第75話 緊急事態発生です!
最終エピソード開始します。
見上げると、どんより分厚い曇り空。
真昼間だというのに薄暗く、今にも空が泣き出してしまいそうだ。
開いた窓をパタンと閉じて、私はうぅんと首をひねった。背後の二人を振り返る。
「どうします? 予定よりちょっと早いけど、雨が降る前に出発しましょうか」
「賛成賛成! ……ジルさんがよければ、ですけど」
ジーンさんがもじもじと執事のジルさんを窺うと、彼はにっこり微笑んだ。ハンガーラックからジーンさんのコートを取り、優しく彼女の肩にかける。
「ええ、勿論でございます。――奥方様もコートをどうぞ」
「ありがとうございますっ」
防寒の準備をばっちり整えて、三人で秘密基地を後にする。
待ち合わせ場所に使っただけで、今日の目的は秘密基地でまったり過ごす事じゃない。そう、今日私達が集まったのは――延び延びになっていた約束を果たすためなのだっ!
大通りに出て辻馬車を探すジルさんを横目に、ジーンさんの袖を引いてこっそり囁きかける。
「ホントに私も一緒で良かったんですか? せっかくのデートなのに」
「いいのいいのっ。ジルさんと二人きりだなんて、緊張しすぎてマトモにしゃべれる自信ないもん!」
耳まで真っ赤にしてわたわたと腕を振る。
微笑ましい眺めに噴き出す私を、ジーンさんは気遣わしげに見返した。ためらうように私の手を握る。
「シリルは、今日も仕事なんだよね? 来られなくて残念だったね」
私はぱちくりと目を瞬き、それから笑って首を振った。
「大丈夫! シリル様、今すっごく頑張ってるから。応援するって決めたんです」
それに、今日のカフェ巡りは旦那様のためでもあるのだ。
ちょうど辻馬車を捕まえたジルさんの方へ向かいながら、私は得意満面で計画を披露する。
「先月、王宮のお茶会で食べたお菓子が珍しかったんですよ。ケーキなのに甘くないんです! あれならシリル様も食べられるだろうから、お土産に買って帰ろうと思って」
最近、王都では塩味のお惣菜ケーキが流行しているらしい。
今日はジルさん推薦のカフェを数軒回る予定。
私はひたすらお惣菜ケーキを食べ比べ、ナンバーワンを選んでみせる!
決意に鼻の穴をふくらませる私を、ジーンさんが拍手で讃えてくれる。
「いいねいいねっ。あたしも手伝うよ!」
「ありがとうジーンさん! 今日は一緒に食い倒れましょうねっ」
馬車に乗り込む私達に手を貸しながら、ジルさんもうんうんと同調した。
「わたくしもじっくり味わいます。旦那様の御為に、見事レシピを盗んでみせましょう」
カフェデートという目的から、少々ずれた気がしないでもないけれど。
固い結束の元、元気いっぱいに出発する私達であった。
***
「一軒目のチーズとキノコ入りのケーキ、最高でしたよねっ」
「うんうん! 葡萄酒とも合いそうだし、シリルも絶対喜ぶと思うよ!」
「先程のトマト入りケーキは赤い色が鮮やかでございました。わたくしはトマトとチーズで試作品を作ってみたく存じます」
次のカフェはごく近いそうなので、徒歩で向かいながらケーキ談義に花を咲かせる。
空はますます暗くなっているけれど、まだかろうじて雨は降っていない。空を気にして足を急がせていると、車道側を歩くジルさんが眉をひそめた。
彼の視線の先には――歩道を埋め尽くさんばかりのたくさんの人々……。おおおっ!?
ジルさんが物憂げなため息をつく。
「こちらのカフェは人気店なので、いつも行列ができるのですが……今日は特段長いようでございますね。別の店へ向かいましょうか?」
私とジーンさんは困り顔を見合わせて、もう一度長蛇の列をじっくり眺めた。ざっと見た限りでも十人以上はいそうだ。今もまたひとり最後尾に並んで――……って、あの赤髪はっ!
「――ラルフさんっ?」
反射的に叫んだ私を、彼は怪訝そうな顔で振り返る。私達を認めて軽く目を見開いた。
「ミア殿。ジーンも。それからそちらは……団長のご自宅の……?」
「執事のジルでございます、ダイアー様」
挨拶を交わしながら、私達もなんとなくラルフさんの後ろに並んでしまう。私だけぴょんと一歩前に出て、私服姿のラルフさんの隣に立った。
「今日はお休みなんですか? ラルフさんもカフェが好きなんですねっ」
そういえば彼と初めて会ったのもカフェだったっけ。ジルさんと同好の士なのかもしれない。
笑顔で尋ねる私に曖昧に頷くと、ラルフさんは挙動不審に背後を窺った。
私達の後ろでは、ジーンさんが頬を染めながらジルさんとおしゃべりしている。潤んだ瞳がきらきらと輝いていた。
「……なんだ、アレは。馬鹿みたいにはしゃいでいるな」
むっつりと吐き捨てるラルフさんに、私はしぃっと人差し指を唇に当ててみせた。後ろの二人に聞こえないよう、秘密めかして囁きかける。
「いいんですっ。だって、今日はあの二人のデートだもん!」
まあ、ジルさんは単なる案内人のつもりみたいだけど。私はぺろりと舌を出し、声をひそめて解説を続ける。
「ジーンさんは上品な素敵紳士が大好きなんです。具体的に言うなら、落ち着いていて包容力のある、うんと年上の男性――」
「……上品。包容、力……?」
ラルフさんがなぜか愕然とした様子で繰り返す。内心首を傾げつつも、私は重々しく頷いた。
「そう。白髪もしくはグレイヘアが似合えばなお良し! だそうです」
「白髪っ!?」
すっとんきょうな叫び声を上げたかと思うと、今度はせわしなく自身の赤毛をつまむ。その瞬間行列が少しだけ動き、私達はぞろぞろと前に詰めた。
歩くうちに、だんだんとラルフさんの背中が丸まっていく。そして斜めに傾きゆらゆら揺れ始める。……うん、ゾンビかな?
「ラルフ君! お腹でも痛いの?」
心配そうなジーンさんの声が飛んだ途端、ラルフさんの背筋がシャキンと伸びた。憤然とした様子で彼女を振り返る。
「――わかったぞ! さては遺産目当てだなっ?」
……何の話?
唐突な糾弾に、ジーンさんもぱちくりと瞬きする。しばしの沈黙が満ちた後、彼女はふっとニヒルな笑みを浮かべ、砂色の髪をくしゃりとかき上げた。ラルフさんに向かって自信たっぷりに胸を反らす。
「遺産など、このあたしには必要なくてよ! なぜならあたしは魔動工学研究者にして大学教師! 目標は生涯現役、ばりばり稼いでピンピンコロリ!!」
堂々たる宣言に、ラルフさんはこれでもかと目を見開いた。一転して悔しそうな表情に変わり、流れてもいない汗をぬぐう。
「くっ、さすがだなジーン……! アッパレな心意気だ!」
「ふっふ。ラルフ君もあたしの背中を追うがよろし!」
盛り上がる二人に目が点になる。
会話が成立してるような、してないような?
首をひねっていると、ジルさんが「仲がよろしいですなぁ」と穏やかに目を細める。ああっ、その眼差しは完全に孫を愛でるおじいちゃん……!
頭を抱えているうちに、また少し行列が進む。私は喜び勇んでみんなを見回した。
「これなら、案外早く順番が回ってくるかも――」
「うわあああっ!! 魔獣だ、魔獣が出たぞーーーっ!!」
突如。
大通りの向こう側から、つんざくような悲鳴が轟き渡る。
列に並ぶ人々も通行人も、談笑していた表情のまま固まって、まるでここだけ時間が止まったかのよう。かくいう私も完全に思考が停止して、悲鳴が聞こえた方向をただぼんやりと眺めた。
「キャアアアアア!!?」
「逃げろおぉっ!!」
けれど、我先にとこちらに駆けてくる人々が目に入り。
我に返ると同時に、恐怖で足が震えてくる。ラルフさんが立ち尽くす私とジーンさんを、素早くジルさんの方へと押しやった。
「彼女達を! 僕はすぐ現場に向かいます!」
「承りました。ダイアー様もお気を付けください」
気遣わしげに見送るジルさんに頷き返し、ラルフさんはさっと駆け出した。人波に紛れてあっという間に見えなくなる。
「ラルフ君っ、怪我しちゃダメだよ! ――行こう、ミアちゃん! 早く避難しないとっ」
ラルフさんの消えた方向に向かって怒鳴り、ジーンさんが痛いほどきつく私の腕を掴んだ。
ジルさんに先導されるまま、私達は足を急がせた。




