病んだ妻
ある日の暮れ方の事である。やつれた中年が、煙草の火を消した。そして、雑居ビルの1階に店を構える、宝石店を訪れた。宝石店らしい清潔感は一切なく、コンクリートのビルを、ただ改装したような内装だった。
「この宝石はいくらですか。」
中年はルビーの値段を尋ねた。
「10万円でございます」
10万円。一番低いカラットでも、宝石はやはり高い。一般的なサラリーマンが、買えない値段ではないが、妻は買い物依存症であるから、家計に余裕はなかった。
「5万円で売ってくれないか。」
「失礼ですが、お客様。当店では値引きは一切、受け付けておりませんので。」
「そこをどうにか、してもらえないか。彼女が、ルビーを買ってこなれけば、死ぬというんだ。」
「そんな大仰な」
必死の懇願に、商人も困った様子だが、しつこく迫る中年に業を煮やした商人は、ついに警備員を呼んだ。すぐに駆け付けた警備員が、中年を店外へ追い出した。
宝石店から、JRで2駅ほど乗りついた住宅街に、中年のマイホームがある。家に帰宅すると、妻が出迎えた。
「ねえ、私の今週のラッキーアイテムはなーに」
休日に買い物に出かけさせた夫を、ねぎらうこともない妻に、少々腹を立てた。
「またその話か。」
素っ気ない物言いに、妻は激怒した。
「まさか買わなかったの?私の今週のラッキーアイテムは、ルビー!今すぐ買いにいって。ルビーがないと自殺する!」
彼女は台所へ走った。包丁でリストカットするつもりだ。手首を切る妻を、何度も見てからこそ、理解できる。
「待ってくれ」
必死に追いついて、彼女の手首を掴んだ。
「離して!」
彼女が掴まれた手を、振りほどこうと暴れる。
「もう、こんなことはやめるんだ!」
狂気じみた彼女の行動は、今に始まったことではない。半年前、彼女の両親が他界してからだ。
自殺志願と買い物依存。以前から妻には浪費癖があったが、最近は、夫にも買い物を要求するようになった。
荒れた生活が、1年余り続いた末に、妻は自室で首を吊った。何が妻を追い込んだのかは、わからない。だが、最後に彼女が欲しがっていた、ルビーを眺めがら、ぼんやりと、自殺の理由を考えることしかできなかった。