第35話 伝えたい思いがあるのです!
旦那様は私の膝に頭を乗せ、落ち葉の栞を目の上に持ち上げて、物珍しそうに眺めている。
昨夜のように渋るかと思っていたら、意外にもあっさり横になってくれた。
これで案外旦那様も酔っぱらっているのかもしれない。顔色こそ全く変わっていないものの、部屋に入る時は軽くよろけていたし。
結局ヴィンスさんは泊まっていくこととなり、私と旦那様はいつも通り彼の部屋へと移動した。
飽きずに栞を眺めている旦那様の髪を軽く梳き、深呼吸して集中する。少しずつ魔力を吸い取りながら、心配になって旦那様を見下ろした。
「シリル様。気分悪くないですか?」
「ああ」
無表情に返事をすると、旦那様は栞を傍らに置いて目を閉じる。目を閉じたまま、ためらうように口を開いた。
「――あいつは……。本当は、王都に出てすぐ、近衛兵に志願したらしい」
「……え?」
違和感を感じて、私は目を瞬かせる。
ヴィンスさんは十八で家出して、大学で旦那様やジーンさんと出会った。そう聞いている……けれど。
親と喧嘩して家を飛び出して、大学に入学するというのはそぐわない気がした。
そもそも生活にだって困るだろうし。お父さん以外の家族が、こっそり援助してくれたとか?
首をひねっていると、旦那様が再び静かに話し出す。
「……ノーヴァ家は名門だ。だから、国王は……兄は、あいつを信用した。近衛兵ではなく俺の見張り役として採用して、あいつを大学に送り込んだんだ」
「――えええっ?」
旦那様は目を開けると、驚きの声を上げる私をじっと見上げた。手を伸ばし、私の髪を一房つまむ。
「あいつは酔えば口が軽くなるがな。それでも、口に出していけないことはわきまえている。――だから、俺も長いこと知らなかった。あいつが友人として側に居る事を……当たり前に、思っていたんだ」
真実を知ったのは、一年ほど前のことだという。旦那様に注進してきた人物がいたらしい。
旦那様は無表情に私の髪をもてあそびながら、ぽつりとこぼすように呟く。
「――裏切られたと、思った」
「…………」
心臓がドクンと音を立て、旦那様の額に当てている私の手がカタカタと震えだした。
「……俺は。高等科のころ、大問題を起こしたからな。国王として、腕の立つ目付け役を置こうとしたのは間違っていない」
自嘲するように呟く旦那様が悲しくて、何か伝えなければと思うのに声が出せない。しゃべった瞬間、泣き出してしまいそうだったのだ。
代わりに、ぎゅっと目を閉じた。
――始まり方を間違えたんだもの。挽回したいなら、せいぜい誠心誠意を尽くすことね。
契約を修正した時の、ヴィンスさんのあの言葉。
あれは旦那様にではなく、本当は自分自身に言っていたのかもしれない。
胸が鋭く痛み、私は浅い呼吸を繰り返した。
震える体を叱咤して、ゆっくりと目を開く。涙をこらえて、旦那様の瞳を一心に見つめた。
「……始まりが、そうだったとしても。ヴィンスさんは絶対に、シリル様のことを大切に思ってます。……優しくて、思いやりがあって……すごく、まっすぐな人だもん」
どうか、思いが伝わってほしい。
ヴィンスさんだけじゃなく――
人の好意に鈍感で、不器用で、感情表現が下手なこの人のことを、私だって大事に思ってる。
こらえきれずにこぼれた涙が、旦那様の頬に当たって落ちた。旦那様は不思議そうに目を瞬かせ、手を伸ばしてそっと私の涙をぬぐう。
優しい瞳で私を見上げた。
それは、まるで。
微笑んでいるかのようで――
「シリルさ――」
「そぉよッ!!」
突然音を立てて扉が開け放たれ、顔を真っ赤にしたヴィンスさんが転がり込んできた。
肩で荒く息をして、苦しげに顔を歪めて旦那様を睨みつける。
「そりゃあ、最初は王命だったけどっ。アンタに付いて魔法士団に入ったのも、今まで友達付き合い続けてきたのも、全部自分がそうしたいと思ったからよ! 見くびらないで!!」
「…………」
息を呑む私をよそに、旦那様は体を起こして小さく首を傾げた。
「――知っている」
「だからっ、アタシは本当に――……はぇあ?」
頬を朱に染めていたヴィンスさんが、なんとも間抜けな声を上げる。衝撃に涙の止まった私も、唖然として二人を見比べた。
冷静なのは、ひとり旦那様だけだった。
まっすぐにヴィンスさんを見つめ、淡々と口を開く。
「……ひとの部屋に入る時は、ちゃんとノックしろ」
だぁっと私とヴィンスさんは崩れ落ちた。今突っ込むところソコですかっ?
ヴィンスさんがヨロヨロと身を起こす。
「だったら、きちんと扉を閉めておきなさいよっ。隙間から会話が漏れてたから、ついつい聞き耳立てちゃったじゃない!」
噛み付くように告げたかと思うと、途端に不安そうな顔に変わる。おどおどと視線を泳がせた。
「知ってるって……どういうこと?」
「正確には、今日知った。王宮で兄と会って――」
ちらりと気遣わしげに私を見る。
「ミアとの結婚を、許した覚えは無いと言われた。……おかしいと、思ったんだ。ヴィンスは兄の意を受けて動いているはずなのに、ミアに関しては二人の言動が一致していない」
「当ったり前よ! アタシはむしろ、アンタ達のこと応援してるし!」
旦那様を怒鳴りつけると、ヴィンスさんは堰を切ったように泣き出した。泣きながら、怒る。
「在学中は、確かに仕事としてアンタに付きまとってたけど……っ。卒業してから、ちゃんと陛下に話して命令を解いてもらったわ。だから、それからの事は、全部アタシ自身の意志なんだから……!」
「……ああ」
「疑ってたなら、直接確かめてくれたら良かったのよ! そしたら、アタシはちゃんと説明したわ!」
「……そうだな」
まくしたてるヴィンスさんに、旦那様はその都度静かに返事をする。
旦那様につられたのか、ヴィンスさんもだんだんと落ち着きを取り戻してきた。
荒い息を吐くヴィンスさんに頷きかけると、旦那様はゴロリと寝っ転がった。再び私の膝に頭を乗せて、ヴィンスさんから目を逸らすように横向きに寝る。
聞こえるか聞こえないかの声で、呟いた。
「……悪かった。次に同じ事があれば、ちゃんと確かめるようにする」
「こんな事がそう何度もあってたまるかっ」
即座に突っ込んだ後、ヴィンスさんはぶはっと噴き出す。ごしごしと涙をぬぐって、真っ赤な瞳で晴れやかに微笑んだ。
「……アンタに謝られたのなんて、初めてよ。――アタシも、悪かったわ。自分から話すべきだったのに、どうしても言い出せなくて……」
「……ああ」
旦那様は小さく答えると、話は終わりとばかりに目を閉じてしまった。もはや完全に寝る体勢である。
私は旦那様の髪を撫でながら、ある事に気付いてこっそり笑う。
「……なんだ」
目が開いて、じろりと睨まれた。
体が震えたせいで、笑っているのがバレてしまったらしい。私はちろりと舌を出す。
「いえいえ。……今日、シリル様がいっぱいお酒を飲んでた理由。ヴィンスさんとずーっと友達だったってわかって、嬉しかったからかなぁって」
「…………」
旦那様は絶句すると、みるみる目元を赤く染めた。
言い返そうとするように口を開きかけ、結局何も言わずに閉じてしまった。憤然とした様子で目をつぶる。
私とヴィンスさんは顔を見合わせ、お腹の底から笑ってしまった。
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜても、旦那様はぴくりとも動かない。意地になったようにたぬき寝入りを続けていた。
 




