第83話 私にできる、唯一の
うつ伏せに倒れた私の頭上から、甲高い笑い声が降ってきた。全身が一気に総毛立つ。
空気を引き裂く金属的な声は、とても人間のものとは思えない。本能的な恐怖に心臓が早鐘を打つ。
地面に這いつくばったまま硬直していると、クライヴさんが発したらしい短い叫び声が聞こえてきた。慌てて手で土を掻き、もがきながら体を起こす。
目の前の光景に愕然とする。
息遣いすら感じるほど近くに、毛むくじゃらの獣の姿があった。ぼさぼさの毛は赤黒い混沌とした色合いで、剣を抜いたクライヴさんと揉み合うようにして闘っている。
獣はクライヴさんが横薙ぎに払った剣を楽々と避けた。
後方へと激しく跳躍し、丸太のように太い二本足で地面を揺らして着地する。
「……ぁ……」
そこにいたのは、ニメートルはゆうに超えるであろう――巨大な猿の化け物だった。
猿は鉛色の瞳を鈍く光らせながら、値踏みするようにクライヴさんを眺めている。顔の半分はある巨大な口をぱっかり開けて嗤うと、禍々しい犬歯が剥き出しになった。
恐怖で頭がしびれたみたいに働かない。
ただ茫然と獣の姿を目で追った。
身じろぎひとつできない私とニールさんの前に立ち、クライヴさんは正眼に剣を構えた。放心する私達に向かって、大声で怒鳴りつける。
「逃げろニール! ミアを連れて別荘まで走るんだっ!!」
クライヴさんの一喝に、ニールさんが弾かれたように私に駆け寄った。私の腕を取って立たせ、肩を抱いてうながす。
ニールさんの体も、私と同じようにガタガタと震えていた。
「……っ。さあ、ハニー! 別荘はあちらですっ」
二人で支え合うようにして、よろめきながら走り出す。
足がもつれて転びそうになる。気が焦るばかりで、ちっとも前に進まなかった。
クライヴさんを気にして振り返ろうとする度に、ニールさんが私を叱咤する。木々の間に滑り込んだところで、よろよろと足を止めた。へたり込みそうになるのをなんとか堪える。
「ニール、さ……。あ、あれ……は……?」
「この森にあんな魔獣がいるはずないっ。住み着いているのは、無害な小物だけのはずなのにっ」
息を弾ませて答えながら、ニールさんはせわしく後ろを振り返る。
魔獣はクライヴさんから距離を取り、まるでからかうかのように耳障りな笑い声を上げていた。じっと獣の姿を観察していたニールさんが、はっと目を見開く。
「……もしかしたら。温泉街で目撃された魔獣かもしれません。確か、赤黒い猿形の魔獣だったと聞いています」
――アルスター温泉街の魔獣!?
息を呑む私に、ニールさんは蒼白な表情のままで頷いた。
「温泉街はここから山を越えて東にあります。そう離れているわけじゃない。おそらく群れに属さないはぐれ魔獣だろうという話でしたし、移動して新たな住処を探しているのかもしれません」
「そん、な……っ。どうしようっ。シリル様が、到着してくれれば――!」
一縷の望みを託して、あえぎながら森の奥を振り返る。
せわしない動きを繰り返す私とは違い、ニールさんはクライヴさんから目を離さなかった。爪先が白くなるほど強く木の幹を掴み、じっと前方だけを見つめる。
「……そうですね。クライヴ様では、あの魔獣は倒せませんから。あの剣は決闘用で……刃先を潰してあるから、切れないのです。――シリル様が来られるまで、なんとしても時間を稼がなければ」
噛み締めるように言って、ニールさんはぎゅっと目を閉じた。浅い呼吸を繰り返し、きっぱりと顔を上げる。
「ハニー。別荘へはここをまっすぐ進めばいい。木の枝に布を巻いてしるしを付けていますから、それを辿ればひとりでも迷いません」
場違いなくらい明るい声に違和感を覚える。
それに、「ひとりでも」って……。
絶句する私を、ニールさんは静かに見返した。
「僕はここに残ります。――クライヴ様を、お守りしなければ。僕は闘えませんが、囮にぐらいならなれますからね」
唇を震わせながらも晴れやかに笑う。
「……待っ……!」
止める間もなくニールさんは駆け出した。
後を追おうと一歩踏み出しかけた途端、クライヴさんが魔獣から弾き飛ばされ、地面に倒れ込むのが見えた。魔獣は起き上がろうともがくクライヴさんに片足を載せ、みしみしと体重をかける。
一直線に向かったニールさんが、轟くような大声で叫んだ。
「――こっちだ! クライヴ様から離れろ、おぞましい化け物め!!」
魔獣がピクリと反応し、倒れたクライヴさんと近付いてくるニールさんとを見比べる。
足を下ろして体ごとニールさんに向き直り、歯を剥き出してにいぃと嗤った。
「ニール……っ。何をして、逃げろ……!」
私は木陰でひとり立ち尽くしたまま、茫然とその光景を見つめる。時間が止まったかのようだった。
手を伸ばし、必死の形相で叫ぶクライヴさん。
足を止め、魔獣を引きつけるニールさん。
そして……けたたましく嗤う、恐ろしい魔獣。
よろめきそうになるのを、木の幹に縋って必死で耐えた。涙が浮かんでぼんやりと視界が滲む。
(……ああ。駄目だ……)
私のせいだ。
クライヴさんの魔力を……根こそぎ奪った。
魔力さえあれば、クライヴさんは元素魔法で応戦できたはずなのに。
私の行動が、彼らを窮地に追いやった。
バクバクいう心臓を押さえる。
手の平にコツンと硬い何かが触れる。
(……シリル、様……)
ごめんなさい。
小さな呟きは、すぐに風に溶けて消えてしまう。
思いを断ち切り、ぐいと目尻をぬぐった。わななく唇を噛み締め、木陰から出る。
魔獣はあっという間にニールさんを引き倒し、馬乗りになって鋭い爪を天にかざした。
その姿を睨み据えたまま、服の下に隠していた鳥笛を取り出す。ガチガチ震える歯でなんとか咥えた。
――――ピイィッ!!
澄んだ音が一帯に響き渡る。
こちらに気付いた魔獣が、ゆっくりと顔を上げた。――目が、合った。
「……こっち、だよ」
みっともないぐらい掠れた声しか出ない。
生唾を呑み込み、もう一度叫ぶ。
「……こっちに、来なさい……! さあ!!」
魔獣は笑顔で首をひねった。
右に左に首を傾げながら、わざとのようにゆったりとニールさんから離れる。その濁った眼球は私をひたと捉えて逸らさない。
トントン、と助走をつけるように何度か跳ねた。魔獣が勢いよく地面を蹴って、私に向かって疾走してくるのを確認し――
回れ右して森に逃げ込む。
そのまま脇目も振らずに駆け出した。
 




