この世の極楽
第一章
夏が近づいたある夜。一人の男が、途方もない山奥の獣道を歩いていた。名前は「せいきち」という。今日は早くから町へ出て、村長から預かった金を庄屋さんに渡して証文を懐に村へ帰る途中であった。
その為には、高い山と深い谷を二つ越えねばならず。中々に過酷な旅である。更には山賊に襲われる危険もあるので、この役目を引き受ける者は中々いなかった。村長はこの役目を、真面目で正直、小柄で身の軽い若者のせいきちを見込んで頼んだ。彼は頼まれると断れず、この役目をこなして期待に応えてくれている。
わずかな月明かりを頼りに、無心で一歩一歩進む中、ふと町の飯屋で馴染みになったおさよちゃんの笑顔を思い浮かべていた。そうなると若いせいきちはニヤニヤが止まらない。
「ああ、おさよちゃんともっと話がしてみてぇなぁ。今度会った時には、手なんか握ってみよう。うん、そうしよう」と何度か心に決めるのだが、この決心を実現させたことは無い。
バタバタしている飯屋には荒くれ男がいっぱいいるし、どういうわけかあの娘と目が合うと、顔が真っ赤になって、うまく言葉が口から出てこない。せいきちにはそれがわからなかった。でも、おさよちゃんの笑顔を思い出すと、険しい山道も苦にならなかった。
夢心地でなんとか谷を越えて二つ目の山に入った時、声が聞こえた。女子か? いやいやそんなはずはない。ここいらに人などいるはずないではないか。彼が心の内で否定すると又、確かに聞こえる。
「……誰か……助けて下さいまし……誰か…… 」
女子が助けを呼んでいるではねぇか? 声の様子では難儀をしている様だ。せいきちは、きっと自分のように山歩きをしていて足でも挫いたのかと思い、村への道を外れて声のする方へ足を進めた。もう通い慣れた道なので迷うことはないだろう。
段々と声が近くなり、うずくまっている人影を見つけると声をかけた。
「……もし、どうしましたか? どこか痛いのか? 」
おそるおそる声をかけると、女子はハッと頭を上げて、こちらを振り向いた。その目は月明かりを反射してギラリと光り、顔は苦渋に満ちていた。暗がりではあるが、夜目の効くせいきちには、今までに見たこともない気高い感じの顔立ちで、それが苦痛で歪んでいるとわかると放ってはおけなかった。
更に近づくと、綺麗に結った髪にかんざしきらきらで、おでこに珠の様な汗を浮かべているのがわかった。歳の頃は十七、八か、柄はよく見えないが山歩きには不向きな上品な着物に、右の足に荒縄がしっかり食い込んで動けない様子であった。
「おい、どうした。こりゃあ、獣の罠にかかってるでねぇか。どれ、俺がといてやろう 」
せいきちは護身用の短刀を抜いて、固く食い込んだ荒縄を切ってといてやった。
「ほれ、どうだ? 少しは楽になったろう 」
「ありがとうございました。山を散歩しておりましたら、急に足を取られまして、身動きが取れないまま夜になり、難儀をしておりました。本当にありがとうございました。はぁ、お陰様で助かりました」
そう言って丁寧に頭を下げられると、せいきちは、この人は高貴なお姫様だと直感した。しかしこの辺りにはお屋敷などないと思った。それでも彼は礼を言われて気を良くした。
「へへ、そうかいそうかい。こんなことはなんでもねぇよ、よかったなぁ。ほれ、こうして足を揉んでやるで、血のめぐりが止まってほっとくと、腐ってしまうでな、でもおらで良かったよ。ここいらにゃ山賊もおるから、それに見つかったら酷い目にあっとったところじゃ。あんたは一体どこから来ただ? 」
親切心で足首を揉んでくれるせいきちに、女は恥じらいの表情を浮かべながら応えた。
「私はこの山の北に住んでおりますの」
「そうですかい。う~む、骨は折れてないようだから立てるだろう」
彼はそう言うと女を立たせようとしたが、右の足が地に着いたとたんに小さく呻いてよろめき、せいきちの胸にしがみついた。二人の目が合った。
「あのもし、御名前をお聞かせ下さい」
「おらぁ、せいきちってんだ…… 」
「……せいきち様…… 私は右の足がどうにも痛くって、とても歩くことかないませぬ。後生ですから、私の屋敷までおぶっていただけませぬか? 」
「お? おおう。いいともさ」
せいきちは口で言うより先にさっさと女をおぶった。おぶって立ち上がると、意外に軽いことに気が付いた。それから女子の指図の通りに歩く道すがら、名前や歳を聞いた。名はお銀、歳は十六という。父上は城務めの武士で、母上は二年前に病で他界したのだそうだ。せいきちは十八で歳が近いもんだからお互いすぐにうちとけて話が弾んだ。お銀の声は甘く、よく笑った。その息が、丁度耳やら首にかかるものだから、妙にゾクゾクした。
半里ほど歩くと、目先にぼんやりと小さな灯りがぽつぽつと見えた。お銀が、あれがそうですというので、せいきちは難なくお銀の屋敷に着くことができた。門の前では小柄な婆様が家紋の入った提灯を持って佇んでいた。お銀をおぶっているせいきちを見つけると、上品な安堵の微笑を見せた。お銀からことの次第を聞くと、たまげるやら喜ぶやらで、せいきちに感謝を伝え丁寧に頭を下げ、家の者を呼びつけてお銀を抱えて屋敷に入れさせた。
せいきちが、これで御役御免とばかりに帰ろうとすると、婆様が引き留める。このままお返ししたとなれば、お家の恥となるから是非おもてなしをさせてくれという。気持は有難いが一刻も早く村に帰りたいと断ったのだが、婆様は引き下がらず押し問答の末に、ちょっとだけということで屋敷に上がることになった。
汗と泥にまみれた野良着姿で恐縮したが、女中が優しく丁寧に足を拭いてくれて好い気持ちになって、客間に通された。線香に似た良い匂いがして快適な気がした。通されるままに四角い布団の上に腰を降ろした。ふかふかして何とも良い気分だ。何が起こるのかわくわくしていると、先ほどの婆様が膳を運んで来た。
せいきちの前に来ると恭しくも膳を置いて正座した。婆様だが、行燈の光の具合で昔はさぞや美人であったろうという片鱗を見た気がした。それでも今は婆様には違いがない。せいきちはぼ~んやりとそんなことを考えていた。
「せいきち様! 」
「へ、へいへいへい」
「まぁ、漸くお返事がいただけましたわ。何度お名前をお呼びしても、ついぞお返事が無いものですから…… 」
「へへ、なんでもねぇです。おらぁ時たまそういう時があるんで、気にせんでけろ」
「まぁそうでございましたか。この度は銀姫を助けて下さり、本にありがとうございました 」
「姫って、やっぱりあの娘はお姫様だったんか? 」
「ええ、このお屋敷の主大蔵形部様が御一人娘、銀姫にあらせられます」
「ひぇ~。お、おらぁもしやと思うとったが、お姫様おぶったのは初めてだぁ」
せいきちはのけぞった。そこに銀姫が客間にすすっと入ってきて、しなやかに三つ指を立てると優雅に、「難儀をしていたところをお助け下さり、ありがとうございました」ときたもんだ。
「急なことで、大したおもてなしはできませんが、どうぞお召し上がりください」と膳を見ると、皿には牡丹餅が三つ乗っており、その横には抹茶が入った茶碗があった。
せいきちは婆様の隣の銀姫に釘付けになり、牡丹餅をつまんで一口齧った。その美味しいこと美味しいこと。
「う、うめぇ。おらぁこんなうめぇもん食ったことねぇ」と思わず残りを頬張り、はもはもするや、茶碗を引っ掴んで抹茶をぐいと呷った。
「にっげー、だが甘いのと混ざってそれが又うめぇ! 」
せいきちのどたばたを目にした二人はおかしくなって上品に口元を隠して笑った。
「す、すまねぇ、こういう時はなんかこう作法みたいなものがあるんだろ? でもよ~、おらぁそういうのからっきしでなぁ」
ひとしきり笑い立ち直った婆様は、おもてなしですから、そんなことはお気になさいますな。と返した。銀姫は男らしくて素敵と褒めた。これで気を良くしたせいきちは、抹茶を湯で薄めたものを注文して、ゆっくりと話をしながら牡丹餅と抹茶を堪能した。
せいきちは、自分なりに感謝の言葉を述べて帰る段になって、銀姫が婆様に見つからないように手を握ってきて、明日きっと又来てと耳元で懇願した。
「え、えええ? 明日っておめぇ、もう、すぐだで」
「そうですとも、貴方様へのおもてなしはこんなものでは済みませぬ。明日は準備万端整えますので、是非ともお越し下さいまし、でも、悪い噂が立っては困りますので、他言無用にお願い致します」
こうとなっては特に断る理由も無いので、村へ帰って村長に証文を渡して少し寝て、野良仕事をしてから又来ることを約束して、やっとこさ解放してもらった。これからだと村に着くのは多分朝になるだろう。しかし、その足取りはどこまでも軽かった。
第二章
せいきちが村に着いた時には夜が明けていた。一目散に村長の家に行き、大事な証文を渡して番茶を飲んで町の様子などを話して帰った。銀姫のことは話さなかった。それから家に帰って駄賃を母に渡して身体を拭いて眠った。昼頃に目覚めると、父や兄弟達と野良仕事をし、日が暮れると「用がある。晩飯はいらね」と言い残して再びお銀に会いに駆け出した。
記憶を頼りに山を越えた頃にはもう夜になっていて、漸く銀姫の屋敷の門に着いた。厳粛な門が開くと、線香と金木犀を混ぜたような何とも言えない良い匂いがした。
玄関先には婆様が、いらっしゃいませ。お待ちしておりましたと招き入れられると、着飾った銀姫が三つ指をついていた。銀姫が顔を上げた時、その美しさに息を飲んだ。
「お待ちしておりました。今日は腕によりをかけておもてなしさせていただきます。ささどうぞ中へ…… 」
せいきちはもう夢心地で客間に鎮座すると、先ずは酒が出た。銀姫の酌で飲んでみると、これが今まで飲んだことのない旨さでうっとりした。それから鯛の焼き物、吸い物、香の物、銀飯である。それから煮物は出るわで、せいきちは大の大満足だ。
「こんな御馳走おらぁ食ったことねぇ」と初めは恐縮しきりで遠慮していたのだが、このような豪華な接待をされると、酒も食も進んで非常に活発になった。
さて、楽しい饗宴も終わりに近づいて、婆様や女中は下がり、銀姫と二人きりになると、銀姫がだんだん積極的に近づいて来て、手を握り、顔をせいきちの胸にうずめてきたではないか。
「せいきち様は難儀を救ってくれた命の恩人。身も心も焦げる程にお慕い申しております。どうか、御情けを…… 」
初めは戸惑っていたせいきちも、ここまで言われてはだんだんとその気になってきた。生れて初めての女が御武家の御姫様かと思うと、酔いも手伝って赤ら顔がもうポッポーである。
銀姫が襖を開けて布団が敷いてある間にせいきちを誘った。枕元に行燈が一つだけの薄暗さが、幻想的に銀姫の顔を照らした。その後は、熱く激しく心置きなく愛し合った。
濃厚な情事の後、せいきちが銀姫を胸にまどろんでいると、襖の裏から婆様の声がした。聞くと、どうか旦那様が御目覚めになる前にお帰りになって下さい。このことが旦那様に知れると、大変なことになるのです。大変なこととは、旦那様が御乱心あそばされて貴方様をお斬りになるやもしれませぬ……。背筋がぞぞりとするせいきち。
ですが、夜になればきっと又来て下さいまし……。
それを聞いたせいきちは、それは一大事と、たちまち我に返って帰り支度を整えていると、銀姫は名残惜しそうなそぶりを見せては、きっと又来て下さいまし。と手を握って熱く見つめてきた。その仕草の愛らしいこと。
せいきちは、「きっと又来る」と銀姫と約束を交わして屋敷を後にした。なんだか自分が二枚目の芝居役者になったような気分になり、険しい山も少しも苦にならなかった。
村に着くころには夜がしらみ、こっそり家に戻ると、雑魚寝の兄弟たちに割り込んでそのまま眠った。それから父親に叩き起こされて、日常の朝餉に野良仕事をこなした。それでもせいきちは、銀姫のことで頭がいっぱいであった。そしてこの逢瀬は続いた。
せいきちの父であるせいじは、長男の変化に気付いていた。どうやら女でもできたな。ボウとしてはニヤついて、心は万事上の空、仕事に身が入っておらん。そして夜な夜などこかに出かけては夜明け前に帰ってくる。自分も若い頃には身に覚えがある。なぁに、ものの一月も過ぎれば熱も冷めて、何かしら言うてくるだろう。だから暫くは放っておくべと決めていたが、だんだん倅の様子がおかしくなってきた。
せいきちの頬が日に日にこけてきて顔色が悪くなり、元気が無くなってきたので、母のつえが心配し始めた。たまらずせいじに、夜出てゆくのを止めさせるように言って欲しいと言いだしたのだ。
せいじもそういう微妙なことを言いたくはないのだが、倅の身が心配なのは同じ思いで、せいきちを林に呼んでそれとなく話を聞いてみた。
「年頃になれば、誰でも好きな女子ができるもんだで、そうなりゃあ飯もなかなか喉を通らず、身体もおかしくなるもんだ。おらもお前じぶんの頃にはそんなことがあったよ。どうだ、近頃好いた女子でもできたんか? 」
せいきちは父親にそう言われてこくりと頷いた。
「……そうかい、そりゃあ良かったじゃねぇか。じゃが近頃おめぇ顔色が悪いようだが、少々入れ込み過ぎでねぇか? おらぁにも若い頃に覚えがあるが、あんまりやり過ぎると身体に毒だよ。
相手はどこの娘っ子だ? 相手の親御さんは知っとりなさるのか? ことによっちゃあ力になるぜ。金は無いけどよ」と笑って見せるとせいじも薄く笑顔になった。明らかに言うか言わぬか迷っている様子だったが、やがて小さな声で語り始めた。
「うん。おっ父だけに言うけど、おっ母には黙ってといてけれ。ひょんなことで御武家のお姫様に見染められて会うとる。それでおらぁ、この世の極楽を知ってしもうたんじゃ。
ありゃあええもんだなぁ。でも旦那様には秘密ってことで他言無用ということで誰にも言わんかった。すまねぇな。でもこれ以上のことは言えねぇ。勘弁してくれ。心配要らねぇさ、おらぁこうしてピンピンしてっからさ」
「いやさ、こっちはお前がピンピンしてねぇから、こうして心配してるのさ。御武家のお姫様て、身分違いだ。一つ間違えりゃあ、エライことになるぞ。あんまり深入りしねぇ方がいいんでねぇか。年頃なんだから、だめとは言わねぇが、ほどほどにな」
「……うん。わかったよおっ父、気をつけるさ」
せいじは、倅が恋煩いをする年頃になったことが嬉しかった。それに相手が御武家のお姫様と聞いて危うさも感じたが、そこは親として注意を促し、百姓の倅では夫婦になることは叶わないことも伝えると、それは倅もわかっていた。そして反抗せずに言えるだけのことは言ってくれたので少し安心した。
そんな父母の心配をよそに、この夜もせいきちは出かけて行ってしまった。
第三章
せいきちの様子がおかしい、心配だ。という噂は村で広まり、村長であるきちべいの耳にも入り、倅のごろうはせいきちとは仲が良い友達で同じく心配していた。同じ年頃の仲間内では、女子でもできたんじゃねぇかと囃したてたものだが、せいきちのあれほどやつれた顔を見ると、さすがに笑えなくなった。
きちべいは父のせいじとは子供の頃からの顔馴染みで気心が知れているので、寺の和尚である覚志に相談すべく本堂で待ち合わせて話を聞くことになった。
一同が集まっているところに覚志和尚がやって来た。彼が上座に着くと、ぴーんとあらたまった空気になった。
「この度は、何かお困りごとがあるとうかがいましたが」
「へ、へい。実はおらが倅のことでして…… 」
せいじは困りきった様子で、せいきちの異変を覚志に語って聞かせた。覚志は冷静に話を聞いていた。きちべいとその倅ごろうも初めて聞く話で、黙って聞いていた。
「……なるほど。そのようなことがあったのですね。せいきちといえば、ごろう、お前も子供の頃は一緒にここで読み書きを教えたな。正直で大人しいええ子じゃった」
「うんだ。あいつがあんなになるなんて信じられねぇよ」
「和尚様、さすがに倅を縄で縛りつけておくこともできねぇし、この先どうなっちまうんでしょう 」
覚志は暫し俯いたが、やがて口を開いた。
「そういう話は、古今東西無かった話ではない。相手は御武家の姫と聞いたが、あの山を越えた先に武家屋敷などあったかな。それどころか人が住んでいるなど、とんと聞いたことがない…… 」
「それはいったい、どういうことで? 」
せいじが恐る恐る尋ねた。
「おそらくはこの世のものではない。せいきちは悪霊に取り憑かれておるのではないかな? その昔、平家の怨霊が人を取り殺した。という話を聞いたことがある」
「和尚さん。平家の怨霊ってなんなん? 」
まだ若くて無邪気なごろうが、なんとも澄んだ目で問うた。きちべいやせいじのような大人は、よくは知らないが、何だか恐ろしいものとしか思わない。
「はっはっは。それは困ったのう。しかし、わからんものをわかったような顔をしておる者よりは感心じゃ。お前にもわかるように話してやろう」
「ありがとう。和尚さん。おらあ、しっかり聞くでな」
「……この世で一番偉いお方は、天皇じゃ。みんなが幸せに暮らしていけるように神に御祈りをしておられるからこそ、わしもお前も無事に暮らしていけるのじゃ。わかるな。
次に偉いのは、今では徳川家綱様の将軍じゃ。大昔には将軍はおらんかった。ところがその頃の人々は、自分や一族が栄えりゃあそれでええと考えて、対抗する人同士が戦ばかりしておった。そんな時に、平清盛という御仁が、自分の身内で国の政を独り占めにしてしもうた。平と書いて“へい ”とも読む。その一門じゃから“平家 ”なんじゃ」
「なんで独り占めにできたん? 」
「武力が強かったからじゃ。戦をしても誰も勝てんから、平家の者等がやりたい放題で、他の者達がそりゃあ悔しい思いをしよった。
お前でも、村で急に強くなった男が、おい、これからお前は俺の言う通りにせぇといわれたら、なんやお前ってなるじゃろう」
「うん」
「それと一緒じゃ、でも歯向かえば全然勝てんし殺されるとなれば、従うほかなかろう。それでええか? 」
「嫌じゃ。きっと他のみんなからも嫌われるから、まとまってやっつけてやる」
「そうじゃろう。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の夢のごとし
猛き者も遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ」
「和尚。そら何の念仏ですろう」
ごろうの間の抜けた質問に、少々気分を害した覚志は少し顔を顰めると、微かに首をふったが、やがて気を取り直して続けた。ごろうに平家物語を聞かせても無駄なのだ。
「それで遂に、源頼朝という御仁が遂に立ち上ったんじゃ。源と書いて“げん ”とも読むから、源氏と書いて“げんじ ”じゃ」
覚志はご丁寧に筆でさらさらと平家と源氏と書いて、ごろうに渡した。中々の達筆であった。ごろうは礼を言ってその文字に見入った。
「源頼朝が挙兵し、富士川の戦で平家軍は水鳥の大群が飛び立つ大きな羽音・水音を源氏の軍が襲いかかって来たと勘違いして全力で敗走したんじゃ」
「へ? 」
「その頃の平氏は多分貴族みたいになっておって、かなりやわになっとったようじゃ。これで、今まで強いと思いこんどった平氏は案外弱いんじゃないかと勢いづいたんじゃ。
それに平清盛が病で死んでしもうたのも平家にとって柱が亡くなった様で大きくひびいた。
源氏の一門に源義経という若者がおってな。それが中々の戦上手で、京から西へ逃げる平氏を追い立てて、一の谷の合戦、八島の合戦、それから壇ノ浦の合戦で勝ち、平家は本当に滅亡したのじゃ」
「っへぇええ! 」
覚志の話を聞いた一同は、思わず感嘆の声を上げた。しかし覚志は構わずに話を続ける。
「いやいや。肝心なのは、平家の方じゃ。今まで天下をとった気分で天狗じゃったが、いざ戦となれば腰が引けた烏合の衆になって、多くの者が殺され、又多くの者が逃げ堕ちた。そこには源氏への強い恨みや、この世に対する未練や深い恨みが渦巻いて、それらが怨念となって、山歩きをしておった者を襲ったり、何の関係も無い者に取り憑いて殺したりという恐ろしい話が伝わっておるんじゃ」
「……つまり、せいきちの話は、平家の怨念の仕業と言うんですかい? 」
「かもしれんという話じゃ」
「そいじゃあ、せいきちが言うとった御武家の姫様の話も、この世の極楽も怪しいもので、終いにゃあ死んでしまうというのかい? 」
ごろうは真剣な眼差しで訴えるように問うと、覚志は、「まだそうと決まったわけではない」と否定したが、他には思いつかなかった。
「そ、それじゃあ、うちの倅をどう守ったらええんですか? やっぱり柱にでも縛りつけて夜にゃ出ねぇようにするべきですか? 」
せいじも必死の形相で問うた。覚志は深く考え込んだが、やがて口を開いた。
「……いや、そうしたとしても、既に心を奪われておるから、今度は会いに行けない無念が負担となって、せいきちの命を削るかもしれん」
「……昼間に村の若い衆を集めて、せいきちの言う屋敷のところに行って、火をかけて焼き払い、和尚が念仏を唱えて供養するってのはどうでしょう? 」
「そんなことをしたら、怨霊がこの村全体を襲うやもしれん。地震やら飢饉やらくれば、わしらは全滅じゃ」
村全滅と聞いた一同は、黙りこくってしまった。せいきちの異変から思いもよらず平氏の怨霊話を和尚から聞かされては、問題解決の道筋がつかない。重苦しい沈黙を破ったのは、若いごろうであった。
「本当に平氏の怨霊がせいきちを苦しめているのでしょうかね。おらぁ難しいことは知らないけど、どうにも結びつかねぇんです。ここは一つ、それを見極めてみたらどうでしょう」
「見極めるっておめえぇ、どうやってか? 」
父のきちべいが尋ねた。覚志は興味深そうにごろうの様子を見ていた。
「せいきちが夜に出かけた後をついて行って、何が起こっているのか見届けるのですよ」
「そんなおっかねぇこと、誰が引き受けるんだよ! 」
きちべいの声がうわずった。
「若い衆の中には、恐れを知らない者がけっこういますよ。二人で行けば大丈夫じゃないかな。明日募ってみますよ。みんな心配してることだし」
「それは妙案じゃ。感心した。やはり若い者は勇気があるのう。あれこれ思案するよりも実際に確かめるのが一番じゃ」
覚志は率直にごろうの案を称えた。それが一番なのはわかるが、この世のものではないかもしれないものに憑かれたせいきちが山奥で何をしているのか確かめるなど、危険が伴う。それを引き受ける勇気ある者がいるだろうか? それが大人であるきちべいとせいじの思いであったが、場の空気を読んで口には出せなかった。
「となれば、わしが怨霊退散の念を込めて御札を三枚書いてやろう。これを身に付けておけば安心じゃ」
「それはありがたいし心強いだけんども、もし怨霊じゃなかったらどうしたら…… 」
「そんときゃあ一目散に退散じゃ」
次の日、ごろうは村の若い衆に「せいきちのことで相談がある」と寺の境内に集合をかけると、気心知れた若者が十人集まった。男が六人、女が四人。みんなせいきちの異変を知っており心配していた。
ごろうは昨日和尚と話し合ったことをみんなに聞かせた。その反応はそれぞれで、ただ恐れる者、妙に納得する者、妖怪じゃないかという者もいた。いづれにしても怪しい術でせいきちの命があぶないということで一致した。
さあそこで、どうするか。ごろうは、誰かが二人組でせいきちの後を追って実際に何が起こっているのか見極めようではないかと提案した。みんなはおおそれは妙案だ。でも祟りがあるのではないかと懸念した。
みんなの顔色を見たごろうは、大丈夫だと言った。そしてここに覚志和尚が書いてくれた怨霊退散の有難い御札があると、懐から御札を出して見せた。みんな思わず「おお」と唸って御札に見入った。
後は誰が行くのかを決めて実行すれば、問題は解決方向に進展するはずである。だが、誰というところでみんな黙ってしまった。せいきちのことは心配だが、怨霊だの妖怪だの、和尚の御札まで見せられてはおっかないのは当然のこと。御気楽なごろうはそこまで考えが及ばなかったのだ。きっとみんなが手を挙げてくれると思い込んでいた。
誰が行くかという段でざわざわしていたところで、普段から活発で元気な娘おりょうが口を開いた。
「みんな聞いて、みんなせいきっつぁんのことが心配でしょう。だったら勇気を出しましょうよ。誰かごろうちゃんに付いて行ってあげてよ」
「えっ? おらが行くの? 」
「何言ってんの。あんたは村長の倅で、村の若い衆の頭みたいなもんでしょう。当たり前よ。夜の山歩きじゃ女のウチたちじゃだめだわ、足が遅いからね、誰か他に立ってよ」
ごろうの思いをよそに、みんなの中では一人はごろうにとっくに決定していたとはー。ごろうは内心驚き傷ついていた。しかし男衆の中で「我こそは」というものはおらず、再び場がざわつき始めた。
気丈なおりょうはごろうを軽く睨み、右の腕を小突いた。
「あんたこの場をおさめなさいよ」
「だっておらだっておっかねぇだぞ」
「バカだねこの子は! このままじゃあんた一人でいくことになっちまう。そしたら本当に危ないじゃない。しっかりしなって! 」
ごろうはおりょうに促がされて、漸く腹を決めて口を開いた。
「みんな聞いてくれー。みんなせいきちは心配だがおっかねぇのはわかるよ。おらもおっかねぇから、でもさ、これをやらねぇと埒が明かねぇぞ。怨霊だの妖怪だの言ったが、わかんないから。それを確かめる必要があるんだよ。
おらはっきり言って、そんなことは無いと思ってる。それを確かめて初めてせいきちを助ける手が打てるってもんだ。おら一人で行くより、もう一人いた方が村長や和尚に事の次第を伝える確かさが増えるんだ。だからどうしても後一人いるんだ。
頼む。さんた! お前はおらの次に山足が速い。身体も丈夫だしよ。友達でないか。おらが頼みにできるのはお前しかいねぇ」
「おらかよ」
名指しで指名されたのは、ごろうと特に仲の良いさんたという若者だった。ごろうから見込まれて頼まれれば、おっかない気持ちも少し和らいだ気がした。みんなはさんたがうけるかうけないか注目した。
「……ごろうがそこまで言うなら、おらぁ引き受けるよ。一緒にせいきちの後をつけて、何がどうなってるか確かめようじゃないか」
ごろうは大喜びで彼の手を握り、ごろうとさんたが今夜真相を確かめることが決まった。
第四章
その夜、ごろうとさんたはせいきちの家を監視していた。どの家も大体朝が早い分暗くなれば、寝てしまうので真っ暗である。せいきちの家もそうで、みんな寝静まって真っ暗であった。上を見ると今夜は三日月で、雲が少しかかっている。まったく静かな空間で、引き戸が静かに開いてせいきちが出てきた。
「おい、せいきちが出てきたぜ」
「いよいよだな。あいつどこから山に入るんだろう」
二人はせいきちに気づかれないように、声を落として会話をして、見聞きしたことをなるべく確認して記憶に留めることを事前に打ち合わせていた。これで互いを確認できるので、恐怖と緊張を和らげてくれる。いつもは戯言でふざけている仲だが、今は真剣だ。
せいきちは周囲を気にする素振り無しで、畑を越えてさっさと山に入って行った獣道どころか自分で作った道のようであった。
「あいつもう山に入ったぜ」
「何かに引っ張られているみたいだ。おらたちも急ごう」
「合点だ」
二人は静かに、暗い山道を僅かな足音をたよりにせいきちを追った。岩を昇り、土を蹴り、ひたすら山道を進むのはそれほど怖いことではないが、こんな険しい道を夜な夜なせいきちが通っているのかと思うと、不思議を通り越して感心する。
漸く人が通れる知った道に出た時はホッとしたが、今度は彼に見つからないように神経を使いながら進んだ。この先坂道が続くが、せいきちは後ろを振り返ることもなくふいに左に外れて雑木林に入り込んだ。
二人も続いて入ると、少し肌寒さを感じた。ごろうが小声で「ちょっと寒いよな」と言うと、さんたも同意した。それから少し進むと、窪地が見えた。そこにせいきちが立っているのが見えた。彼はまるで人と会っているみたいに何事かを喋り、頭を何度か下げて窪地を進んだ。二人もその窪地に近づくと、強い悪臭がした。
「うぁ! くっせぇ。なんだこの臭いは? 」
「さんた、こりゃあ獣の臭いだ」
「そうかい。でも何やってんだあいつ。誰もいねえのに喋っているぞ」
「いや、多分あいつには人が見えているんだよ。もっと近づいてみようぜ」
二人は悟られない様に注意しながら窪地に近づいた。臭いは益々強くなる。せいきちは上機嫌で座ると、竹を切った筒を煽った。何かを飲んでいるみたいだ。それからその場にあった何かをつまんで旨そうに食べている。笑っている。
「あいつ何か飲んで旨そうに食ってる。何だろう? 」
「暗くてよく見えねぇが、楽しそうにやってるな…… 」
二人はせいきちが楽しそうに誰かと語らいながら、飲み食いしている様子を注視していた。一人で騒いでいるのが、不気味に感じられた。やがて三日月から雲が去って、薄っすらと蒼白い光が彼の額を照らしたその時、二人はせいきちの顔が確認できた。すると二人は、声が出ない様に互いの口を塞いだ。目は最大限に開かれている。
せいきち一人だと思っていたが、よく見ると相手がいた。その相手は数匹の狐であった。狐はどこからか咥えてきた筒状の竹に小便を入れていた。そして別の狐は彼の前で堂々と糞をした。彼はそれを旨そうに口に運び竹筒を煽った。
「ふぎぃー。ふぎぃー。ふぎぃー。(あいつ。狐の小便飲んで、糞食ってるー!)」
「ぷぎゃー。ぷぎぃー。(なんだー。しかも旨そうに飲んで食ってる!)」
二人に恐怖の表情は無かった。ただ、衝撃と驚きと悍ましさと、わずかなおかしさが綯い交ぜになり、しかもそれを無理やり抑え込むと、汗が出て、目を剥いてお互いの口を塞ぎ小刻みに震えた。どれほどの時間が流れただろうか、二人は体勢を立て直すのに苦労した。
「はぁ、はぁ、はぁ、あいつ夜な夜なこんなことしてたんかい」
「これじゃあ具合悪くなるのわかるわ。当然だよ。見るんじゃなかった」
「腹の筋がつるかと思ったぜ」
「ああ、まったくだ。今までで一番だったぜ……。おい、あいつ今度は裸になったぞ」
二人は、せいきちが今度は何をするのか見入った。裸になって横になったせいきちの身体を二三匹の狐が舐め始めたではないか。するとせいきちは興奮して精液を腹上に飛ばすと狐たちはそれを争うように舐め取った。
その光景を見た時、二人はむしろポカンとしていた。
「さんた。狐の本当の目的は、あれだったんだよ。もう我慢できねぇ」
ごろうがそう言うと、窪地目がけて駆け出した。さんたも慌ててついて行った。人の気配を察した狐共は「ギャッ」と鋭く叫んで飛んで逃げて行った。ごろうは裸のせいきちに駆け寄った。
「なななんだよ。ごろうにさんたでねぇか。どうしたんだよ」
「どうしたんだよはこっちのセリフだ。目ぇ覚ませや! 」
ごろうは真剣に叫ぶと、左右に二度せいきちの頬をはった。
「せいきち! ここは御武家の屋敷かい! ええ! 言うてみぃ」
「……あれ? ここ違う…… なんで? ううわっ、くっさ! 」
「やっと目が覚めたかよ…… 」
放心状態のせいきちに、ごろうは自分達が見たままを隠さずに伝えた。彼はとても信じられない様子だったが、認めざるをえない現実が転がっていた。しかし二人が踏み込んで来る寸前まで、彼はこの世の極楽を確かに味わっていたのである。せいきちはそれを必死に二人に説明したのだが、終いにはその極楽と現実の余りの乖離に、哀れなほど落ち込んだ。
「まったく。何が平家の怨霊じゃ。あのクソ和尚が! 」
「和尚は話を聞いただけで、知っておることを言うたまでじゃ。おらあ悪うはないと思うで、まさか狐に騙くらかされるとはのう」
「実はおらあ、狐が騙したとも思えねぇんだ。あんなのただの動物でねぇか。多分きっかけだな。お前が初めて狐を見た時、ひょっとしてこいつが美しい姫だったら良いなぁ。なんて願ったんじゃねぇか? そしてそのまま思い込んだ。思い込んだらそれが本当になる、お前にとっちゃあな。
もしかしたら、おら(ごろう)だってお前だって、同じ目に遭っていたかもしれねぇぞ。人ってよう、普段はしっかりしてるようだけど、案外コロッと勘違いしちまうもんなんじゃねぇの? 」
「確かにのう。あの狐共には、御姫様とかわかるはずもねえわ。とてもお前に術をかけたようには見えんかったぜ」
せいきちは、二人の話をどこまでもポカンとして聞いていた。
「……そうかのう。あれは自分で捻りだした夢幻じゃったから、極楽に思えたっちゅうわけか? 」
「そうじゃ! おめぇの極楽なんぞ、狐共はおろか、おら達でもわかんないから。全部お前が知らんうち(無意識)に捻り出したものだろう。それで精を出したら、奴らはそれを舐め取る。
だけど、こんなことを人に伝える時は、狐とか狸にばかされたと言うた方がわかりやすいんだ。おらあこれなら納得できる。狐共は逃げたし、お前も目が覚めたようじゃ。これで一件落着じゃね? 」
だけど、こんなことを人に伝える時は、狐とか狸にばかされたと言うた方がわかりやすいんだ。おらあこれなら納得できる」
ごろうは、自分が実際見たことと、狐や狸が人を騙すという。童話について解釈を加えて納得した。それを聞いたさんたとせいきちも同じように腑に落ちた様子であった。
「小さい頃に聞かされてきた狐とか狸が人をばかすという話が、実際おらの身に起きたわけか」
せいきちが感慨深げに言うと、ごろうは明るい心持ちになって笑った。つられてさんたも、みんなが恐れた問題が、意外な顛末で解決したことで嬉しくなって笑った。せいきちは、命を削る思いで味わった快楽から解放されて、安堵するやら恥ずかしいやらで困り顔であったが、やはり笑った。
「……まぁ、色々あったけどよ。先ずは服着ろや。そんで帰ろうで」
「……んだな」
三人は漸く立ち上がって帰路についた。
第五章
ごろうとさんたは、村で唯一の寺(安妙寺)の住職である覚志に、せいきちが山でしていたことを話した。この場にはせいじときちべいもいたが、三人共既に無事に帰ってきているので、そういう意味では安心で、興味深々の様子で聞いていた。
しかしその内容は中々にハードで、相手は怨霊では無かったが、狐が登場してせいきちはまんまと極楽の夢幻を見て、小便を呷り、糞を食うて、出した精液を狐が舐め取ったという件には、悍ましさを禁じえなかった。
「……なるほど。そういうことでしたか。いや、お二人共大変ご苦労様でした。そして皆が無事で本当に良かった。ごろうとさんたの見事な活躍で問題が解決して本に嬉しい限りですな」
覚志は嬉しそうに頭を下げた。村で一番徳の高い人物とされる覚志は、それをまったく感じさせない姿勢が、却って村人から尊敬されている。そんな人物から礼と共に頭まで下げられては、ごろうとさんたも畏敬の念を持って平伏した。きちべいは心なしか胸をはり、せいじはばつが悪そうであった。
「狐や狸が人をばかすという童話は巷にあまたあるが、実のところはこういうことなんじゃろうな。たしかに、ただの動物が人をばかすというのは、話としては面白いが現実的には、容易ではないからのう。
奇譚の中でも、男児が女子の幽霊から精気を吸い取られて果てるものが幾つかあるが、案外夢幻を見ては精を出し切り、それを獣が舐め取っておったのかもしれん。面白いのう。
ごろう、お前は誠に理に適った解釈をしておって感心したぞ。これからもその姿勢を忘れないようにな」
「ありがとうございます。おらあ、どういうわけか、こういう性質でして、時々理屈っぽいとか、面倒くさい奴と言われます」
「結構結構。中々に良い性根じゃ、ひょっとしたら、お前は良い村長になるやもな。ところで、私も人が突然夢幻を見る。というのを見たことがあるんじゃ」
「本当でございますか? 」
「ああ、本当じゃ。あれは若い頃京の都で修業しておった時、ひょんなことで陰陽師を名乗る者と知り合いになってな。その陰陽師とは、不思議な術を使う者のことじゃ。
ある時、大工の荒くれ者が飯屋で暴れはじめた。そこへ、その陰陽師が立ち上がり、極上の酒を振舞って大工の機嫌をおさめたのじゃ。
ところが、彼が振る舞った酒は。湯飲みに入ったただの水じゃった。術をかけて極上の酒と信じ込ませたのじゃ。
私はお前の話を聞いた時、そう、狐が姫に、鼻の曲がる悪臭が芳香に変わり、小便が酒に、糞が食物に変わる仕組みは今もわからんが、この出来事を思い出した。人とは、いとも簡単に目先、鼻先を変えることができるのじゃ」
ごろうは覚志の話に聞き入っていた。
「和尚、様は、何でも御存知なのですね。凄いです」
「何の何の。お前よりほんのちょっと長く生きて、経験を忘れておらんだけじゃよ。時にごろう」
「へい」
「お前は、神仏はあると思うか? 」
「き、急に問答されても…… 」
「問答ではない。お前を見込んで問うておるのじゃ」
「わかりません」
「私は僧侶ぞ」
「はぁ。でも見たことがねえんです。和尚、様は、見たことあるんでしょう? 」
「私も、見たことは無い」
「えええ! 」
「神仏は目には見えん。だが私はあると信じて、毎日経を捧げ問い掛けを繰り返しておるのじゃ。目に見えるものはある。見えぬものはない。世の中はそう簡単ではないぞ。
命というものが見えるか? 見えぬなら無いのか? 嬉しかったり悲しかったり、重くなったり、軽くなったりする気持ちはどうじゃ? 」
「……あ、ありまする。命も気持ちも、見えずとも確かにありまする。では、神仏もきっとありまする。和尚様。教えて下さり、ありがとうございました! 」
ごろうはこの時、和尚によって陰陽師という者がおって不思議な術で人を操ること、目に見えないが神仏はあることを確信した。覚志は満足そうに目を細めた。
「和尚様、おらも訊いても宜しいですか? 」
「なんじゃな? 」
「前に平家の話をお聞きしたのでございますが、怨霊の話は、今回は違いましたが、この辺りにおる、山賊は平家の逃げ堕ちた者ではないでしょうか? 」
「ほう。お前は話をよく聞いておったな。じゃが、平家の落人は、もう何百年も前のことじゃ。その間に人は代替わりをする。生き残った落人の殆どはもう土着になっておるじゃろう。
山賊や追剥ぎというのは、非道を尽くす卑しい心を持った者の集まりじゃ。生きるために真面目に齷齪働くより、殺して奪った方が簡単じゃ。女子などさらって慰み者として扱い、飽きて足手まといになれば捨てる。追われれば逃げて隠れて、捕まって討たれればそれまでのこと。逃げきれば、死ぬまで非道を尽くす連中じゃ。多分平家の落人とは関係ないじゃろう」
ごろうは覚志和尚の話を黙って聞いていた。ごろうは山賊が大嫌いだった。そして恐怖の存在であった。
「和尚様。そんな山賊をどうしてみんな野放しにしているのですか? どうして退治しないのですか?
おらあ最近おっ父から聞いたんだが、おらが四つの時、三つ上のごすけ兄者が山賊にさらわれたんで。おらあいつか山賊をやっつけて兄者を取り戻してえんです」
覚志はそれを聞いて、十三年前にこの村が山賊に襲われた事件を思い出した。さらわれたのは、ごろうの兄だけではない。その他にもさらわれ、或いは殺された者が何人もいた。
家は焼かれ、備蓄していた米が盗まれた。あの頃は年貢のこともあってみんな生きるのに必死だった。それが元で先代の村長さきち(きちべいの父)は心労が祟って死んでしまい、きちべいが跡を継いだ。
きちべいは、殺伐となった村を必死で守った。覚志和尚も犠牲者を弔いながら、対策をきちべいと話し合った。一揆騒動を煽る者達をいさめ、年頃になった者達に所帯を持たせて空いた農地を分配した。
家や働き手を失った女子供をうまく割り振って、なんとか誰も路頭に迷わないように采配したのだった。
当時ごろうはまだほんの子供だったので、何があったのかを理解したのは最近であったのか。いつまでも元気な子供とばかり思っていたが、よく見ればすっかり逞しい身体になって、しっかりした目でこちらを見ている。覚志の胸の内ではそんなことが去来して思わず目を細めた。
「なんで山賊を放っとくのか。ですか…… 」
きちべいは、こんな時に何を言い出すんだ。調子に乗るでねぇ! とばかりに顔を顰めて手を小さく払った。
大昔の日本の村社会でも、そこには若い衆がいてきっと色々な物語があったはずです。ネットやスマホが無くっても、人と人とのつながり(友情や愛情など)があって問題を解決してきたんだと思います。
今回は腰の据わった新作です。よかったら感想・評価で足跡をじゃんじゃん残して行って下さい。
よろしくお願いいたします。
誰かにこの作品を広めて欲しいなと思います。