セフ令嬢は鼻が利く
職場の先輩とランチをするために食堂へ向かっている時にハッシュの姿を見かけた。
彼に気付いたのは私ではなく先輩だったけど。
「あら?あの騎士って、時々図書室に来る人じゃない?」
「あ、そうですね」
私も彼の方へ視線を向けて答えた。
ハッシュは仲間の騎士何人かと連れ立って遥か向こう側を歩いている。
「ずっと前にあなた、あの騎士について私に訊ねてきたじゃない?もしかして狙ってんの?」
「えっ?そんなとんでもないっ、私なんてっ」
私は慌てて否定する。
私たちの関係は秘密にするべきものなのだろうから。
先輩はそんな私に対し、眉間にシワを寄せた。
「また“私なんて”って言う。ソレ禁止ね?なんであなたがそんなに自己評価が低いのかは知らないけど、あなたは充分若くて綺麗なんだから自信を持ってドーンッとアタックしなさいよ」
「アタック……」
したんですよ先輩。
そんでもって先輩の言うセフレになったんですよ。
……とは言えない私。
「でもあなたより、向こうの方が気後れするかもね」
先輩の意外な言葉に私は疑問符を投げかける。
「え?どうしてですか?」
「だってあなたは貴族、向こうは平民。我々平民の感覚からすれば貴族相手なんて滅相もないとか思っちゃうもの」
「私のようなナンチャッテ貴族令嬢でもですか?」
「なんちゃって貴族令嬢って何よソレ。男爵家の娘なのは間違いないでしょ。まぁあのダルトンとかいう騎士って真面目なタイプだと聞くから、トラブルが起きるかもしれない貴族令嬢なんかは多分相手しなさそうね……ドンマイ」
「ドンマイ……」
そう言って私はまたハッシュに視線を戻した。
そうか……平民は貴族に対して滅相もないとか思うのか……。
それならどうして、ハッシュは私の相手をしてくれるんだろう。
「勢いの延長かな……」
「え?何か言った?」
「いえいえ。それより先輩急ぎましょう。食堂の席が無くなっちゃう」
「あらヤバほんと、急ぐわよ」「はい」
そう言いながら、私と先輩は王宮の使用人食堂へと急いだ。
◇◇◇◇◇
先輩とそんな事を話した数日後、
いつものように図書室に来たハッシュと今夜会う約束をした。
私はいつも通り市場で買い物をして沢山の夕食を用意する。
今日はミートグラタンとキャロットラペと粒マスタードがアクセントになっているポテトサラダを作った。
きっとハッシュはまた、詰め所でシャワーを浴びてから来るだろうからテーブルに食事の配膳をしておく。
グラスもカトラリーも用意して準備は万端だ。
「でも今日は少し遅い?」
いつも通りに仕事が終われなかったのかしら。
それとも仲間か上官に呼び止められた?
まぁ待つよりほか仕方ない。
私は窓際に置いたテーブルの椅子に座り、窓からぼんやり夕闇に染まってゆく空を眺めた。
しばらくそうしていて、完全に夜の帳が降りる頃になってもハッシュの訪れはなかった。
「料理が冷めちゃうな。一旦引き上げようかしら……」
と思ったその時、ようやく玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間帯にウチに来るのは彼しかいない。
私はいそいそドアを開ける。
ドアの向こうにはやはりハッシュがそこにいた。
「ごめん遅くなって……」
少し息を切らしてハッシュはそう言った。
走って来てくれたのだろうか。
額には薄らと汗が滲んでいた。
「気にしないで。大丈夫?仕事だったの?」
私がそう言うとハッシュは疲れた顔をして答えた。
「王宮を出てすぐの通りを歩いていてお袋に遭遇したんだ。向こうも俺と会うとは思っていなかったらしく捕まって世間話を聞かされた」
「お母さま?ふふ、世間話…いいわね」
「まぁ話くらい幾らでも聞いてやるけど、今日は勘弁して欲しかった……」
それでも話を聞いてあげる優しさがハッシュらしいと思った。
その為に遅くなって走って来てくれたのか。
私と会うから?
私が待ってるから、
だから走ってくれたの?
なんだかくすぐったい気持ちになりながら、ハッシュを部屋へ招き入れた。
「とにかくどうぞ入って」
「うん、お邪魔します」
そう言ってハッシュは私の横を通って部屋の中に入って来た。
その時ふわりと見知らぬ香りが鼻腔に届く。
「……?」
いつもの石鹸の香りではない。
これは……香水の香り?
甘く芳しい香り。
これはおそらくオードトワレではなくパルファム。
私は結構鼻が利くのだ。
お母さまと会ったと言っていたけど、
ハッシュのお母さまはこんな移り香がするほどの香水をつけているのだろうか……。
まぁ……つけている人だっているわよね。
でも何故だろう。
たかだか香水の香りが移っただけなのに。
何故こんなにも落ち着かない気持ちになるのか。
ハッシュが纏ったその香りが、私の心に小さな蟠りを残した。
そしてその小さな蟠りを心に抱えたまま、
私はとある光景を目の当たりにしてしまう。
明らかに年上ではあるものの、あれは絶対に母親でないだろうという女性を腕に絡ませて歩くハッシュの姿を見てしまったのだ。