第74話 あふれる想いは…?
「…………」
「…………」
エマさんが去ったソファ席に、重苦しい沈黙が満ちる。
二人分ほど離れて座る、隣の国王様にちらりと目をやるが、彼は沈黙を埋めるようにひたすらお茶を飲んでいるだけだった。頑なにこちらを見ようとしない。
私は小さく息を吐き、震えそうになる呼吸を飲み込んだ。
(……まさか。シリル様と別れろ、とか言われるんじゃ……)
ぎゅ、と膝に置いた手に力を込める。
――例え王命であっても、それだけは絶対に受け入れられない。
行きたくない社交だって、身の丈に合っていないドレスだって、笑って我慢してみせるから。だからどうか、これからもずっと――
「……最近の、シリルは」
「……え?」
不意にこぼれた国王様の一言に、慌ててうつむいていた顔を上げる。息をひそめて彼を見つめるが、彼は相変わらず睨むように正面だけを見据えていた。
「引退した魔法士団の連中を訪ね、任官中に遭遇した魔獣の話や、人里へどのような被害が出たかを詳しく聞き集めていると聞いた。王立学院の図書館にも足繁く通っているようだ」
私は驚きに目を瞬く。
ここ最近、お休みの日も仕事に行っているとばかり思っていたのに。
「団の部下達にも、積極的に声を掛けて意見を取り入れているらしい。……方々から耳に入ってきて、皆一体誰の話をしているのかと耳を疑ったぞ」
淡々と話していた声音に微苦笑が混じる。
何か答えなければと思うのに、声を出した瞬間に泣き出してしまいそうで、私はただきつく目をつぶった。
(……シリル、様……)
あの夜、己の職責に向き合うと決意していた彼の姿を思い出す。
学んで、交流して、協力し合う。
旦那様はそうやって、この道を進むと決めたのだろう。確固たる一歩を踏み出し始めたのだ。
ぼんやりと思考に沈みそうになるのを、国王様の力強い言葉が遮った。
「シリルは昔から他人を寄せ付けず、実の兄にすら心を開こうとしなかった。そんなあいつが変わったのは――きっと、君のお陰だな」
「……そんな」
戸惑う私に、国王様はふっと微笑んで手を差し伸べる。
「色々と辛く当たってすまなかった。母親の身分で苦労したあいつに……せめて妻だけはと考えたのだが、余計な世話だったようだ。――これからもどうか、弟をよろしく頼む」
予想外の言葉に息を呑み、私は慌てて立ち上がった。国王様の手を握り返す。
「はいっ、もちろん! こちらこそ、よろしくお願いします!」
笑顔で答えながらも、そんな自分をどこか遠くに感じていた。
旦那様が自分の道を見つけたこと、他者と積極的に関わろうとしていること。
私にとっても嬉しくて、涙が出るぐらい幸せなことだと思う。誓って嘘じゃない。
――嘘じゃない、のに。
胸の奥のずっと奥、自分でも見えないぐらい深い場所に、ぽつんと一つだけ黒いシミが落ちている。
多分、きっとこの感情は。
(……さみしい)
「――ミア姉様っ!」
突然、嬉しげに弾んだ声とともに、小さな子どもが抱き着いてきた。
はっと我に返り、私の腰にしがみつく蜂蜜色のふわふわ頭を見下ろす。瞬時に暗い思考は消え去って、自然と笑みがこぼれた。
「アビーちゃん! 学校は終わったの?」
「うんっ。馬車を降りたところで、シリル叔父様にもお会いしたの」
彼女の言葉に驚いて振り向くと、旦那様が大股でこちらに歩み寄ってくるところだった。後方にはエマさんも立っている。
旦那様は国王様に無言で会釈して、険しい顔で私の頬に手を伸ばす。
「……顔色が悪い」
「えっ!? そ、そんな事ないですよっ?」
ほっぺたをつねって確かめていると、旦那様は小さく吐息をついた。私に抱き着いたままのアビーちゃんの後頭部をつつき、そっと彼女を引き離す。
「アビゲイル。ミアは疲れているようだから、今日は失礼させてもらう」
アビーちゃんは大きな目をまんまるにして、私と旦那様を見比べた。こっくりと頷き、そのまますがるように旦那様の服を掴む。
「なら、今度お屋敷に遊びに行ってもいいですか? シリル叔父様」
「ああ。いつでも構わない」
無表情に答える旦那様に、アビーちゃんは花が咲くように微笑んだ。ぴょんと飛び跳ねたところで、一転して顔を引きつらせて凍りつく。
彼女の視線の先には――ドス黒いオーラをまとった、般若の形相の国王様……?
「お、お父、様? ただいま、戻りました……」
ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません……。
消え入るような声で謝罪したかと思うと、アビーちゃんは回れ右して脱兎のごとく逃げ出してしまった。エマさんもすかさず彼女を追いかける。……えぇっと。
「あ、あの。国王陛下……?」
恐る恐る彼の顔を覗き込むと、彼はいつぞやのようにぶわぁっと涙をあふれさせた。わーーーっ!?
「やっぱり、やっぱりこの顔があぁっ!! わたしもシリルのような美形ならーーーっ!!」
「……別に顔の作りは関係ないかと」
あからさまに面倒臭そうに答える旦那様を、国王様はギリィッと歯ぎしりして睨みつける。
「くっ……。いつの間にわたしのアビーと! シリルの、シリルの裏切り者ぉぉぉっ!!!」
うわーんと泣き叫びながら国王様も走り去っていった。
「…………」
私ひとり茫然と国王様の後ろ姿を見送るけれど、旦那様は傷心のお兄さんを一顧だにしない。人差し指で私の前髪をかき上げ、気遣わしげに顔を覗き込む。
「気疲れしたろう。陛下からおかしな事は言われなかったか」
「――いいえ、全然! そうじゃ、なくて……あのっ」
旦那様の指を掴み、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……シリル様が、お仕事頑張ってるって褒めてました。弟をよろしく頼むとも」
旦那様は私の言葉に軽く目を瞠り、ややあって「そうか」と噛みしめるように呟く。その声音に安堵の響きを感じ取って、私も笑顔で彼を見上げた。
「ご家族にやっと認めてもらえましたっ。シリル様のお仕事の話も聞けちゃったし」
「家族といっても、名ばかりだ。これまで一度も実感した事は無い」
無愛想に告げ、旦那様は先に立って歩き出す。
焦って追おうとした私を振り返り、立ち止まってゆっくりと手を差し伸べた。
「俺の家族なら、お前が居る」
「……っ」
優しい眼差しに呼吸が止まり、おずおずと大きな手を握り返す。なぜだかまた涙があふれてきそうになった。
繋いだ手から温もりが伝わって、胸の奥の黒いシミが綺麗さっぱり消えてゆく。
ごしごしと目をぬぐい、泣き笑いで彼の胸を叩いた。
「駄目ですよ、私だけじゃあ。クーちゃんもヒューさんも、国王陛下もみんなみんな! シリル様のこと、大事な家族だって思ってるんだから」
しかつめらしく言い聞かせると、旦那様は苦虫を噛み潰したような顔になる。眉間にシワを寄せながらも、重々しく頷いた。
「……前向きに善処する」
何その政府答弁みたいな回答!?
思わずずっこける私を見て、旦那様がわざとらしく咳払いした。
「帰るか」
「――はいっ」
絡めた指に力を込めて、二人で柔らかく笑い合う。温室の窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、優しく私達を照らしてくれた。




