部誌用
高校に入って学校や社会に対する自分の考えなどが、かなり変わっていったこと気づいた。
中学の時に抱いていなかった反抗心も生まれていた。なぜそのようなものが生まれてしまったのか、それは私には分からないが、多分、日本の教育や社会に疑問を持ってしまったからであろう。私は既存のルールや伝統、風習などが苦手だ。やりたいとも思わないし、守っていきたいとも思っていない。そのようなものは時代とともに変わらせるべきものであり、今まで変わっていったものを変わらせないというのは、時代遅れと言われる原因になるのではないのか、これ以上書いてしまうと流石に色々と周りに言われるため書かないが、私はこういう考えを持っておりそれに基づいて動いていることを忘れないでほしい。
さて、最初に書いた日本の社会と教育に対する疑問ついてだが、同時に語るとこっちの文章力的な問題がある為、それぞれ別個に書いていきたいと思う。
まず学校について。私は日本の学校教育が苦手である。それはなぜか、教室という狭い空間の中で机に座ることを強制されて教師の話を聞くということが、そもそも私の気質に合っていないのである。私は自分で自覚しているが多動症である。そのような人々にとって机に座ってじっとすることは苦痛に感じていると思っている。次に日本人の特徴である周りに合わせる、人の言うことを聞く、ルールを守る、対立を避けるなどが私の性格と非常に相性が悪い。今あげた4つのことなどについては非常に良いことだと思うのだが、逆に考えてしまえば個人の行動の制限、ルールに疑問を持たない、対立があまり発生しないなどになると思う。対立があまり発生しないというのは良いことに聞こえるかもしれないが、対立は人間の歴史においてとても重要な現象であり、議論においても対立をしなければ意味がないと私は思う。個人の行動の制限ということについて、私は非常に嫌悪を抱いている。私は「みんながやっているからやる」などのことがとても嫌いである。なぜならみんながやっているという理由のおかげで誰も行為のやる意味を考える人が少なくなっているからだ。このようなものは非常に集団的であり、個人の行動を制限することになっている場合がある。最後にルールに疑問を持たないことについて、これも深刻なものだと私は思っている。私はルールというものは在ってないようなものなのが、一番素晴らしい形であると私は思う。ルールに疑問を持たないというのは、将来、ルールはルールだからということでルールに疑問を持った人々を叩く可能性があるからだ。私は最初に書いた通りルールに縛られるのが嫌いでいらないルールというものは在ってないようなものが理想だと考えている。これらが私の考える学校に対しての疑問と自分の考えである。
次に社会についてだが、日本というのは新しいものを受け入れにくく、それによって世界的に遅れやすいと思っている。
新しいものを受け入れにくいというのは絶対に改善しなければいけないことだと私は思う。日本におけるAI技術の遅れの原因だと思われる古い発想や考えの人々、変化を望まない国民性が私はとても気に入らない。時代によって変わらせる、新しいものをバンバン取り入れるということは歴史的に考えてとても重要なことであることがわかる。西洋文化や外国の政治のやり方を参考にして発展したように、国外から積極的に考えや技術を受け入れるというのはとても大切なことだと私は考えている。
他の社会についての疑問ついてだが少数の意見に対しとても厳しいと言うことが自分の頭の中にある。これは日本人の国民性である集団への帰属意識の高さからくるものであると私は考えている。他の人に合わせないと孤立し、疎まれるという考えはもう捨てた方が良いと私は思った。他人に合わせるということは大切だと思うのだが、そうなると周りに合わせるだけの人間になり、自分の考えを持たないということにつながると私は思う。それを変えるために教育改革や個人で考える活動などを日本では増やしていってほしいと思った。
自分でこれを書いてて思ったのだが、私は結構な社会種適合者なのだなと思った。だが私はこの考えを変えるつもりはない。なぜなら自分でこの考えを正しいと考えているからだ。確かに、かなり捻くれていなければこんな文章は書けないし、理解されることも少ない意見ではあるが、私は多様性を受け入れているし、少数意見を聞くということはとても重要なことであると考えているから自分のこの考えを正しいと思っている。少数の意見を聞くことや海外の新しいものを受け入れて、変えるということはとても大切なことだということを伝えたいと思った。
最後に、これはただの高校一年生の意見であり、これを読んで様々な考えを持つ人もいるでしょうが、あくまでも考えなどは人それぞれですが、この世の中にはこういう考えの人もいるんだな~という感じで読み終わって頂けたら、嬉しいです。