第76話 二転三転するのです!?
大通りを走る人々の流れに乗って、私達も懸命に足を動かす。狭い歩道をもどかしく走っていると、突然背中に激しい衝撃を感じた。たたらを踏んで転びそうになる。
「――ミアちゃんっ!?」
私と手を繋いでいたジーンさんも悲鳴を上げた。
一緒くたによろめきかけた私達を、ジルさんと共に力強い腕がさっと支えてくれる。シルクハットを被った男の人だった。
「……っ。申し訳ない。一刻も早く避難せねばと、焦ってしまい……」
どうやら彼にぶつかられたらしい。
息を弾ませながら謝罪した彼は、「それでは失礼」とせかせか言い残し、再び走り出す。左手にある細い脇道へ、迷いのない足取りで駆け込んだ。
ジルさんが彼の消えた方角を見て、はっと目を見開く。
「……そうか! あの道なら……」
小さく呟き、私とジーンさんに頷きかける。
「あの脇道は、一本向こうの通りに繋がっております。上手くすれば辻馬車を拾えるかもしれません」
ジルさんの先導に従って大通りをはずれ、人ひとり通るのがやっとの狭い道へと進んだ。非日常の恐怖のせいで心臓はバクバク弾んでいて、大きく息を吸って呼吸を整える。
「あっ……!」
広い通りに出た瞬間、すぐ側に辻馬車が停まっているのが目に入った。ジルさんはぱっと喜色を浮かべると、今にも馬車に乗り込もうとしている男の人を呼び止めた。
「申し訳ございませんが、相乗りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
シルクハットを深々とかぶった男の人が私達を振り返る。「ええ、勿論」と低い声で答えた彼は――どうやら、さっき私にぶつかった男の人のようだ。
彼は機敏に馬車に乗り込むと、私に向かって手を差し伸べた。
「どうぞ。段差に気を付けて」
「あ、ありがとうございますっ」
彼の手を借りて奥の席に座り、首を伸ばしてジーンさんとジルさんに笑いかける。
「さ、二人も」
「うんっ。お邪魔します!」
ジーンさんが片足を乗せた、その瞬間。
突然シルクハットの男が跳ねるように動いた。ジーンさんを乱暴に突き飛ばし、彼女はバランスを崩して転がり落ちてしまう。
「――ジーンさんっ!?」
ジルさんが咄嗟に彼女を受け止めるけれど、衝撃に二人揃って尻餅をついてしまった。焦って立ち上がろうとした私も肩を突かれ、座席に体を打ち付ける。
「今だ! 出せっ!!」
のしかかるように押さえつけられ、ぴくりとも体が動かせない。
轍の音と上下の激しい揺れに、馬車が走り出したことを知る。慌てて叫ぼうとした口も塞がれてしまい、反射的に男の指に思いっきり噛みついた。
「いっ……!? このっ、大人しくしていろ!!」
抵抗むなしく一つ手にまとめられ、あっという間に縛り上げられてしまう。すばやく猿ぐつわまで噛まされ、悲鳴すら上げられなくなった。
涙目で男を睨みつけるけれど、男はせわしなく窓の外を窺うばかりで、私の方を見もしない。御者に向かって上擦った声を荒げた。
「そうだ、その先に――……。後はわかっているな!?」
突然、音を立てて馬車が急停止する。
シルクハットの男に腕を掴まれ、乱暴に辻馬車から引きずり降ろされる。
震える足で石畳の道路に降り立つと、目の前には別の馬車が停まっていた。黒塗りに繊細な金の縁取りの、この状況にそぐわない豪華な馬車だ。
再び男に突き飛ばされ、今度はそちらの馬車に押し込められる。視界の端に、さっきまで乗っていた辻馬車が走り去るのが見えた。
男は私の頭につばの広い帽子をかぶせ、肩には花柄の派手なショールを掛ける。自身がかぶっていたシルクハットは床に放り投げ、髭の生えた口元を震わせながらうっすらと笑った。
「やった、上手くいったぞ……! 見たかニール!?」
小窓を開き、御者台に向かって怒鳴りつけた。
御者の男はゆっくりと振り返ると、苦りきった顔でため息をつく。
「……残念ながら、そのようですね。後は、道中で捕まる可能性に賭けましょう」
「なんでだよっ!? ……っと」
男が外を眺めて目を丸くしたので、私もつられて窓に視線を向けた。夜のように真っ暗になったかと思うと、激しい雨が窓を打ち付け始める。
「……ようし。いいぞいいぞ、天も味方している……!」
弾んだ声音に、咄嗟に目の前の男を睨みつけた。男は気にしたふうもなく、にやにや笑いながら口元の髭に手をかける。そのまま一気に引き剥がしてしまった。
髭がなくなり、印象が驚くほど若返る。おそらくは、二十代半ばくらい――旦那様やヴィンスさんと同じくらいだろう。
赤金色の髪に碧眼の瞳。彫りの深い整った顔立ちに、薄い唇がいかにも酷薄そうで、胸の奥から恐怖心が湧いてくる。
男は再び御者台に向かって居丈高に命じた。
「出せ、ニール。怪しまれないよう並足で走れよ。――そのまま王都から脱出だ」
「……っ!?」
馬車がゆっくりと動き出す。血の気が引いていくのが自分でもわかった。
暴れ出そうとする私を察したように、男が私の隣に移動する。肩に腕を回され押さえ付けられた。
(さーわーるーなーっ!)
突き上げるような怒りに駆られ、渾身の力で男の足を踏んづけてやる。
男はぎゃっと悲鳴を上げると、忌々しげに私を見下ろした。
「大人しくしていろっ。奴への餌に使うだけで、別に危害を加えるつもりは無い!」
「当たり前です。そんな事をしようものなら、貴方は生きたまま氷漬けにされてしまいます」
御者の男から口を挟まれ、誘拐犯はみるみる顔を引きつらせる。ぷるぷると身を震わせ、開いた小窓からすがるように囁きかけた。
「……お前は?」
「逃亡します」
「そこは嘘でもお供しますって言えよ!?」
誘拐犯がわめいている隙に、私は必死に身をよじって帽子とショールを払い落とす。車窓に張り付き助けを求めようとしたところで、再び男に押さえ付けられてしまった。
「ちゃんと被っていろ! 途中で発見されようものなら計画が台無しだっ」
……計画?
一体、私を攫って何をする気なんだろう。
それに、さっきこの男が言っていた「奴」というのは――
男は私の視線を読んだようで、皮肉げに顔を歪ませて嘲笑う。その瞳に嗜虐の色が宿り、私はビクリと身をすくませた。
「俺は、君の夫……シリル・レイディアスに因縁がある。奴から何度となく聞いた事があるはずだ。この俺――クライヴ・ルグロの名を!!」
――刹那。
車中にカッと眩しいほどの光が満ち、数拍置いて恐ろしい雷鳴が轟き渡った。
茫然と男を見返した私は、胸の中でその名を反芻する。心臓が早鐘を打つ。
(……クライヴ・ルグロ……!?)
…………
…………
…………
って誰。
いたっけそんな人、と首をひねっていると、それまで得意満面だった男が目に見えて愕然とした。おろおろと眉を下げ、私の肩を激しく揺さぶる。
「そんなっ……! 嘘だろうっ? さあ、深呼吸をしてもっとよく思い出してみるんだ! 一度ぐらいなら聞いた事あるよなっ。なっなっなっ!?」
猿ぐつわで深呼吸とかできるかーっ!
そしてやっぱりあなたなんて知りませんっ!
怒りに燃えた眼差しで男を睨み据え、ぶんぶんぶんと首を横に振り続ける。男の手が力なく私の肩から落ちた瞬間、御者台から「ぶぐぅ」という奇声が聞こえた。
二人同時に小窓に目をやると、御者の男がだらしなく顔を緩ませていた。
「ぷぷぷぷぅ。クライヴ様ってば超ダッサぁ~。ウ~ケ~るぅ~」
「……ニールっ! お前、今月減給な!?」
「…………」
何なんですかね。この誘拐犯……?




