まほろば
ふと、渡良瀬川が見たくなり、気がつくと東武浅草駅で切符を買っていた。荷物なんて持っていなかった。
「あ、ここ電子マネー使えないんですか」
和人は使い慣れたスマホをポケットにしまうと、呆れたように財布からクシャクシャの千円札を二枚出した。しかし、少し安心もしていた。浅草駅が自分の記憶のままだったからだ。特急りょうもう号は車両も発車時刻も記憶の中とそれと変わっていなかった。和人は地下のドトールでアイスココアを買うと、清掃が終わったばかりのりょうもう号に乗り込んだ。自分の席に座ると、アイスココアを一口飲んだが、それは記憶と違って少し苦く感じた。
りょうもう号は東京、埼玉、群馬、栃木と一都三県を走行する東武鉄道の特急列車だ。日光や鬼怒川へ向かうスペーシアとは異なり、北関東の中小都市と東京を繋ぐ通勤特急としての色が濃い。りょうもう号は浅草から北千住と言った東京の下町を駆け抜けて、東武動物公園駅から東武伊勢崎線の路線に入ると田んぼの中をかき分けるかのように進む。久喜駅を出ると、余計だ。街灯の数も減る。館林駅を出ると暗闇の中を貫くように走ることになる。足利市駅到着直前、高架へ上がる時になってようやく街灯が出現する。目的地である栃木県足利市は人口十六万人で栃木県では比較的大きい町であり、その玄関口である足利市駅はそれなりに乗降客のいる駅である。浅草駅から足利市駅までおよそ八十分かかって和人は人波とともに足利市駅に降り立った。足利市駅の目の前には渡良瀬川が流れている。薄暗いホームからその流れを見た時、和人はなぜか泣けてきた。七年ぶりだった。
誰にも知らせず、突然足利に戻ってきてしまったのだから、泊めてくれるかもしれない友人が足利にいるかもわからない。かといって、実家には帰れない。仕方なく、駅前のニューミヤコホテルのフロントで空き部屋状況を聞いたところ、シングルが一部屋だけ空いているとのことであった。ここも久しぶりに来たら改装していて、想像以上に綺麗な部屋だった。和人はベッドになだれ込むと、自然と眠ってしまっていた。
翌朝、和人はコンビニで簡単に朝食を済ますと、町へ出た。ホテルを出てすぐ、緑色のアーチ状をした中橋から渡良瀬川を見ると、上流の方で雨の日が続いたからだろうか、渡良瀬川の水かさは増していた。和人が見たかった渡良瀬川はこれではない。相変わらず、中橋は渋滞していた。大きなバスが渋滞に巻き込まれていた。桜の絵が描かれたバスは和人が通っていた佐野日本大学学園のスクールバスだった。車内には見慣れた制服を着た学生があの頃と同じように窓にもたれて眠っていた。ただ、和人が卒業した佐野日大中学校は和人が卒業してすぐに閉校し、中等教育学校に変わってしまっていたため制服に馴染みはない。赤いネクタイの高校の制服はあの頃と変わっていなかった。中橋が渋滞してしまう原因の一つが先にある両毛線の踏切である。それほど本数が多いわけではないのだが、朝は通勤・通学のせいでどうしても本数が増えているせいですぐに遮断機が降りてしまう。その上、すぐ先にある信号もすぐに赤になってしまう。和人はその渋滞を横目に見ながら、市街地へと足を進めた。通二丁目の交差点を渡り、少し歩みを進めると鑁阿寺に着く。鑁阿寺は足利市の中心にあり、国宝に指定された本堂は足利学校と並び市の顔である。せっかくならと和人は堀を回って南側の太鼓橋から鑁阿寺に入った。子供の頃、山門両脇の仁王像が怖く、和人は長いこと山門をくぐったことはなかった。今となっては平気だが、顔をあげることはなかなかできなかった。本堂でお参りを済ませると、東門から先程の道に戻り、和人が卒業した「けやき小学校」に到着した。和人が今回足利に戻ってきた理由はこのけやき小学校だ。
十日ほど前、和人が自宅の掃除をしていたら、小学校の卒業アルバムが出てきた。そういえばこんなものがあったと、懐かしさに浸りながらパラパラとめくっていたら、最後のページに、
「卒業十年後の三月一日十時にけやきの木の下で会おう」
と書いてあった。クラスで卒業前に決めたのだろうが、すっかり忘れていた。どうせ誰も行くわけないと軽く見ていた。しかし、その日偶然にもテレビで森高千里が『渡良瀬橋』を歌っていたのが、和人を突き動かすきっかけとなった。急に足利の街並みや渡良瀬川のせせらぎが恋しくなってしまったのだ。
市役所の前を通ってけやき小学校の正門へと回った。二階渡り廊下の壁にかけられた時計が九時五十分を指していた。中庭をまっすぐ進み、右手に下駄箱の並ぶ玄関を、左側に多目的室を眺めながら中庭から校庭へと抜けた。校庭では体育の授業が行われていた。笛を吹いている先生の顔に見覚えはない。和人と同世代のように見えたから、おそらく新人の先生だろう。広い校庭の西側にブランコやジャングルジムの並ぶもう一つの校庭があり、そこにけやきの木がある。樹齢約三百年、太い幹から大きく枝分かれし、その先で何本も枝分かれしている。小学生時代恐ろしいほど巨大だったけやきの木は大人になった今でも相変わらずその威厳をもって和人を迎えた。
十時、思った通り誰も来なかった。体育の小学生がこちらを不思議そうな目で見ている。不審者と思われているかもしれない。早いところ帰った方がいいかもしれないと思って、今度はこの西側の校庭を抜けて正門に戻ろうとした。その時、どこか見覚えのある女性がブランコを漕いでいた。彼女が幾島千波であることはすぐにわかった。千波は和人に気がつくと、ブランコを降り、白いワンピースの裾を靡かせながらゆっくりとこちらに近づいてきた。小学校の頃はもう少しぽっちゃりとしていた印象だったが、今はスラっとして、見違えるような美人だった。だが、あの頃の雰囲気をしっかりと残していた。千波は和人のことをジロジロ見ると、
「もしかして・・・和人くん?」
「ちな、だよね?」
「そうだよー。覚えててくれたんだ。嬉しい。卒業アルバム見て来たんだよね。私もだよ。でも、やっぱり誰も来てないね」
早口で喋るところもあの頃と変わっていない。
「私たちだけだね。やっぱりみんな来ないんだ。みんな薄情だね。とりあえず、久しぶりにあったし、お茶でもしない?」
チャイムが鳴り、休み時間を知らせた。元気な小学生たちが一気に校庭に飛び出してきた。二人は元気に走り回る小学生を横目に見ながら、校庭を抜け、北門からけやき小学校を出て、まっすぐ通学路を歩いた。
「引っ越す前の和人くんの家って、ここら辺だったよね?」
この通学路のもう一本西側の道に和人の生まれた家がある。小学校五年生までそこに住んでいた。
「あの家、楽しかったなあ」
一時期、千波はよく和人の家に遊びに来ていた。二人の家は離れていたが、小学校低学年の頃は、両親が共働きであった千波を和人の家で預かり、六時ごろになると和人の母親が千波を家まで送って行くという生活を送っていた。
二人は通学路の途中にある駄菓子屋の「ふじや」で団子を二つ買うと、店の前にある長椅子に座った。みたらし団子の蜜がとろりと千波の手元に流れ、千波はそれをぺろっと舐めた。
「こうやって隣に座ると小一の時を思い出すね。あの時、和人くんが目が悪いから見えませんって言って前にしてもらって、たまたま私の隣になったんだよね」
「確かそうだった気がする」
「小学校で初めて隣になったのが和人くんだった。それに、私が初めて恋したのも」
和人には垂れる蜜を舐める心の余裕はなかった。和人もそうだったからだ。あの時、これが恋だとは思ってもいなかったが、振り返ってみると、あれが初恋だった。和人はそれからいくつかの恋を経験するうちに、千波にかつて抱いていた感情を知らぬ間に忘れてしまっていた。だが、今こうして再会すると、あの時の感情が止めどなく湧き上がってきた。
「懐かしいね。こうやって大人になってから和人くんと会えるとは思わなかった。もっと早く会いたかったよ」
胸の鼓動が全身に響いた。タイミング悪く、駄菓子屋のおばちゃんがお茶を持ってきてくれ、一気に現実に引き戻されてしまった。おばちゃんは和人の顔をじっと覗き込むと、
「もしかして、上原くんかい?」
「はい」
おばちゃんはにっこりと笑って、
「すっかりいい男になって」
和人はおばちゃんの言葉を遮り、
「上原じゃなくて、今は篠田です」
と言った。
「結婚したのかい?」
「そういう訳じゃないですけど」
「なんだか、訳ありだね。深くは聞かないけど、あんまり抱え込むんじゃないよ。お姉ちゃん、上原くんに元気を分けてやんなよ」
そういうとおばちゃんは店の奥から饅頭をパックに入れて持ってきてくれた。
「お土産。たまには故郷のもの食べなきゃダメだ。これ好きだったもんな。子供の時の味は人を元気にしてくれるんだ。しっかりやんな」
帰りがけ、おばちゃんは二人が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。和菓子屋から西へ。消防署の前を通り、旧足利日赤の前まで来た。
「ねえ、和人くん。こんなこと聞いたらいけないかもしれないけど・・・」
「苗字が変わったこと?」
千波は軽く頷いた。
「ごめん、踏み込むのは失礼だとは思ってるんだけど」
「気になるよね」
「うん」
十六歳の夏、居ても立っても居られずに、和人は家を飛び出した。自分の将来が整いすぎていることに嫌気が差したからだ。
和人は将来を期待されていた。和人の父親は市内でも有名な社長だった。和人が小学校五年生の時に起業した。程なくして清掃用品で大ヒット商品を生み出した。一人っ子だった和人はその跡取りとして会社を継ぐことが当たり前だと皆に思われていた。しかし、当の和人は社長という職業に全く興味を持てずにいた。一応、私立中学校に入学はしたものの、高い目標を目指し邁進する同級生とどうも馴染めずにいた。和人も最初の頃は頑張ってみたが、自分の好きなことと家族や自分の周りの人たちが望むこととの乖離がどんどん大きくなり、ついには我慢できなくなって家を飛び出す決意をした。それが、十六歳の夏だった。最低限の着替えと小学校の卒業アルバムをリュックに詰めた。夢さえ見ていれば前へ進めた、一番キラキラしていた頃の自分を思い出させてくれるものを持って行きたいと思った時に、小学校の卒業アルバムがふと目に入って一緒に荷物の中に入れたのだった。
父親が理事会の集まりで出かけていて、母親が入浴中のその瞬間を狙って実家を飛び出し、最終のりょうもう号に飛び乗った。もう実家には戻れないという覚悟の意味も込めて苗字も変えることにした。篠田という苗字はその時乗っていたりょうもう号の車掌さんの名札を見て、勝手に拝借したものだ。
「で、今何してるの?」
「色々な仕事を転々としてて。半年前からは舞台の大道具やってる」
千波は今や足利大学の校舎となった旧足利日赤の跡地に目をやった。
「ちなは今何してるの?」
「私?私は和菓子屋で働いてるよ。そういえば、この前和人くんのお母さん来たよ。元気そうだった」
「そう」
和人の顔色が変わった。親とは家を飛び出して以来会っていない。電話さえしていない。だが、時々両親のことが頭をよぎることはあった。千波の言葉を聞いて、元気ならそれでいいと思えた。
「喜千」でソースカツ重定食を食べて、二人は織姫山の麓まで来た。織姫山の標高はわずか百十八メートルだが、関東平野の末端である足利市にとっては織姫山でさえも立派な「山」なのだ。二人の通っていたけやき小学校では偶数学年の秋の遠足は登山と決まっていた。二年生で織姫山を登り、四年生で奥の両崖山、六年生でさらに奥の行道山と学年が上がるに連れて険しい山に挑むことになっていた。織姫山はそれらの登山口になっていた。織姫山中腹には足利市民の拠り所である真っ赤な本殿を持つ織姫神社がある。そこまでは麓から二百二十九段の石の階段が続いている。
「上まで競争ね!」
千波がいきなり走り出した。
「ちょっと待ってよ」
千波は二、三段飛ばしながら駆け上がった。仕方なしに和人も走り始めた。普段、力仕事をしているとはいえ、階段を走るというのは訳が違う。最初の踊り場でもう息が上がってしまった。だが、ここで一息吐いてはいけない。疲労が急に襲ってくるからだ。織姫山階段ダッシュのコツは数箇所ある踊り場をそのままの勢いで通過するところにある。さすがはバドミントンで県大会出場歴もある千波だ。全くへこたれることなく、織姫神社の境内に着いていた。一方の和人は息切れ激しく、足は悲鳴をあげていた。そんな和人の姿を見て、千波は声をあげて笑った。
「アハハ、和人くんって昔から運動だけはダメだったよね」
「うるさいなあ」
しゃがみ込んで乱れる息を整えるのに必死な和人の肩に千波はそっと手をかけると、
「走ったって疲れるだけだよ。結局こうやって下向いちゃうもの」
と言って、強引に和人の腕を引っ張って、境内の端に連れて行った。眼下には足利市の街並みが広がっていた。雲ひとつない晴れ渡る空。淀むことのない渡良瀬川。小高い浅間山。東武鉄道の緩やかなカーブを描いた高架線路。その向こう、遠くには富士山がかすかに見えた。
「見て、この足利の景色。子供の頃と何も変わってない。私は悩んだら今もここに来るの。足利は優しい町。私をいつでも励ましてくれる。私たちいい町に生まれたよね」
足利の姿を見たい。和人はそう思っても、涙が溢れて潤んだ町しか見えない。千波は涙ぐむ和人の姿を見て、
「まったく。和人くんったら・・・」
千波はハンドバッグからハンカチを取り出し、和人に渡した。そして、大きく息を吸い込むと、
「和人!無理するなよー!」
足利の町に千波の声が響き渡った。
「やめて、やめて、恥ずかしい」
和人が慌てて千波のことを抑えようとしたが、千波は和人の手をするりとかわした。
「和人くんが元気ないと、私何回でも叫んじゃうよ。だって、私の初恋の人にはずっとかっこよくいてほしいもの」
織姫神社に参詣を済ませると、二人は笑いながら織姫山を降りた。階段を降り、八雲神社を右手に見ながらまっすぐ南へ歩いた。通五丁目の坂道を登り、渡良瀬川の土手に上がった。
気がつくと二人は渡良瀬橋に佇んでいた。夕陽が無機質な銀色の鉄橋である渡良瀬橋を真っ赤に染めていた。二人は雄大にそして穏やかに流れる渡良瀬川の流れを眺めながら、あと僅かで沈み込む今日の太陽を見送っていた。
「ねえ、卒業式で森山直太朗の『虹』歌ったの覚えてる?」
「覚えてる」
「なんであんな難しい歌、歌ったんだろね。でもね、この前久々にあの歌聴いて、やっと歌詞の意味がわかった気がするの」
千波の顔は先ほどよりも少し大人びて見えた。和人は未だにあの歌詞の意味がよくわからない。
「ちな、今日はありがとう。おかげで楽しかった。ちな、あのさ−」
千波が和人の口元に指を立てた。
「私も会えて嬉しかった。こちらこそ、ありがとう。あのね、和人くん。君の気持ちはわかってる。和人くんが今日私を見ていたその目、あの頃と同じだった。懐かしいその目に見つめられて、私だって、和人くんと似たような気持ちを思い出した。でもね、和人くん。君の気持ちは、きっと、気のせいだよ」
千波の笑顔は小学校の時と同じだった。右頬のえくぼが可愛いかった。
「また会いたいから。和人くん、また足利に帰ってきて」
千波が渡良瀬橋を北へ織姫山の方へと歩き出した。和人はその背中を見つめていた。千波がポケットからキラリと光るものを取り出した。和人はその姿を−。
千波の背中が見えなくなると、和人は渡良瀬橋を南に足利市駅方面へ歩き出した。夕陽は完全にその姿を消した。足利市駅ではあまり待たずに次のりょうもう号に乗れた。りょうもう号が動き出すと、辺りはすでに暗闇に包まれていた。
和人は気がつくと眠りに落ちていた。明日への夢を見ながら。
当初、この小説の題名は「小さな恋のメロディ」とするつもりでした。初恋のなんとも言えないじれったい想いを表現してみようと思っていたのです。しかし、書いていくうちにどうも題名と中身が合わないと思うようになってきました。千波との思い出以上に足利という町に対する和人の愛が前面に出てきてしまったのです。その結果、題名を「まほろば」と変更することにしました。まほろばとは「素晴らしい場所」、「住みやすい場所」を意味する日本の古語です。ただ、今作においては「忘れ難きふるさと」という意味で取って頂ければと思います。皆様の郷愁を初恋の思い出とともに少しでもくすぐれれば作者として嬉しい限りです。