


「そんな危ない言葉を異性に平気で言うんじゃありません!」


 必死な感じを溢れさせた扇状的で魅力的な提案をする夏梅に。父性みたいなそんな気持ちをこれでもかと芽生えさせた茉冬。当然ながら夏梅への劣情よりも守りたい気持ちの方が勝って。馬鹿みたいに溢れかえった心配に背中を押されて抱き締める。

 ギューっとどこにも行かせないと言わんばかりに閉じ込めた。夏梅はいきなり抱擁され少し驚いたように目を瞬いていたが。茉冬の匂いが好きなのか肩口に顔を埋めてスリスリし始めた。そんな二人を嫉妬と微笑ましさを含んだ顔で見守る胡春。口に入ったトマトを食べ終えた秋菜の方を見て勝ち誇る。


「なんかちょっと違う気もするけど、これも一つの魅了やな」


「分かった、あたしの負けだ。煮るなり焼くなり好きにしろ」


「いや、契約したいだけで、食べたいわけじゃないんだけど」


 茉冬は潔く負けを認めて身を捧げようとする秋菜にツッコミ。うぐぐと悔しそうに嫌そうに歯を食い縛って迷いに迷った後。「分かった、好きにしろよ」と了承した秋菜に愛の鞭を打つ。無事にシロネコ河原でも魔物と契約できてホクホク顔をした。


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