第84話 絶対、絶対
深い森の中をめちゃくちゃに走り回る。
自分が今どこにいるかすらわからない。
体力はとうに限界で、もう歩いているのと大差ないスピードだ。
とうとう完全に足が止まってしまい、息も絶え絶えに大木にもたれかかった。崩れ落ちるようにしゃがみこむ。
荒い息を吐きながら背後を窺うものの、恐ろしい魔獣の姿はどこにも見えなかった。
耳を澄ませても、さわさわと木々がそよぐ音しか聞こえてこない。もしかしたら、木という障害物が多いお陰で、私の姿を見失ったのかもしれない。
ゆっくりと呼吸しながら、眉根を寄せて考え込む。
(……どうしよう……)
もし本当に撒いてしまったのなら、魔獣はクライヴさん達のところに戻った可能性もある。――ならば、私もどうにかして戻らなければ。
幹に縋りついて立ち上がった瞬間、前方の草むらがガサリと鳴った。恐怖に体が跳ねる。
またも足が震えだす。
くつくつと、低く嗤うような声が聞こえる。
後ずさりしようとすると、今度は頭上の木々が大きく揺れた。
きいきいと、囃し立てるような声が聞こえる。
「…………っ!」
弾かれたように駆け出した。
恐怖で視界が歪む。地面は綿のようにあやふやで頼りなく、上手く足を踏みしめることすらできない。
「あっ――!」
不意に背中に衝撃を感じ、地面に激しく叩きつけられた。
痛みに息が止まりながらも、歯を食いしばって即座に立ち上がる。よろよろと再び駆け出した。
数歩進んだだけで、またも突き飛ばされて引き倒される。視界の端に赤黒い毛が見えた。一瞬のことで、あっという間に見えなくなる。
くつくつ。
きいきい。
くつくつ。
きいきい。
木々の揺れる音と共に、あちこちから声が降ってくる。さあっと血の気が引いた。
――遊ばれてる。
悟った途端、身体中から力が抜けていった。それきり立ち上がる気力も湧いてこない。
だって無理だ。こんなの頑張るだけ無駄だ。逃げ切れるはずがない。
ぼろっと涙がこぼれる。
もう何も考えられなかった。考えたくなかった。
(せめて……痛くなければいい……)
地面に手足を投げ出して、虚ろな目を閉じる。
――ダメよミアちゃん、早まっちゃあ! シリルにはあなたが必要なんだから!
突然、空っぽの頭の中に声が響いた。
いつかの……ジーンさんの声だ。
――ヴィンス、でいいわよ。どうやらアンタとの付き合いは末永くなりそうだし?
――お前とシリルは互いを必要としているんだろう? 想い合っているんだろう?
ヴィンスさんと……クライヴさんの声も、聞こえる。
――今は……お前が、側に居てくれる。笑いかけてくれる。それが、全てだ。
旦那様の、柔らかな微笑みが脳裏に蘇る。
抱き締めてくれた腕の心地よさと、繋いだ手から伝わるぬくもりも。
涙が一筋頬を流れ、ゆっくりと目を開けた。
……そうだ。
腕に力を込め、鉛のように重い体を持ち上げる。
(……絶対、諦めたりなんかするもんか……!)
あなたのところに帰るまで。
この気持ちを、伝えるまでは――!
決意と共に、地面をえぐるように爪を立てる。
手の平いっぱいに土を握り込んだ。
痛む足を奮い立たせ、もう一度立ち上がる。
一歩踏み出すか踏み出さないかのうちに、素早く後方に体をひねった。見もせずに、当てずっぽうで手の中の土を投げつける。
「――ギィッ!?」
予想通り猿の魔獣がそこにいた。
目を押さえてもがき苦しんでいるのを確認し、木陰の中に飛び込んだ。
走れ。
走れ!
背後から、ぐるる、という押し殺した唸り声が聞こえた。唸り声はすぐに血も凍りそうな咆哮へと変わる。
空気がビリビリと震えたが、それでも足を止めなかった。生きるために走り続ける。
「……あっ!?」
突然たたらを踏んで転びそうになる。はっと振り向くと、スカートに木陰から突き出た枝が引っかかっていた。
外そうと手を伸ばしたところで、赤黒い猿の姿が目に飛び込んでくる。
「……っ」
猿は憎悪に燃えた目で私を睨みつけていた。
その顔はもはや嗤ってはいない。ゆっくりと腰を屈め、それから一息に私に飛びかかって――……
「――伏せろ! ミアッ!!」
悲鳴のような声がして、反射的に頭を押さえて地面に倒れ込んだ。
辺り一帯に刺すように凍える冷気が満ちる。心が揺さぶられ、泣きたくなるほどの安堵感に包まれる。
さっきまで感じていた恐怖も絶望も、まるで潮が引くように綺麗に消えていった。
霞む目をぼんやり彼に向け、手を伸ばす。
他の誰かには冷たい氷でも。
私にとっては、こんなにも優しくて温かい――
「シリ――」
「ぼっ!」
ぼ?
「ぎょーーーっ!!」
……へっ!?
ぱっと顔を上げると、炎魔鳥のピーちゃんが今まさに特大級の炎を吐き出しているところだった。どわわわわっ!?
めらめらと草木が燃えて、リアルに暖かくなった。
わぁい焚き火だー……っていやいや火事になるぅ!?
「だあぁっ、やめんかいピー様ッ! 早く消火してちょうだいシリルーーー!!」
「煩い!」
賑やかな叫び声と共に、またも周囲が凍りつく。
茫然と半身を起こした瞬間、力強い腕に抱き留められた。私も迷いなく彼の胸に飛び込む。
「……シリル様……っ」
団服を握り締め、泣き笑いで彼を見上げる。
そしてそのままビキンと固まった。
なぜなら。
目の前の旦那様は――
(顔色わっる!?)
初めて出会った時と、全く同じ感想が頭に浮かぶ。
血の気が感じられない、透き通るぐらい真っ白な顔。そして目の下のくっきりした黒い隈。
慌てふためきながら、心なしか――ではなく、明らかにこけた彼の頬に手を当てる。どうしよう、冷え切ってる……!
泣き出しそうになっていると、旦那様も苦しげに顔を歪めた。ほんの一瞬だけ私をきつく抱き締め、私の肩を抱いて決然と立ち上がる。
「まずは、あの魔獣を倒す。――俺の側から離れるな」
「……はいっ!」
旦那様が厳しい表情で睨み据えた先では、ヴィンスさんが猿形の魔獣と対峙していた。彼の肩にはピーちゃんがとまっている。
すっと前に突き出したヴィンスさんの手先が歪む。腕を振り払った瞬間、目に見えない何かが弾丸のように放たれた。
土と枯れ草を巻き上げながら、一直線に魔獣に向かっていく。
魔獣が横っ飛びに跳躍し、さっきまで立っていた場所の木が真っ二つに折れてしまう。鋭い切れ味の、その魔法は――
(かまいたち……!?)
息を呑んで見入っていると、体勢を立て直した魔獣が方向転換した。歯を剥き出して、私達に飛びかかってくる。
「……っ!」
体を強ばらせ、旦那様にしがみついた瞬間。
「――あらまあ。随分と下品なお猿さんですこと」
笑みを含んだ涼やかな声と共に、眩しいほどの光が走る。魔獣が大絶叫した。
ひらりと翻るスカートに、美しいプラチナブロンドの髪。その手にあるのは、陽光を照り返して輝く短い剣――……って!
「エマさんっ!?」
金糸のような髪をふわりとなびかせながら、エマさんがこちらを振り返る。嬉しそうに目を細め、場違いなほど華やかに微笑んだ。
「ふふっ。ご無事で何よりですわ、ミア様?」




