第86話 言葉にすると、短いけれど
別荘に到着した私達は、いつぞやと同じく顔面蒼白のホワイト夫妻に出迎えられた。
……そう。
なんと、今朝まで滞在していたクライヴさんの別荘は、以前私と旦那様が泊まった湖畔の別荘の近くにあったのだ……!
正確には大きな湖を挟んだ向こう岸だったので、私達はぐるっと湖を回って王族の別荘へと移動した。
道々事情を聞いてみたところ、旦那様は決闘の立ち会いを頼んだラルフさん、折よくクロエさんの手紙を届けにきたピーちゃんと共に、この森へとやって来たそうなのだ。
「……じゃあ、ヴィンスさんとエマさんは?」
首を傾げる私に、ヴィンスさんが苦笑して説明してくれた。
「さすがに事が事だからね、シリルはアーノルド陛下に報告せざるを得なかったのよ。シリルとしては、温泉街に向かったアタシには知らせないつもりだったみたいだけど――」
エマさんが引き取ってふんわりと微笑む。
「うっかり姫様の耳にまで入ってしまわれたのですわ。姫様は涙をこぼしてミア様を心配なさって、わたくしに加勢するよう命じられましたの」
それで気を利かせたエマさんは、ヴィンスさんに知らせるため温泉街へ走ったというのだ。
無事に全員が合流し、決闘の前日深夜に知らされた待ち合わせ場所に向かったのが今朝のこと。
狼犬のグッさんに案内され、決闘の場に到着したかと思いきや――
「そこにミア殿の姿はなく、誘拐犯の二人だけが倒れていたというわけだ」
ラルフさんが苦虫を噛み潰したような顔で告げ、クライヴさんとニールさんは気まずげに視線を落とした。ヴィンスさんが深々とため息をつく。
「まさか、あの魔獣がこちらに移動していたなんてね。アタシが到着するまでに、温泉街の魔法士団と何度か交戦したらしいのよ。敵わないと悟って逃げてきたんでしょう」
ともあれ、無事に討伐できてよかったわ。
しみじみと呟き、穏やかに微笑むヴィンスさんであった。
別荘に入った途端、ホワイト夫妻はバタバタと走り回って飲み物や救急箱を用意した。擦り傷をこしらえた私達を、手分けして治療してくれる。
さすがに骨折したクライヴさんの手当は王都に戻らなければできないので、迎えの馬車が到着するのを待たねばならない。
「――ミア様。膝も怪我していらっしゃるでしょう? わたくしが別室で手当いたしますわ」
救急箱を手に立ち上がろうとしたエマさんを制し、旦那様が小さくかぶりを振る。
「いや。俺がする」
きっぱり言って、私を二階へと促した。
二人で個室へと入り、私だけベッドに腰掛ける。床に跪いた旦那様が消毒薬を手に取った。
枝に引っかけたり転んだりで、すでに私のスカートはぼろぼろだ。剥き出しになった膝を消毒され、刺すような痛みに唇を噛みしめた。
傷薬を塗って丁寧に包帯を巻いてくれる旦那様を、ぼうっとしながら見守った。
反射的に手が伸びて、旦那様のつむじをそっとつつく。そのまま柔らかな銀髪をゆっくりと撫でた。
旦那様が驚いたように顔を上げる。
いたずらが成功した子供のような気持ちになり、思わずにんまり笑ってしまう。旦那様もふっと微笑んだ。――けれど、すぐに硬く強ばった表情に戻ってしまう。
旦那様は包帯を結んで治療を完了させると、無言で私の隣へと腰掛けた。ベッドがぎしりと軋む。
大きく息をつき、まっすぐに私を見つめた。
「……本当に、すまなかった。もっと早く話すべきだったのに。俺の過去の過ちに、お前を巻き込んだ。……その上、こんなにも恐ろしい目に合わせて……」
「…………」
悔恨に顔を歪める旦那様に、ずきりと胸が痛む。
大丈夫だと伝えても、気にしないでと笑っても、旦那様は自分を許さない気がした。
(……それなら)
深呼吸して、体ごと旦那様に向き直る。
「――クライヴさんが、こんな事をした理由。シリル様は、どうしてだと思いますか?」
硬い声で問いかけると、旦那様の瞳が揺れた。
「……それは。俺に対する意趣返しに――」
「違います。クライヴさんは、ただ知りたかったんだって言ってました。高等科で、シリル様が……魔法を暴走させるほど怒った理由が」
一息で言うと、旦那様は目を瞠って凍りついた。顔から血の気が引いていく。
私はそれでも言葉を止めず、旦那様の腕を掴んで言い募る。
「自分の言葉の何が、シリル様の心に響いたのか、傷つけてしまったのか知りたいって。……どんな理由であれ、今回クライヴさんがした事は正しくないです。間違ってます。……でも、それでも」
お願いですから、クライヴさんと話してあげてください。
掠れた声で訴える私を、旦那様は無言で見下ろした。
高等科での出来事が、クライヴさんにとって抜けない棘になっているのなら――きっと旦那様にとってもそうなのだと思う。
たとえどんなに痛くても、見たくなくても。
目を逸らさずに向き合うことで、ほんの僅かでも棘が小さくなればいい。そう願わずにはいられない。
拙い言葉に、旦那様は静かに耳を傾けてくれた。ややあって無言で私の腕を引く。
「……っ……」
強く抱き寄せられ、息が止まった。
旦那様はじっと私の首筋に顔を埋めている。抱き締められているというより、むしろ旦那様にすがられているみたいだ。
背中に腕を回そうとした瞬間、旦那様が囁くように告げた。
「――虚のようだと、言われた」
「……え……?」
小さく問い返す私を、旦那様はますますきつく抱き締める。
「お前には、何も無いと。人間の形をしているだけで、中身は虚のように空っぽだと。……そんな事は言われずとも、他でもない俺自身がよく分かっていた」
苦しげに息を吐き、だが、と呻くように続ける。
「認めたくは無かった。だから、ずっと目を背け続けていた。生きる理由が無く、だからといって死を選ぶほどの意志も無い――ただ惰性でその日を生きている、自分自身の姿から。……自分がどれだけ、歪で空虚な人間か」
どくん、と心臓が跳ねる。
抱き締めてあげたいのに、体は凍りついたように動かない。代わりにぎゅっと目をつぶる。
魔力の毒のせいで、体の不調に苦しみ続けた旦那様。王宮からひとり出され、家族と引き離されて、ずっと孤独に生きてきた――
「……空っぽじゃ、ない」
やっと絞り出した声は、消え入るように頼りなかった。ごくりと唾を飲む。
「空っぽなんかじゃない……! シリル様は、シリル様はっ」
「――そうだな。きっとあの頃から、俺は決して孤独じゃなかった」
涙交じりの私の言葉を、穏やかな声が遮った。
ゆっくりと体を離し、あふれた私の涙を優しくぬぐってくれる。
「俺が、クライヴを殺しかけた後。父は親として子の責任を取るのだと、一切の迷いなく言い切った。母は一緒に王都を離れ、南部で暮らさないかと誘ってくれた。……その時は何とも思わず、即座に撥ねつけてしまったが」
目を丸くする私に、照れたように頬を緩める。
「子供の頃は、父母の代わりにジルが側で支えてくれた。大学に行ってからは、ヴィンスとジーンが煩いぐらいに付きまとってきたな。自分がどれだけ恵まれていたか、今頃になってやっと分かった。……――お前が、俺に気付かせてくれた」
「…………っ」
伝えたい思いがあるのに、後から後から涙がこぼれてしゃべれない。ぐいぐいと乱暴に顔をこすると、旦那様が焦ったように私の腕を掴んだ。
「こら。頬を擦りむいているから、こするんじゃ――」
「シリル様。お願いが、あるんです」
そっと旦那様の腕を外し、碧眼の瞳を一心に覗き込む。
「家に帰ったら。契約書を、ふたりで一緒に破り捨てませんか。びりっびりに」
「…………は?」
虚を突かれたように固まる旦那様に、思わず噴き出しそうになった。なんとかこらえて、引きつった旦那様の頬に手を当てる。
「契約結婚じゃ、もう嫌だから。私、契約じゃなくて本物が欲しい。――ずっとずっと、シリル様の側にいたいんです」
もう涙は止まっていた。頬に残っていた涙を拭き取って、心からの笑顔で彼を見上げる。
「――私。あなたの事が、好きです」




