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第55話 ヤブヘビとはこの事ですね!

 先程までの喧騒が嘘のように、酒場はしんと静まり返った。


 そっと周りを見回すと、ニックさんとカミラさんは息を呑み、カウンター席のお客さん達も目を剥いている。


 水を打ったような店内で、ヴィンスさんがゴクリと唾を飲み込む音が響いた。

 心臓発作でも起こして倒れるのでは、と心配になった私は、慌ててヴィンスさんへと視線を戻す。すると、意外にも彼は落ち着き払っていた。


 色を失いながらも毅然と背筋を伸ばし、まっすぐにエマさんを見返すヴィンスさん。その瞳には一点の曇りもなく、強い決意に満ちあふれていた。


 凛々しく眉を上げ、きっぱりと言い放つ。


「――腱鞘炎(けんしょうえん)なので、ペンが握れません!」


 固唾を呑んで見守っていた全員が、だあっと崩れ落ちた。……もっとマシな言い訳はなかったんですかっ?


 しかし、エマさんは動じない。


「まあ大変。では、軽く握るだけで構いませんわよ。わたくしが上から手を重ね、一緒に書いて差し上げます」


 初めての共同作業ですわね?


 にっこり微笑むエマさんに顔を引きつらせ、ヴィンスさんは再びかぶりを振る。


「……いえ、残念ですが! 肋間神経痛(ろっかんしんけいつう)が痛むので、無理な姿勢は取れないのですっ」


「わかりましたわ。では、代筆で」


「こんな一生に一度の慶事に代筆など! 腱鞘炎と椎間板(ついかんばん)ヘルニアが完治するまで、あと五十年ばかりお待ちくださいっ」


 肋間神経痛じゃなかったっけ?


 首をひねる私をよそに、旦那様は大きなため息をつく。うんざりしたように二人を見比べた。


「……ヴィンス。そもそも、お前は本当に将来を約束したのか」


「……そっ……それが……」


 ヴィンスさんは挙動不審に視線を巡らせると、手のひらで顔を覆ってうつむいた。指の隙間から、呻くような声が漏れる。


「覚えて、ないわ……。エマは、初めて会った時からいじめっ子だったもの。約束なんか……するはず――」


「それが間違っているのです」


 ヴィンスさんの言葉を、エマさんが冷ややかに遮った。怒りのためか、その目元はうっすら赤らんでいる。


 己を落ち着けるように、エマさんはすっと深呼吸した。


「――わたくしとヴィンセント様が初めて会ったのは、王都で行われた建国記念祭でのこと。わたくしは七歳、ヴィンセント様は九歳でしたわ」


「……へ?」


 きょとんとするヴィンスさんに構わず、エマさんは淡々と続ける。


「わたくし、祭りの最中にブローチを失くしましたの。半泣きで探し回るわたくしを見て、行きずりの貴族の男の子が一緒に探してくれましたわ」


「……あ……!」


 ヴィンスさんがはっと目を見開いた。音を立てて立ち上がる。


「それって……アンタのお母様の形見のブローチ!?」


「……ええ。その通りですわ」


 エマさんは一瞬だけまつ毛を震わせ、怒ったように頷き返した。

 ヴィンスさんは小さく身震いすると、ふしゅうと抜けるような息を吐く。へなへなと椅子に座り込んだ。


「……最初は……迷子かと思って……。でも、お母様の形見を探してるって知って、アタシも手伝うことにしたの。最後には、なんとか見つけることができて――」


「わたくし、とっても嬉しかったんですの。ですから……小指を差し伸べて、汗みずくになった男の子に約束したのですわ」



“大人になったら、あなたのお嫁さんになってあげる”



「わわっ、ロマンチックですねー!」


 手を叩いて喜ぶ私を見て、エマさんはやっと表情をやわらげる。くすりと笑って懐かしそうに目を細めた。……かと思いきや。


 口角を上げたまま、眉だけぐぐぐと持ち上げた。


「……それなのに」


 エマさんが一転しておどろおどろしいオーラを放つ。うわっ、完全に目が据わってる!


 ヴィンスさんがヒッと息を呑んでのけぞった。


「一年後、ノーヴァ伯爵領で再会した時。ヴィンセント様は、わたくしにこうおっしゃいましたわよねぇ? 『やあ、初めまして』――さもさも面倒くさそうに。心の底から適当な口調で」


「えええっ、何それぇ!? ヴィンスってばひどーい!!」


 ジーンさんが身を乗り出し、間髪入れずにヴィンスさんに噛みつく。ラルフさんも苦々しげなため息をついた。


「副長。それは男としていかがなものかと」


「だだだだってぇっ! アタシた――ではなく我々はっ! 記念祭では名乗り合ったわけではありませんでしたから!」


 弁解するヴィンスさんを遮るように、エマさんがテーブルを激しく叩きつける。ぴょんとヴィンスさんが椅子の上で跳ねた。


「……わたくし、ヴィンセント様が思い出すまでいじめ続けてやろうと決意しましたの。いずれは、きっと思い出してくださるはずだと――」


 信じていたのに。


「ヴィンスが家出して会えなくなった、と」


 呆れ果てたように呟き、旦那様もヴィンスさんを見る。

 全員の視線が集中する中、ヴィンスさんはだらだらと冷や汗を流した。


「でっ、でも……。それって子供の口約束――」


「ノーヴァ領で再会してから、わたくし達は何度も勝負しましたわよね? 稽古でわたくしに勝てたら、お嫁さんになってあげる――そう申し上げたのは、ヒントを差し上げたつもりでしたのよ」


 それなのに。


「ヴィンセント様は、ことごとく! わざと! 転けたりよろけたり!! ――毎回、わたくしの圧勝でしたわ」


「……あの……でも……」


 弱々しく声を上げるヴィンスさんをひと睨みで黙らせ、エマさんは鼻息荒く続ける。


「そして、王立学院の庭で再会した時。ヴィンセント様はわたくしを認めた瞬間、真っ青になりましたわよね。わたくし、もしや自覚はないけれど化け物でしたかしら?」


「……イエ違イマス……」


 これ以上無理というところまで体を小さくし、チワワヴィンスさんはぷるぷると首を振った。

 さすがに気の毒になってきて、私は恐る恐る手を挙げた。エマさんがうながすように私を見る。


「あの、エマさん……。それでもやっぱり、愛のない結婚は良くないと思うんです。無理やりヴィンスさんに署名させるのは、ヴィンスさんが可哀想だと」


 思います、と続けることはできなかった。


 なぜなら――旦那様がテーブルに直角に頭を打ち付け、ヴィンスさんが椅子から転がり落ちたから。……なしてっ?


「団長、副長っ! 一体どうなされたんですかっ!?」


 ラルフさんが焦ったようにヴィンスさんを助け起こす。ヴィンスさんはよろよろと椅子に座り直すと、テーブルに突っ伏してピクリとも動かない旦那様を激しく揺さぶった。


「しっかりなさい、シリル! 傷は浅いわ!!」


 私はぽかんと二人を見比べ、そこでやっと己の失言に気が付いた。さああっと血の気が引いていく。


「ちっ、違いますよっ!? 私じゃなくてヴィンスさんの話ですっ。別に私は可哀想じゃないし、ごはんおいしーし、無理やりでも幸せですよっ?」


 わたわたと手を振り回しながらフォローするけれど、ヴィンスさんからシャアッと歯をむき出して威嚇された。


「傷口に塩を塗り込むんじゃないッ!!」


 なんでー!?


「……つまり。この会話から類推するに」


 エマさんがぽつりと呟くと、顔を強ばらせたラルフさんが後を引き継ぐ。


「団長は、ミア殿に無理やり……婚姻誓約書に署名させたと……」


 酒場に再び重苦しい沈黙が満ちた。


 あああああ!!

 やってしもたぁーーーーっ!!!

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