第56話 思いは同じと信じています!
失言の二乗に、私はもはや言葉を発する事ができなくなった。両手で口を押さえ、おろおろとテーブルを見回す。
痛いほどの静寂の中、息をひそめていると、テーブルに倒れ伏していた旦那様が勢いよく身を起こした。
射抜くような鋭い瞳で、まっすぐに私を見つめる。
「――弁解はしない。だが、誓約を取り消すつもりは無い。あの時の選択を後悔もしていない。……身勝手なのは承知している」
「――そんなことっ!!」
反射的に大きな声が出た。
震えながら旦那様を見返し、ふるふると首を横に振る。
「そんなこと、ないです……っ! 決めたのは、私だもん。私が、シリル様の力になりたかったから……!」
初めて会った時の旦那様は、疲れきっていた。
顔色も悪く、美しい碧眼の瞳すら暗く翳っていて。世の中には楽しい事なんかひとつもないと、諦めているようにすら見えた。
その姿にかつての己に重ねて。
共に行くと、決めたのは。
支えたいと、願ったのは。
――他でもない、私自身だ。
震える体を叱咤して、大きく深呼吸する。ぎゅっとこぶしを握り締め、挑むように旦那様を見据えた。
「……私だって。誓約を、取り消す気なんかありません。後悔だってしてない。これからもしない。……絶対、絶対に……!」
じわりと涙が浮かんできたけれど、それでも旦那様から目を逸らさなかった。
見つめ合う旦那様の瞳が揺れた。
強ばっていた表情が緩み、長い吐息をつく。
そして。
手のひらに、ぽつんと落ちた雪が溶けるように。
――あわく、はかなく微笑んだ。
「…………」
涙目のまま、呆けたように初めての彼の笑顔を見る。
旦那様は照れたように顔を背けると、ぶっきらぼうに手を差し出した。はっと我に返り、慌てて私もその手に自分の手を重ねる。
「……帰るか」
「……っ。はいっ……!」
笑顔で頷いた瞬間、「んごぉぉ」という奇声が聞こえた。
魔獣の断末魔かと思いきや、目を真っ赤にしたヴィンスさんだった。どピンクのフリフリレースハンカチを目元に押し当て、あうあうと泣く。
「ジリル……っ。よがっだわねぇ……!」
「うんうん! ミアちゃんの心の広さに感謝しなきゃだねっ」
ジーンさんもはしゃいだ声を上げ、ラルフさんも赤くなった瞳を誤魔化すように、大きく咳払いした。
カウンターの中からニックさんも手を叩く。
「いやぁ。一件落着ってところですなぁ」
「良かったわねぇ、アナタ」
「青春ってやつかい! だっはっはっ!」
「若い頃を思い出すねぇ!」
カミラさんとカウンター席のお客さん達も大盛り上がり……って丸聞こえじゃないですかーーーー!!
狭い酒場で何ということを!と頭を抱えていると、エマさんが私の手を取った。自分の胸元に引き寄せ、ぎゅっと握り締める。
その顔は、怖いくらいに真剣だった。
「……ミア様。わたくし……ミア様のお気持ち、しかと受け取りましたわ」
「エマさん……!」
よかった。
どうやら、わかってくれたらし――
「たとえ強制的だったとしても。今はお幸せという事ですわね。つまり、ヴィンセント様も婚姻誓約書に署名すべきだと」
「違いますよっ!?」
全然伝わってないーーー!!
むしろ太鼓判を押してしまった!?
大慌てでヴィンスさんに目をやると、白目を剥いて固まっていた。
無表情に小首を傾げた旦那様が、ヴィンスさんの鼻の前に手をかざす。あっ、もしや呼吸が止まってます!?
「副長っ! しっかりなさってください!」
ラルフさんがヴィンスさんの胸ぐらを掴み上げ、前後に荒っぽく揺さぶる。ああっ、ヴィンスさんの首がグラグラにっ!
騒然とした雰囲気の中、グッという呻き声がエマさんの美しい顔から漏れた。いかめしい表情が崩れ去り、苦しそうに震え出す。
「……くっ……ふふっ。――あはははははっ!!」
「え、エマさん……?」
恐る恐る様子を窺うけれど、彼女は私なんか見ていない。片手でテーブルをバンバンと叩きながら、お腹を押さえて笑い転げている。
「エマさん大丈夫っ? ハイ、気付けに一杯!!」
自身の注文していた酒瓶を、ジーンさんがすばやく差し出した。エマさんは涙を流しながら受け取ると、ためらいなく瓶の口に唇を当てる。勢いよく上を向き、ごくごくと喉を鳴らしてラッパ飲みに飲み干した。
「…………」
お、男らしい……。
というかジーンさん。それ「一杯」じゃなくて「一本」では?
ぷはっと空の瓶をテーブルに叩きつけると、エマさんはぐいと唇をぬぐって不敵に笑った。
「――冗談ですわ」
「……へ?」
やっと白目の治ったヴィンスさんが、驚いたようにエマさんを見返した。
エマさんは「まあ、間抜け面ですこと」と小さく呟くと、もう一度くすりと笑う。カミラさんに同じお酒を追加注文し、改めてヴィンスさんに向き直った。
「もとより、無理やり署名させる気なんて、これっぽっちもありませんでしたわ。今のお願いは、単なるいつものアレですの」
「……アレ?」
「わたくしの唯一にして最大の趣味。ヴィンセント様い・じ・め」
エマさんのあっけらかんとした物言いに、全員が勢いよく崩れ落ちた。声も出ない私達を見回して、エマさんはくすぐったそうに笑う。
「――本当のお願いを、今から申し上げても?」
「ええ……。もう、何でも来なさいよ……」
げんなりするヴィンスさんに向かい、ぴっと人差し指を彼の鼻頭に突き付けた。
「わたくし達、まさに猫と鼠の関係ですわね? わたくしが追い、ヴィンセント様が逃げる。そのせいで、圧倒的に足りないのが会話だと思いますの。――ですから」
一度言葉を置いたエマさんに、ヴィンスさんが緊張の面持ちで唾を飲み込む。エマさんはおっとりと微笑んだ。
「最低でも、週に一度。わたくしのために時間を割いてくださいな。一緒に出掛けたり、こうやって食事を取ったり、お酒を飲んだりしたいのです。……これが、わたくしからの願いですわ」
ヴィンスさんは目を瞬かせたけれど、やがて苦笑して頷いた。その頬には血の気が戻っている。
「……ええ、了解よ。考えてみたらアタシ達、幼友達ですものね?」
「まあ。とっくにお忘れかと思っておりましたわ」
いたずらっぽく笑い合う二人に、やっと場の空気がなごんだ。収まるところに収まって、良かった良かった。
笑顔のエマさんは追加の酒瓶を引き寄せると、二つのグラスになみなみと注ぐ。
こぼれそうな片方を、問答無用でヴィンスさんの方へと押しやった。ヴィンスさんの頬がピクリと引きつる。
「……や、あの。アタシ、そんなに強いお酒は……」
「あぁら。わたくしの勧めるお酒が、飲めないとでもおっしゃいますの?」
幸せそうな笑顔が一瞬にして消え去り、据わった目でヴィンスさんを睨みつける。……え。
突然、旦那様が無言で立ち上がった。カウンターですばやく会計を済ませ、私の腕を掴んで強引に立たせる。
「帰るぞ。……これは長くなる」
えっ? えっ?
「そだ、あたしも明日は朝イチで講義だったぁ! お先に失礼しまーす!」
「ぼ、僕も明日は早番なので。副長、お疲れ様でした!」
ジーンさんとラルフさんもさっさとコートを着込む。
ヴィンスさんが顔色を変え、すがるように手を伸ばした。
「ちょ、待っ……! ていうかラルフ、アンタ確か明日休みよね!?」
「ハックション!!」
わざとらしくクシャミをしたラルフさんが先陣を切り、私達は我先にと外へ飛び出した。
夜のしじまに悲痛な叫び声が響き渡ったけれど、誰もがあさっての方向に目を逸らす。旦那様に腕を引かれながら、私は胸の中でそっと謝罪した。
ごめんね、ヴィンスさん……。
私、残念ながら未成年なもので……。
次回は幕間を更新します!




