第63話 胸が痛む理由とは?
食事が終わった途端、旦那様は無言で立ち上がった。私の手を取り、ジーンさんとラルフさんを見下ろした。
「ジーン、部屋を借りるぞ。ラルフ、次の見回りは二時間後にする。それまで自由に過ごせ」
言い置いて、足早に食堂を後にする。
黙って腕を引かれながらも、私の心臓はバクバクいっていた。旦那様の横顔を盗み見する。
食事中は平静を装っていたつもりだけれど、勘のいい旦那様の事だ。見抜かれてしまったかもしれない。
部屋に入ると、旦那様は一直線にベッドに向かって腰掛けた。緊張して立ったままの私を見上げ、もう一度優しく腕を引く。
「少しだけ、魔力を減らしておきたい。調整が必要だから、今日は俺がする」
「――ああ、はいっ」
なんだ、わんこそばタイムか!
安心して私もベッドに座り、さあどうぞと言わんばかりに前髪を上げた。
旦那様はふっと瞳をなごませ、早速手のひらに魔力を込め始める。そのまま、会話のない静かな時間が流れた。
温かくて居心地の良い沈黙に、私はこっそりあくびを噛み殺す。初めての温泉にはしゃぎ過ぎて、なんだか眠くなってきたのだ。
(……考えなきゃ、いけないのにな……)
うとうとしながらも、頭から離れないのはあの女の人のこと。本当に、彼女が旦那様のお母さんなのだとしたら――
「……悪かった」
不意に思考を遮られ、はっと顔を上げる。
驚いて見つめ返すと、旦那様は決まり悪げに目を伏せた。
「食事中も元気が無かったろう。……さっきは、きつく言い過ぎた」
言われた意味がわからず、一瞬ぽかんとしてしまう。露天風呂に入って叱られた件だと気付いて、慌ててかぶりを振った。きゅっと旦那様の袖を掴み、一生懸命に訴える。
「ううん、違うんです! そうじゃなくてっ」
「……? どうした」
私の頬に手を当てて、旦那様が怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。距離の近さに、反射的に真っ赤になってしまう。焦りのせいか、とっさに言葉が口をついて出た。
「シリル様のお母さんがっ。どんな人なのかなって気になって!」
「……は?」
旦那様の目が点になる。
――しまった。
脈絡なさすぎ……っていうか、もっと遠回しに聞こうよ自分!?
己のアホさ加減に崩れ落ちそうになる。どう誤魔化すべきかと思考をフル回転させていると、眉をひそめて黙り込んでいた旦那様が、ゆっくりと考えるように口を開いた。
「俺も、よくは知らん。ずっと別々に暮らしていたからな」
「え? 別って……。子供の頃から、ですか?」
戸惑いながら尋ねると、旦那様は淡々と頷く。
「母は愛妾として王宮で暮らしていたが――俺は早々に、王宮から離れたあの屋敷に出された。幼少の頃はよく、感情のままに魔力を暴走させていたからな。危険因子として隔離されたんだろう」
「そんな……っ」
絶句する私に、旦那様は何でもなさそうな顔で首を振った。
「別に構わない。屋敷は屋敷で気詰まりだが――それでも、王宮よりはよほどマシだ」
「でも――でも。お母さんと、離れ離れだったのは……」
声を絞り出して問う私に、旦那様は冷めた視線を向ける。その瞳には何の感情も浮かんではいなかった。
「側に居てほしいと思った事は一度も無い。母は母で好きに生きればいい。――俺には、興味も関心も無い事だ」
目の前にある事実を、そのまま読み上げているだけのような平坦な声音に、息が止まりそうになる。
旦那様の言葉が、悲しくて苦しくて……ただ切ない。
締めつけられるように胸が痛むのに、言うべき言葉が見つからなかった。ぎゅっと唇を引き結ぶ。
(きっと……本心、だからだ……)
強がりでもなんでもなく。
旦那様は本当に、お母さんと引き離された事を悲しんでいない。今でも、お母さんに会いたいと思っていない。
――それがわかってしまったから。
こんなにも、胸が痛むのだ。
***
「はあ……」
真っ暗な中、むくりとベッドから起き上がった。全っ然眠れない。
夜中までしゃべろうね!と約束したものの、ジーンさんは気持ちよさそうな寝息を立てている。どうやらベッドに入ったら秒で眠れる体質のようだ。
(いつもだったら、私だってそうなのに)
羨ましく思いながらジーンさんを見下ろし、ショールを手に取って立ち上がった。足音を立てないよう、注意しながら部屋を出る。
魔力灯でぼんやりと照らされた廊下を歩き、一階の受付を目指した。本でも借りられないかと思ったのだが、あいにく受付は無人だった。
「あっちゃ~……」
「どうした?」
うわわわわっ!?
悲鳴をなんとかこらえて飛び退ると、怪訝そうな顔をした女の人が立っている。露天風呂で出会った、推定・旦那様のお母さん――
「…………」
容疑者度、ますますアップ。
私の目は彼女の頭に釘付けになった。
きっぱりと短く切った短髪が、青みがかった銀色だったのだ。
絶句して彼女の髪に見入っていると、無表情な彼女からいきなり腕を掴まれた。覆いかぶさるように顔を覗き込まれ、反射的に真っ赤に――って、さっきもこんな事があったような!?
「……眠れないの?」
「へあっ?」
間の抜けた声を上げる私に、彼女はもう一度淡々と繰り返す。
「眠れないの? もしそうなら、少しだけ付き合って」
言い終わるか終わらないかのうちに、強引に腕を引かれた。玄関に用意されているソファまでいざなわれ、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛ける。
「絵のモデルになって。なるべく動かないでほしいけど、眠くなったら目をつぶってもいいから」
言うなり、テーブルに置かれていたスケッチブックを広げ始めた。鋭い目で私を観察しながら、すばやく鉛筆を走らせる。
彼女の真剣そのものといった表情を見返し、私はコクリと唾を飲み込んだ。
「あ、の……」
「なに」
素っ気ない口調に怯みそうになるけれど、それでもなんとか踏みとどまる。姿勢を正し、肩にかけたショールをぎゅっと握り締めた。
「私……私、ミアっていいます。あなた、は……」
「……わたしは、クロエという」
――やっぱり!
息を呑む私を無表情に見つめ、彼女は平坦な口調で続ける。
「クーちゃん、もしくはクロたんと、呼んでもらって構わない」
「…………」
なんですと?




