1-11.出会い1
長い黒髪が風にたなびく。ヘイドはその草原に咲く一輪の可憐な花のような少女に心を奪われてしまった。
ヘイドが彼女と出会ったのは、彼が十五歳の夏のことであった。ヘイドは受験勉強の休息にとおばあちゃんから田舎の別荘と言っても、おじいちゃんとおばあちゃんの隠居先なのだけど、に来るように言われた。
「いいんじゃない?勉強してるだけなのも暇だろうし。」
そう言ってお母さんはすんなりと許してくれた。彼は帝都であり、この大陸第二の都市である、ダザイフから列車で五時間のアソの村に来ていた。家では、おじいちゃんとおばあちゃんが本を読んだり、裁縫をしたりしているだけであるから暇で最近は家の周りを散歩するのに勤しんでいた。
アソの村は大昔に火山の火口が広がって、沈んでできた世界最大のカルデラであった。カルデラの中にもさらに火口があるが、それはもう千年くらい噴火していないらしい。また、カルデラ湖もあり、ヘイドは毎日違うところを歩き回っていた。散歩と言っても、おばあちゃんにお弁当を作ってもらい、朝八時から夕方の五時までずっと外で過ごすということだった。
ある日ヘイドは、外輪山の南端のほうを登っていた。外輪山の尾根からはカルデラ全体を見渡せる。夏だったが、標高が高いのでそこまで暑いわけではなかった。登山道の入り口には小さな鳥居があった。昔は神様を祭っていたらしい。登っていると体はだんだん熱くなってくるものである。
彼は木陰に寄り掛かって少し休憩することにした。そよ風が吹き、暑くなっていた体を冷やしてくれる。彼はいろいろ考え事をしながら、休んだ。夏休みであったが、登山客はいなかった。
ここはアソの村からも一番遠い場所で、道もろくに整備されていないので人が来ることは滅多にないのだ。観光客は皆列車を降り、アソ村の近くのカルデラ湖であるハクスイ湖を訪れ、整備されている北の外輪山の山道に足を運ぶ。
南の外輪山の方は特に見どころがない。しかし、唯一の見どころというのが、外輪山の中の最高峰であるコラド岳の山頂だ。標高3000mくらいでこのあたりの山で一番標高が高い。物好きな登山家がたまに訪れるのだとおじいちゃんが言っていた。森林限界よりも高いところにあるので、お花畑が広がり、初夏は花がたくさん咲くらしい。夏でも草原が広がり、景色と見晴らしがよい。
ヘイドは休憩を終えて、また山を登り始めた。そして、お昼ごろにやっと頂上に到達したのである。山頂は丘のようになっており、野原が広がっていた。ヘイドは山頂から、カルデラを一望していた。
ああ、きれいだな。そう思った。はじめのころはカルデラの景色は新鮮で、毎日カルデラの風景を見てはきれいだなと思っていたが、十日をするとだんだん飽きてきてしまうものだった。
しかし、ここからの景色は格別であった。より高いところから俯瞰することで、自然の雄大さ、そして人間の小ささ。それがくっきりと対比されて、ヘイドに訴えてきた。こういうところに来ると、自分の存在がちっぽけで生きている意味なんかないんじゃないかと思われる。遠くで列車が走っているのが見える。小さいものがにょろにょろとしているようにしか見えない。アソの村も見える。家が点々とあるだけだ。村と言われるくらいであるから、大したものではないが、その中にひと際大きく、目立つ建物がある。
それは畑の中に存在する不自然な森の中の社である。古くから、アソの神というのを祭っているらしい。その社は推定四千年前に作られたもので、よく残っているものだと感心した。昔は参拝客でにぎわっていたらしいが、今は観光客がついでに訪れる程度のものとなっている。
そもそも、世界に神などいない。二千年前に魔王がすべての神を消し去ったと言われているからだ。ヘイドはよくわからないが、神はいないらしい。彼にとってはどうでもいいことなのだ。
ヘイドは草むらに腰を下ろし、おばあちゃんが作ってくれたお弁当を食べることにした。お弁当なら、コックが頼めば作ってくれるものである。しかし、おばあちゃんは料理するのが好きで昼ご飯は自分で作るようにしている。コックにとっては迷惑かもしれないが、主人が望むことだから仕方がない。ありがたく、ヘイドはその弁当を食べた。いろいろなものが入っており、おいしかった。
食べ終わると、ヘイドは登ってきたほうから反対側の道、と言えるものではないかもしれないが、ヘ向かって歩き出した。ちょうど進む先をみると一人の人が、野原の真ん中に立って何かをしていた。ヘイドは道がそこへ通じていたので、歩き出した。だんだん近づいていくうちに、それは女性であることが分かった。彼女は帝都で流行りの白いつばの長い帽子と白いワンピースを着ていた。帽子と彼女の黒い髪の毛が風にたなびいていた。
ヘイドはますます気になってずんずんその人に向かって歩いて行った。彼女は絵を描くのに夢中らしく、彼に気付く様子はない。
しかし、彼はその女性のことが気になって仕方がなかった。街中で女性を見かけても気になることが全くないのになぜだろうか、彼はその女性のことが無性に気になったのである。
彼はその女性に花に誘われる蜜蜂のように惹かれたのであった。もしかしたら、それは男性的な本能であったかもしれない。気が付くとヘイドは彼女のすぐそばまで歩いていた。
彼はここで迷った。声をかけるか否か。確かに山では人に挨拶するのが礼儀というものである。しかし、彼はその女性に声をかけることが恥ずかしく思えた。そして、気まずい雰囲気になるのではと恐れた。
それと同時に彼の心のどこかで声をかけないと一生後悔するかもしれないという不安が沸き上がってきた。後悔をしたくない。その一心が彼を突き動かした。彼は勇気を出した。彼は勇気を出せる男であった。
「俺と付き合ってください。」
そう彼は声をかけた。そして、彼は正気に戻った。勇気を出したのは言い物の、初対面で告白をするなんて、控えめに言っても馬鹿である。
風がいい具合に吹き、太陽が朗らかに当たる午後であった。気持ちの良い草の香りが彼らを包んだ。その女性はヘイドのほうを向いた。いや、女性というべきではなく少女というべきであろう。彼女はまだ若く、ヘイドと同じくらいの歳に見えた。ヘイドはそのまま意識を失ったように棒立ちになった。やはり、初対面ではこれは言ってはいけない。
ヘイドは恥ずかしくなった。しかし、彼の目はその少女にくぎ付けだった。もう、嫌われたっていい、見ていることだけで幸せだ。彼女は筆をおき、彼のことを眺めた。彼女は美しく、黒い瞳、白い肌、黒い髪をしていた。しかし、その眼差しは凍っていた。ヘイドは本当に一瞬凍ってしまうかと思った。背筋に寒気が走った。
やっと彼女は声を発した。
「そうですね、何に付き合ってほしいのですか?」
彼女の声は冷たかったが、凍り付くような眼差しとは裏腹にとてもやさしく温かかった。ヘイドはその声によって溶かされた。ヘイドはその少女がさっきの言葉を告白ととらえていないことに安心感を覚えた。
そして、彼は彼女をしっかりと見つめなおした。瞳のせいであろうか、その美しい顔はあたりのものを全て凍り付かせてしまいそうな勢いであった。ヘイドにはそれがかえって神秘的で美しく感じられた。しかし、同時に彼は少し目をそらした。
「なんの絵を描いていらっしゃるのですか?」
ヘイドは思わず敬語を使ってしまった。脈絡のないことをまた言ってしまった。そして少し気まずくなった。
年齢は見かけによらない。高度な魔法を使える魔族などには長い年月生きて姿を全く変えないものもいる。例えば、吸血鬼は人為的に殺されない限りは永遠に生き続けられるという。
「敬語じゃなくていいですよ。私は十五歳ですから。」
彼女は意外にも心をすんなりと開いてくれたように感じた。ここまで来ればもう話はどうにか続けて行けそうである。
「俺と同い年ですね。」
「あなたも十五ですの。見ての通り私はこの風景の描いているのです。」
ヘイドはその絵をじっくりと鑑賞した。彼は絵の善し悪しはまあまあわかるほうだったのだが、彼女の絵は素晴らしかった。恐らく十万コレドはくだらないだろう。コレドとは通貨の単位であり、このノイン大陸で使われている。
「上手だね。」
「みんなそう言いますわ。もう少し意見がほしいのですけれど。」
彼女は彼に批評を求めた。ヘイドはなんだか試されているように感じた。ここでは、素直に感想を言うべきだろうか。
「タッチはいい感じだけれど、なんか全体的に暗い気がするな、もっと色を重ね塗りしたり、明暗をはっきりとつけたほうがいいと思う。」
彼女は自分の絵を見つめた。そして黙っていた。何か気に障るようなことでも言ってしまったかヘイドは不安になった。しかし、彼女の心はどこか絵とは別のところにあるようだった。そして、彼女は真剣な顔になって彼のほうを向いた。相変わらず視線は冷たく、あたりの温度が下がったように感じられる。
「そうですね・・・・・・・ところで、何に付き合ってほしいのですか?」
「え・・・・」
「もしかして、お話ししたいということですか?」
「あ、まあ・・・・」
「では、あなたの名前は何と言うのですか?」
彼女は少し嬉しそうな、同時に悲しそうな顔で聞いた。次のヘイドの発する言葉が彼らの運命を決定づけるかのような、重要な話を聞くかのように。確かにこの言葉彼らの運命を決めたかもしれない。
「俺はヘイド、ヘイド・ケンブルクだよ。」
彼女は悲しそうな表情を浮かべた。
「ケンブルク家ってあの十人衆の?」
ヘイドは彼女の望む答えを言うことはできなかった。
「そう、だよ。」
ヘイドはやっとここで言ってはいけないことだったと気づいた。彼女の顔は明らかに悲しそうな表情をしていた。
「私はネネです。絵のアドバイスありがとうございます、参考にしますわ。」
彼女はそう言った。ヘイドはネネの名前に聞き覚えはなかった。しかし、ケンブルク家とは何かある、そう感じられた。
「そう、いい名前だね。」
「ありがとうございます。」
そこに風が吹いた。夏なのに冷たい風だった。遠くのほうの空が暗くなって、雨が降っているようだった。アソはあまり雨は降らないのだが、今日は本降りになりそうだった。
「雨、降りそうだな。」
「そうですね、私はもう帰りますわ。絵が濡れるといけないので。」
彼女は荷物をまとめ始めた。ヘイドはどうすればいいかわからなかった。心では答えが出ているはずなのに、声には出さなかった。
「また、お会いできますか?」
ネネはそう聞いた。ヘイドは赤くなった。彼女の表情がとても美しく愛おしいものに感じられた。そして迷わずヘイドは答えた。
「もちろん。」
「私は来週までここでこの時間くらいには絵を描いてるので。」
彼女はそれだけを言い残してすぐに帰ってしまった。
ヘイドはぼーっと余韻に浸っていた。かわいかったなと思った。また会いたい、何だか心が締め付けられるような感じがした。そうして、彼は山を下りた。登山道を抜けたころに雨がぽつりぽつりと降り出した。彼女はもう屋根の下であろうかと思った。濡れてなければよいのだが。ヘイドの頭に雨粒が当たって、それが髪を伝って流れてくる。少し冷たかった。




