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紫陽花色の記憶

とある出版社に応募し、出版直前までいきましたが最後の二作品というところで落ちました。よかったら拾ってやってください。



    1


 暑苦しい猛暑が続いている。蒸したような熱気に誰もが汗をたらす。太陽の熱でアスファルトで焼かれ、倍の温度に変わり地面から空中へ帰ってくる。そんな暑さの中、学校という場所だけは、夏休みというにもかかわらず部活動で盛り上がっていた。声をあげて走る陸上部、熱がこもる分屋外よりもつらい状況のバドミントン部、シャツを脱ぎ捨てて水道の水をあびる男子バスケットボール部。そして、文化部も同様に、暑い中人が大勢集まっていた。クーラーのついている音楽室で活動する吹奏楽部はもちろん、クーラーのついていない地獄の美術室でも、美術部が活動していた。

「ねえ千夏、遊ぼうよお。こんな暑いところにいてもつまんないよ」

 正式な部員三名に加えて、部外者一名。吾川蛍――あがわけい――は、どの部活動にも入部していない、帰宅部の人間だ。蛍がここにいるのは、美術部の正式部員、千夏に用があるからだ。

「俺はつまらなくない」

 蛍の言葉に無愛想に、千夏――遠藤千夏は答えた。千夏、という女と間違えられそうな名前の主は、夏らしい名前とは逆に顔色は涼しい。染色したことのない黒髪が暑苦しくない顔立ち。実際には充分に汗をかいているのだが、千夏はまるで暑さなど知らないかのように悠々とした顔をしていた。隣にいる蛍と比べると一目瞭然。愛想のない無表情な顔をしている所為もある。

千夏はその顔のまま、後ろから邪魔くさくついてくる蛍に目もくれないで歩いた。あげくの果てには美術室にとりつけられている準備室へのドアを開け、「関係者以外立ち入り禁止」と冷たく言い放ちドアを閉めてしまった。美術部員の作品は、完成未完成に関わらずすべて美術準備室に置いてある。おかげで準備室は何を準備したらいいのかわからないほど、作品や用具で溢れかえり別名物置小屋とも呼ばれていた。

「千夏! もう!」

 蛍は無情にも目の前で閉められてしまったドアに吠えた。ドアには立ち入り禁止、と先程千夏が言った言葉と同じ文字が書かれた紙が張られている。

 苛々しながら適当な椅子をひいて座った。

「蛍ちゃん今日もフラれちゃったねえ」

 日の当たる窓辺から離れ、教室の端にいる浦辺靖明が蛍に笑いながら言葉を投げかける。

「ほんとだよ。夏休みなのに、千夏全然遊んでくれないの」

「まあ、あいつも描きたい絵があるらしいから」

「それでも!」

 教室の後ろの一番端と、教室の前の方の窓際との遠距離会話。その会話が簡単に受理されてしまうのは、教室には他に喋る人間がいないからだろう。それも当たり前のことだ。ただでさえ部員の少ない文化部で、しかも今は夏休みだ。浦辺や千夏、蛍のように指定校推薦での進学がほぼ確定している者はいいが、大学受験を控えたいま、三年生は受験地獄で喘いでいる時なのだ。

 後輩達も浦辺と同じように、教室の後ろの方で黙々と絵を描いている。髪をうざったるくならないのかと思うほど長く伸ばした女子がひとり、机に絵をおいてそのまま筆を操っている。もうひとりの男子はその女子から机を二個ほど隔てて、イーゼルに立てかけたキャンバスを熱心に眺めている。

 蛍は腕組みをしたまま、千夏のばか、とひとり呟いた。

「蛍ちゃん物好きだよね。せっかくの夏休みなのにさ。他の子と遊べばいいのに」

「だって、千夏と遊びたいんだもん」

 蛍は可愛らしく頬をふくらませる。そのしぐさは小動物を思わせる。

 浦辺がそれを見て口を開きかけた時、立ち入り禁止のドアが美術室側に開いた。

「ほら、蛍ちゃん。旦那がでてきたよ」

「誰が旦那だ」

 出てきて早々顔をしかめた千夏は脇に大きなキャンバスと、もう片方の手に自分の筆や絵の具のセットを手にしている。それを見て蛍は立ち上がった。

「なに、なに描くの? 蛍にも見せて」

 寄ってくる蛍をはらいのけるように足早に進み、鞄を置いていた机に荷物を降ろした。教室のど真ん中であるその場所は、いつも千夏が使うために千夏の特等席となっている。

「おまえには見せないから、早く帰れ」

「なんで蛍には見せてくれないのよ!」

「あのなあ」

 嫌悪感をそのまま顔にだして、面倒くさそうに蛍を見る。

「でぃす、いず、アトリエ。わかるか? ここはものを創る場所なの。遊びたい人間がくる場所じゃないの」

 わざと日本語に崩した英語で示す。

「でも千夏と遊びたいの」

 蛍は折れない。その様子にあからさまなため息を吐き、千夏は机に散らばった道具を綺麗に並べ始めた。

「旦那あ、少しは遊んでやったら? 急ぐ絵じゃないんだろ?」

 後ろから笑いながら浦辺が口をだす。明らかに楽しんでいる。

「だれが旦那だよ。しかも、この絵は十一月のコンクールに出すんだ。急ぐんだよ」

「コンクールまで時間はまだありますぜ、旦那」

 何度も旦那と言い続ける浦辺を冷たく睨んでやり、黙らせる。

「ねえ、千夏。これだれ?」

 道具を用意している傍から話し掛けてくる蛍。無言で睨んでも、蛍には効果がない。忌々しそうに言葉を吐いた。

「おまえ、浦辺に遊んでもらってこいよ。あんな無駄口を叩くひまがあるんだから遊ぶひまぐらいあるだろ。お似合いだ」

 千夏の言葉に、さすがに蛍もむっとした。後ろの浦辺も以外なところで名前を出されて驚いている。無駄口を叩く暇はあっても、さすがに浦辺も遊ぶためにやってきているわけではない。校則で禁止されていないとはいえ髪を明るく染めた浦辺と、浦辺よりかは何トーンか暗い色だが茶髪には変わりない蛍とでは確かにお似合いと言えた。

「あたし、千夏と遊びたいって言ってるじゃない」

「あら、俺は相手にはできませんか。だそうですよ、旦那」

 とぼけた口調で浦辺が冷やかす。内心ほっとしているんじゃないのか、と千夏は心の中だけで浦辺に毒づいた。

 目の前の机にキャンバスを置き、隣の机を引き寄せて画材道具をそこに整頓する。千夏はわざと蛍とは反対側にある机を寄せた。もう蛍を見向きもしない。着々とひとりで準備を進める。

「千夏、夏休みは長いんだよ? 蛍と遊ぶ時間もあるじゃない」

 手を休めずに動かし続ける千夏に、不服な顔のまま蛍が言う。最初から聞こえていないかのように、蛍などそこにはいないかのように、千夏は無視を決め込む。口で言って追い払うのを諦めたのだ。ここからは忍耐が勝負の決め手になる。

 夏休みに入って一週間目、蛍が美術室にいりびたって三日目だ。一学期の中ごろから蛍は千夏に遊ぶことを要求し続けている。その間中千夏は蛍に後ろからついて回られているのだからたまったものじゃない。二ヶ月以上も経つというのに一向に折れない千夏も千夏だが。

「ねえ、プール行かない? 叔父さんから優待券もらってるから安くなるし。それが嫌だったらカラオケでもいいよ。それともおなかすいた? マックとかでも行く? でもあたしね、カキ氷食べたいんだよね」

 無視を続ける千夏に、いい加減慣れた蛍がまるで独り言のように遊びを順々にあげていく。端から見れば蛍のわがままを言い連ねているようにも見えるが、千夏が何も反応を示さない以上、蛍は他に何も言えない。

 蛍がこの状況に慣れたのなら千夏も当然、もう慣れた。隣でインコかオウムのように言葉を発しつづける蛍を綺麗さっぱり無視し、とうとうパレットに絵の具を並べ始めた。色とりどりの絵の具が、一目で使い込まれているとわかる木のパレットに広げられていく。一口に赤と言っても、それが二種類も三種類もパレットにだされ、他の色も同様に一色につきひとつの絵の具、というわけにはいかなかった。蛍には、なんとなく色の違いはわかるものの、一色につき何種類もの絵の具を使う意味がわからない。口を動かしながら、千夏の様子を眺めていた。

 パレットにいくつもの色――合わせて二十を超える種類の色が並べられた。千夏は出し終わった絵の具も丁寧に扱って、隣に寄せた机に並べる。次にもう一度使いたくなった時にわかりやすくするためだ。その方が作業効率も良い。絵の具やキャンバスと一緒に持ってきた道具の中には、細いナイフに見えるものや、太さの違う筆が五本ほどあった。蛍にとっては無駄に多いと思われる道具の数だが、千夏にとってはこれでも少ない。描く範囲を決めて、使う色や使う道具の範囲も少なくしないと、机の上に散らばって取りにくくなるのである。

「なに描いてるのこれ。女の子と男の子?」

 千夏はなおも無言で抵抗する。

「絵描くだけなのになんでこんなに色々な道具がいるの? いつから描いてるの? ねえ」

「いい加減答えてやれば?」

 浦辺が横から会話――と呼べるのかどうかすら怪しい――に参加する。それもすべて無視だ。

「本当だよね、話し掛けてるのに失礼。コミュニケーションがなってません」

 蛍は机に腰掛けながら、浦辺の出した助け舟になんとか乗ろうと、千夏の気を引こうとした。身を乗り出して、千夏の傍に置いてある筆を手に取る。

「これとか、こんなにいっぱい――」

「さわるな」

 蛍の方を少しも見ないで、千夏が蛍の手から筆を奪い取った。助け舟は悲しくもどろの船だったらしい。千夏の声には嫌悪感が明らかになっている。とうとう、忍耐勝負に我慢がならずに負けたのだ。

 千夏は口を開いてくれたものの、蛍の思惑とは別の言葉が来た。蛍は少々鼻白んで、しかし、後退しない。

「なによ、いいじゃない少しぐらい。いくら描くのに忙しいって言ったって、蛍とのおしゃべりぐらいできるでしょ」

「おまえの言う通り、忙しいんだ。しゃべってるヒマなんかないんだよ。帰れ」

「遠藤、ちょっとそれひどくない?」

 浦辺がまたも会話に交わる。どうにも、浦辺は蛍の味方をしたいらしい。千夏は浦辺をも睨んだ。

「おまえも、邪魔したいだけなら帰れば?」

「うわ、ひでえな」

 浦辺は笑ってごまかしたものの、千夏の逆鱗に触れたことははっきりしている。触れた度合いが軽いにしても、千夏が怒り始めていることは事実だ。浦辺だって遊ぶためにわざわざこんな暑いところに来ているわけではないし、もちろん、それは千夏だって同じだ。描くためにここに来ている。他人事ならまだ、浦辺のように笑っていられるが、浦辺だって真剣に取り組みたいところに邪魔をされたら怒る。それが、二ヶ月以上も続けばなおさら。

「千夏、冷たい。なんでよ、浦辺くんは悪いこと言ってないでしょ」

 千夏は浦辺を睨む目を蛍に置き換え、容赦なく睨んだ。蛍がひるむ。

「ここで無駄口叩くこと自体、悪いことなんだよ。ここは作業する場であって遊ぶための場所じゃない。さっきも言っただろ、ここはアトリエなんだ。おまえみたいな暇人がいる場所じゃない」

「千夏のためにヒマを作ってきてあげてるんじゃない」

「誰がそんなこと頼んだ? ありがた迷惑だ」

 言い終わり、千夏は絵に向き直った。これ以上口など聞くものか。

 蛍は千夏の言葉にむくれながら、机から腰を浮かせる。そしてそのまま、千夏の傍を離れた。何が楽しいっていうの、絵なんて。世の中にはもっと楽しいことがいっぱいあるのに、千夏はわかってない。心の中だけでそう吐き出し、口にはださなかった。蛍にだって、千夏の真剣さぐらいはわかる。本当に、真剣に取り組んでいるのだ。

 勿体無いと、蛍は思っている。いくら真剣だと言っても、まだ自分たちは若いのだ。千夏は視界が狭くなっている。蛍にはそう思えて仕方がない。もっと楽しいことを教えてあげたいのだ。

「あれ? 蛍ちゃん帰っちゃうの。今日は早いね」

「帰らないよ。出直してくるの」

 言い置いて、教卓に置いた鞄をひったくるようにして肩にかけた。

 ドアを大げさな音とともに開ける。外の空気は、熱気のこもった美術室よりもいくらか楽だった。



            *



 静かになった美術室で、物足りなくなった浦辺が口を開いた。

「なあ、遠藤」

「なんだよ」

 無愛想に答えながらも筆は止まらない。

「それさ、蛍ちゃんとおまえだろ」

 退屈になった浦辺は机を抱くようにしてだらけながら、顔だけ上げている。いい加減暑さにも嫌気がさしてきたのだろう。そうして眺める千夏のキャンバスには、吊りスカートを着た幼い女の子と、半ズボン姿の少年がいた。まだ人物に色は挿されていないが、雰囲気は蛍と千夏そのままだと、浦辺は思った。それよりも浦辺が確信しているのは、下書きを始めた頃に持ってきていたいくつかの写真の中にいた少年少女が千夏と蛍だとわかっていたからだ。

「そうだけど?」

 そっけなく、簡単に肯定する。

「そうだけどって、おまえ。そんな簡単に頷くならなんでモデルを邪見にするんだよ。俺から見てても可哀想に思うね」

 気づかない蛍ちゃんも蛍ちゃんだな、と思う。こんなにわかりやすいぐらいに蛍ちゃんの雰囲気で溢れた絵なのに、絵心のない人間にはわからないものかね、と浦辺は内心ひとりごちる。

 千夏の描きかけの絵は、やわかく新鮮な色ばかりを扱っていた。浦辺が見る限り雨上がりのように見える。千夏はそれなりに色々なところで入賞しているし、半分遊びながらの道楽気分な浦辺の絵に比べると雰囲気がとてもわかりやすく鮮やかだ。見ただけで描かれている絵がどんな感情を含まれているのかわかる。顧問は千夏の絵を大変評価しているし、浦辺だって、評価している中のひとりだった。雨上がりの風景の中に浮かぶように笑う蛍と、見守っているような、それでいて自分もそれを楽しんでいるような、絵の中にいるのにどこか客観的に見える――幼い千夏の姿が描かれている。捨てられたように転がる開いたままの傘の赤が目を引く。みずみずしいと、浦辺は下書きを見た時点でそう思った。

「なあ」

 ぼう、っと絵に見入っていた浦辺に千夏が口を開いた。

「ん?」

「人間って変わるものかな」

「なんだよそれ。哲学?」

「いや、わからないならいい」

 千夏は細い筆を手にしたまま、描きかけの絵と睨めっこ――いや、眺めているのだろうか。焦点が合ってるのか合っていないのかわからない目は、目の前の絵画を見ながらも、遠くを見ているようでもあった。

「昔はさ、あいつもあんなにつまんない人間じゃなかったんだよ」

 背景の紫陽花に薄い水色を塗り始めながら、千夏が独白する。

「あいつって、蛍ちゃん?」

「そうだよ」

「蛍ちゃんのどこがつまんないって言うんだよ、おまえ。明るくて楽しくて可愛くて、これ以上ないってくらいだろ。もしかして、知らないの? 蛍ちゃんモテるんだぜ。そんな女の子に迫られて平気でいられるおまえがよくわかんねえよ」

 頬杖をつきながら、ため息をつく。天才と馬鹿は紙一重って言うけど、こいつもその口かね、浦辺はため息の中にそんな感情を混ぜた。筆は持っていない。描きかけの絵は、わけのわからない部活仲間を前にして完全に放棄したらしい。

「知ってるよ」

 無愛想な声が浦辺に届く。千夏の筆は一向に止まる気配もなく、流れるように紫陽花に色が足されていった。

「知っててその態度? モテる男は怖いねえ」

「おまえ嫌味か?」

 眉を歪めた千夏が浦辺を振り向いて言った。

「なにがだよ」

「俺のどこがモテるんだよ。それこそ、蛍がモテてることより明白だろ」

「蛍ちゃんに好かれてるってところで、もうモテ男の条件は満たしてるんじゃないですかね」

「モテ男はおまえだろ」

「まあね、俺はおまえと違って愛想がいいしねえ」

「自慢かよ」

 皮肉を言いながら、やっとそこで千夏が笑った。しかめっ面をしていては怖いだけの濡れたように黒い髪も、暑苦しいほどにきっちりと着こなした制服も、一瞬でやわらぐ。美術室では宝のように貴重品扱いされてる笑顔だ。本人は全く知る由もないが。

「その、笑顔をさあ」頬杖を外して、そのまま人差し指を千夏に向ける。「蛍ちゃんに見せてやってもいいんじゃないの?」

 一瞬にして宝は崩れ落ちた。一言も言い返さずに前に向き直り、再び筆がキャンバスに吸い寄せられる。

「ガキか、おまえは」

 呆れて浦辺が言った言葉に、不機嫌丸出しの声で「勝手に言ってろ」とだけ返された。

「遠藤と喋ってると、疲れるよ」

「お互い様だ」

「おまえ蛍ちゃんのこと好きだろ」

 いきなり脈絡もなく、直球勝負で浦辺が言う。部室には後輩がまだ二人もいるというのにおかまいなしだ。その二人と言えば、先ほどから浦辺と千夏の会話に聞き耳を立てているために一向に筆は動かない。固まって、じいっと聞いている。そんな後輩の様子を、浦辺も千夏もわかってはいるのだろう。だが気にしない。何故かと問えば、所詮他人だ、という見解が帰ってくるはずだ。

 紫陽花に着色する手を止めて、一瞬考えるようなしぐさをした後に、やはり描きかけの絵を見つめながら千夏は言った。

「好きだったけどね」

 臆面もないとはまさにこの千夏のことだろう。あまりにもストレートに投げ返される球を想像していなかったのだろう浦辺は、粟を食らった鳩の顔だ。

 数秒、後輩二名にプラスして浦辺も固まる。千夏ひとりは飄々と絵画に手を伸ばして着色に戻っている。紫陽花の花を二つ塗り終えたところで、浦辺がやっと開いたままの口を動かした。

「……過去形?」

「そう、過去。いまのあいつは好きじゃない」

「いまって。いつまで好きだったわけ?」

「中学二年」

 手を止めずにさらりと答える。

「へ、え。なんかおまえが素直だとそれはそれで怖いな」

 浦辺は本気で怖がっているらしい。自称愛想の良い顔が、いまや引き攣っている。

「……どういう意味だ」

「そういう意味だ」

「意味がわからん」

「俺もおまえがよくわかんねえ」

 浦辺は再度ため息をついて、千夏はやはり手は止めない。友人歴二年と半分のふたりの会話は、お互いをさらに謎な人間に仕立て上げるだけで終わったらしい。



     *



「おばちゃん、飲み物ちょうだい。三人分」

「飲み物って言っても色々あるからねえ。どれが欲しいのか言ってくれないとわからないよ」

 食堂の手前にある売店で、蛍は涼みがてら出直すための手土産を購入しに来ていた。

「飲んだら楽しくなる飲み物をください」

 真面目な顔でむちゃくちゃな注文をする。その言葉に、売店の売り子である井上多恵子は苦笑した。おばちゃんという呼び名にふさわしく、もう五十を過ぎた女性だ。この学園に勤めて何年なのかは誰も知らない。妙に売店になじんでいる井上は、ある意味生徒の母でもある。

「困ったね、学校の売店にはお酒は置いてないんだけどねえ」

 お菓子やパンが乱雑して置かれているテーブルの横に設置されている冷蔵庫には、コンビニで見かける紙パックのジュースと牛乳瓶ぐらいしか置いていない。

「品揃え悪いよここ」

「学生の身分でそんな無理なこと言わないの」

 笑ってなだめられ、蛍はさらに拗ねた。

「だってえ、千夏が全然遊んでくれないの。もうお酒に頼るしかないよ」

「蛍ちゃん、ここは学校だってことを念頭に置いて発言しなさいね」

「そんなむずかしい言い方されても蛍バカだからわかんない!」

 蛍の言葉は、高校三年生で、しかも指定校推薦で大学進学も決まりかけている人間の言う言葉ではない気がする。駄々をこねるちいさな子どもと同じような蛍をなだめるように、井上は苦笑しながら烏龍茶のパックとお茶のパック、それからコーヒー缶を取り出した。

「はい、三百円ね」

「コーヒーなんて誰も飲まないよ、しかもブラックなんて」

「浦辺くんが飲むでしょう。あの子ならなんでも飲むよ」

 穏やかに言い切った井上を、蛍はじいっと見つめる。

「なあに?」

「なんでも知ってるんだ。じゃあ、千夏はなにが好き?」

「そうねえ」思案するように宙を見つめて、たっぷりと間を置く。「あの子、見かけと違って甘いもの、好きだからねえ」

 物言いはおばさん、というよりおばあちゃんに近い穏やかさがある。ある意味では年齢不詳だ、と蛍は思う。

「味覚、変わってないんだ」

「だと思うよ。だから、好きなものなら蛍ちゃんの方が知ってるんじゃないかな」

 うーん、と唸り、やがて顔をあげて早々「おばちゃん、ガリガリ君ちょうだい」などと言い出した。

「そんなものはここにはないよ」

「えー、品揃え悪いなあ、もう」

「水羊羹なら、おばちゃんのがあるけどね。持っていくかい?」

「ほんとに!?」

 一瞬で笑顔に戻った蛍に、井上も微笑んだ。可愛い子だねえ、と言った井上の呟きは、喜んでいる蛍の耳にはおそらく届かなかっただろう。

「じゃあ待ってな、いま持ってくるから」

「ありがとう!」

 千夏は幼い頃から涼しげで、冷たいとよく誤解される表情ばかりだったが、顔に似合わず甘いものが大好きなのだ。特にこんなに暑い日はよく蛍と千夏でアイスを買って公園で食べていたものだ。蛍の脳裏に幼い千夏の笑顔が浮かんだ。

 もう、笑ってくれないのかなあ。

 井上の背中を見送りながら、お菓子の並んだテーブルに、肘をついた。頬杖をついたまま宙を見る。ぼうっとした視点の割に、蛍の頭はきちんと動いていた。

「千夏、変わらないんだ。変わっちゃったのは、あたしかな」

 誰もいない売店のスペースに、反響もせずに落ちた声はそのまま消えて、蛍のつぶやきの証拠はなくなった。証拠がなくなると、蛍自身にもその発言に意味があったのかどうか、怪しく思える。

 だからもう一度、言った。

「あたしだけ、変わっちゃったのかな」

 その声も先ほどと同じように、受け止めるのは並べられたお菓子だけで、証拠はどこにも残らずに消えてしまった。



        *



 翌日の早朝、まだ九時をまわったあたりだと言うのに、部室にはすでに浦辺の姿があった。

「お、遠藤おはよう。なにドアの前で固まってんの?」

「いや、まさかおまえがこんなに早くにいるとは思わなかった」

 千夏の毒舌を、無礼者め、と言って流し、浦辺は自分の前に立てたイーゼルにキャンバスを立てかけた。

「だっておまえ、いつも来るの昼近くだろ」

「俺だってたまには早起きするんですよ」

「今日雨かな。傘持ってきてないんだけどな」

 言いながら、千夏は自分の決めた席には向かわずに鞄を肩にかけたまま教室の端の浦辺の席へと向かう。

「大丈夫、安心しなさい。俺の素晴らしい行いのおかげで今日はずっと晴れてるはずだ」

「早起きが素晴らしいなら、俺は毎日素晴らしいことをしてるんだな」

「なにおまえ、毎日こんな時間に来てんの!? うわー狂ってるー」

 規則正しい生活をけなされた千夏は嫌な顔ひとつせず浦辺の軽口を簡単に無視し、浦辺のキャンバスを覗き込んだ。

「これ、俺の自信作」

 だるそうに机の背にもたれかかりながら、細筆で自分のキャンバスを示す。筆の先に広がっている絵は、不気味とも、壮大とも取れる絵だった。

 目と思われる形に切り抜かれた線の中に、大きな杉の木があり、色使いは暗い。夜をイメージしているのだろう。目らしき形の線の外は肌色に塗られているから余計に不気味だ。その色がやけに生々しい。病人の肌のように青白いのだ。その中の暗い夜の景色。どこか物寂しいようで、しかしその光景が自分に迫ってくるような――襲ってくるような感覚で描かれている。千夏と同じく油絵の具を使ってはいるが、作風は全く違っていた。

 一言で言うなら、独創的だ。

 千夏はその絵をしばらく凝視してため息をついた。

「なに、なにか不満?」

 浦辺が不服そうに聞き返す。細筆をシャープペンシルのように回して遊んでいる。玩具だ。その様子を冷たい目で無言で見つめ、千夏は首を振った。

「なんだよ、これだめ? 自信作なんだけど」

「いや、こんな遊び人のどこにこんな構想が潜んでるのかわからないだけだよ」

「なに、バカにしてる?」

「ばか」言って、千夏はかがめていた背中を伸ばしていつもの自分の席へと翻す。不服そうに眉をしかめる浦辺を背中に残したまま呟くように言い捨てた。「誉めてるんだ」

 言われた当の本人は、相当嬉しかったのだろう。いつもは誤魔化すようにしか笑わないくせに、誰も自分を見ていないのをいいことにはにかんで照れながら笑っていた。

「遠藤に誉められると、顧問に誉められるより自信になるな」

 照れ笑いの間にぽつりと落とすようにそう零す。千夏は自分に言われたのかわからず、数拍遅れて鈍い動きで後ろを振り返った。訝しむ顔をしている。

「いまの俺の空耳?」

「なんだよそれ、ひとが素直に感想をのべてやってるのに」

「おまえこそなんなんだ。俺に誉められてなにが嬉しいんだ」

「おまえ、自分の技術の高さわかってないよなあ」

 千夏が振り向くのと同時に照れ笑いを懐に隠してしまった浦辺は、からかうように、だが正直に千夏を誉めた。

 実際、浦辺の絵は構想こそ良いものの、技術としては千夏に何倍も劣る。それを浦辺自身わかっているからこその言葉だ。顧問はいつも、「これに技術がついてくればいいところに行けるのに」と、誉めているの誉めていないのかよくわからないことしか、浦辺には言わないのだ。それもそのはずで、千夏ほど絵の達者な者がいれば他が劣って見えてしまうのはしょうがないことである。たとえ宝石の原石があっても、それよりも輝く大きな宝石が目の前にあれば、原石なんてただの石ころに過ぎないのと道義だ。

 普通ならば照れるか喜ぶかするところだが、千夏は露骨に機嫌を悪くしたらしい。いぶかしむ表情から冷淡に睨む顔に変化した。

「技術が高いなら、最優秀賞がとれたはずだ」

 浦辺から顔を背けながら言う。浦辺は驚いた。

 千夏は去年、優秀賞止まりで最優秀賞を取り逃した賞のことを言っているのだ。

「おまえ、まだそんなこと言ってるのか? あれは審査員が悪かったって顧問も言ってたろ。そもそも、それを理由に自分の実力を認めないってのもどうかと思うよ。これだけの物描いてて、自覚ないのかよ」

「自覚もなにもない。本当に実力があるなら、どんな審査員にだって良い評価をもらえるはずだ。それができなかったのは俺に力がなかったからだ」

「うわ、頑固。そんなんじゃ親父になった時にコドモが泣くぜ? 頑固親父の雷が落ちるーって」

 関係者以外立ち入り禁止の張り紙の張ってあるドアに手をかけながら、千夏は呆れて振り向いた。

「外見に似合わないこと言うなよ。頑固親父の雷って、いつの時代だ」

 それを捨て台詞として残し、千夏はドアの向こうに消えた。

 無惨にも話し相手に捨てられた浦辺は、机に肘をついてだらける。やる気のないスタイルだ。美術部員で絵を描きに来ていると知らない人間がこの光景だけを見れば、補習にひっかかり暑さに頭も上がらない、優秀とは言えない学生の姿に見えただろう。

「外見って。俺、一体どんな風に見られてるわけさ。これでも真面目な学生なんですけどね」

 ドアに向かって一人呟いた言葉は、全く説得力がなかった。

 準備室からイーゼルとキャンバス、それから筆と絵の具を抱えて持ってきた千夏は、浦辺に構わず無言で作業を始めた。いつも通りである。これがこの二人だけでなくとも、美術室は基本的に静かな場所だ。とても夏とは思えない静けさが漂う。が、しかし。今日ばかりは早く来すぎた所為か、浦辺はなんとなく落ち着かないらしい。さっきの会話が尾を引いてしまっているのだ。本人ではそれと気づかないところで、浦辺には浦辺なりに探求心があるらしい。つまりは千夏へ質問したがっているというわけだ。

「なあ」

「うるさい」

「なにもそう怒らなくても」

 浦辺は軽く笑って返すが、千夏は真剣そのものの表情だ。

「なあ」浦辺はもう一度友人に声をかける。

 今度は振り向いた。「なんだよ、うるさいな。いま描きはじめたところなのに」

「はいはい、眉間にしわ寄せないの。質問してもいいですかー?」

「いやだ」

 きっぱりと返される。下手に出たのが逆効果だったらしいと判断した浦辺は、強行突破にでるべく席を立った。その気配に千夏も気づいているだろうに、千夏はわざと動じない。

 千夏の真横の席の椅子をひいて、そこに落ち着く。机に頬杖をついて、千夏の割れ関せずの横顔を見ながらもう一度声をかけた。

「千夏ちゃん」

 その言葉に千夏の手が止まる。と同時に、浦辺に鋭い視線が注がれた。

「やっと向いてくれたよ」

「美術室から追い出すぞ」

「だって千夏ちゃん全然構ってくれないんだもんなあ」

 悠然と笑う浦辺。明らかにおもしろがっているが、千夏の逆鱗に触れていることを気づいていないはずもないだろう。しかし、浦辺は退屈に打ち勝てなかった。退屈よりも逆鱗に触れる恐怖を選んだのだ。

「名前で呼ぶなって、一年の時から言ってるよな?」

 千夏の声が低くなる。普段からテンションの低い声をしているが、地が高い声のためにいつもはそこまで怖くない。だが、今回の声は相当低い。それに加えて、スローテンポで口から送り出される言葉。さすがの浦辺もこれはまずいと感じた。

「ごめんごめん。忘れてただけだって。なあ、質問していい? ひとつだけ、ひとつだけ」

 苛立たしそうに浦辺を睨み、目線だけで目の前のキャンバスと浦辺を行き来する。三回往復したところで、とうとう千夏が折れた。質問に答えて邪魔者を排除した方がいいと判断したのだ。

「なんだよ、早く言え」

 浦辺は、やったね、と頬杖をついたままだるそうに言った。頬杖をついている腕とは反対の腕で肘を曲げたまま挙手する。はーいせんせえ、なんていう不真面目な声が千夏の鼓膜と堪忍袋を刺激した。

「遠藤先生は、いつから絵を描いているんですか」

 半分おふざけのように聞こえるくせに、内容は、しっかりと美術部員のものだ。それに千夏は驚いた。また、答えようもない恋愛の話でもされるのかと思っていた。もしくは、教師達のグチなどしか頭になかった千夏である。以外なところからの攻撃は、三秒ほど浦辺を見つめてしまうのに無理もない攻撃だった。

「なんですか先生、見つめないでくださいよう。気持ち悪いですよう」

「おまえの敬語の方がよっぽど気持ち悪い」

「で、どうなんだよ答えは。プリーズアンサー」

 普段の口調に戻った浦辺を、千夏は睨むように一瞥してから正面に向かって言った。「よく覚えてないけど、小学生だよ。本格的に絵を習い始めたのは小五だな。その頃は水彩だったけど」

 ふうん、と頷く浦辺を、視線を戻した千夏が冷たく見た。

「なに、その怖い目」

「おまえは?」

「なにが?」

「いつから描いてるんだって聞いてるんだよ」

「俺? 俺は中学の時に美術部に入って、煙草みつかってクビにされて、その後は家でだらだら描いてただけ」

 千夏はお得意の露骨な顔をした。

「煙草、吸うなよ。煙で絵に黄ばみができる」

「絵の前では吸わねえよ」

 はは、と乾いた笑いでかわす。お互い自分が高校生という立場なんて関係ないらしい。

「おまえよくそんなんで推薦狙えるな。合格確実なんだろ?」

「まあね、推薦のためにそのうち髪も黒く戻すし。受験戦争に巻き込まれて、絵が描けなくなるのだけはいやだったんだよ」

 急に、美術室内の雰囲気が静かに落ちた。浦辺の言葉ひとつでしんみりとした空気に変わる。笑って誤魔化して、人で遊ぶことしかしない浦辺が、真剣に自分の心情を吐き出した所為だ。

 しんみりとした空気に浸るように、千夏は声をだす。心地良いと思った。

「勿体無いよな。これだけ絵が好きなくせに、絵の道には進まない。顧問の評価も良くない。あいつ、目見えてないんじゃないの。正当な評価を下していれば、浦辺だって絵の道に進もうとか考えてたかもしれないのに」

「おまえも目が見えてないな」

 珍しく、浦辺が苦笑した。

「なんで」

 怒る風でもなく、純粋に聞き返す。ため息になりきれていないちいさな息を漏らし、浦辺が続けた。

「俺は安田の評価は正しいと思ってるよ。たしかに誉めらることはないけど、俺に技術がないのは確かだし。俺なんかが進めるほど、絵の道は楽でもないだろ。遠藤が俺を過大評価し過ぎてるんだよ」

 千夏は納得のいかない顔だ。千夏だって、浦辺が高い技術を持っているとは思っていない。逆に荒々しいとも思う。しかし、技術など経験を積めばいくらでも後からついて来るものだ。自分が高い評価を得られるのは、年数を積んでいるから、その理由に尽きると考えているのだ。

「過大評価とは思わないけど。浦辺は絵が描けなくてもいいのか?」

「じゃあ聞くけど、おまえはなんで絵を描くのが好きなんだ?」

 聞かれて、千夏は一瞬も考えずに強く言い放った。

「好きだから好きなんだ。他に理由なんかない」

 答えを返却されて、浦辺はためらいもせずに大きな口を開け、大きな声で笑った。もしかしたら窓の外の運動部員にも声が聞こえたかもしれない。

 真面目で心地よかった雰囲気を馬鹿みたいな笑い声で一掃され、千夏はわけもわからずたじろぎながら、やはり不機嫌になった。

「なにがおかしい」

 声が低い。そんな千夏とは裏腹に、浦辺は笑ったまま、いい、バカ正直でいいよおまえ、などとぬかした。

「真面目に聞かれたら真面目に答えるのが常識だろ。それのなにが悪い」

「悪いって言ってないって。良いって言ったじゃねえかよ」

 いまだに笑いつづける。千夏はどうも、浦辺におもちゃにされている節がある。

「馬鹿にされてる気がするのは気のせいか?」

「解釈はご自由にどうぞ」

 結局またはぐらかされた。千夏は浦辺から顔を背けて強引に筆を取った。怒るな怒るな、と笑いながらなだめてくる友人を完全に無視し、眉をしかめた表情のまま、着色に取りかかった。もう話など聞いてやるものか。





     2


 正午が訪れる少し前に、美術室内に明るい声が侵入してきた。

「差し入れもってきたよ!」

 蛍の声である。そう言った蛍の右手には、コンビニの物と思しきビニール袋が提げられていた。

「ねえ蛍ちゃん、それ俺にもある?」

「もちろんあるよ。ていうか、あまっちゃうなあ」

 結局、部員はふたり以上増えなかった。だからだろう、蛍が持ってきた量はふたり分――自分を含めて三人分でも確実にあまる量だった。

「あまるなら俺食べるし」

「ほんとに? よかった、溶けちゃうから早く食べてね」言って、浦辺から千夏へと視線を移す。「――千夏も、買ってきちゃったんだから食べるぐらいは、してよね」

 既に席から立って蛍のもとへと歩み寄っている浦辺と違い、千夏は侵入者に見向きもせずキャンバスと睨みあったままでいる。話かけられても、蛍の方を向きもしなかった。

「俺はいらない」

 冷たく言い放つ。蛍は自分を見もしない千夏を睨んだ。その目に浦辺が圧される。

「はい、浦辺くんの分」

 千夏を見たまま押し付けるように、袋からガリガリ君をひとつ取り出して手渡す。ソーダ味だ。そしてこれは、昔千夏が夏になるとよく食べていた物だ。

 手渡してそのまま、睨んだ方向へと足を向ける。足音が近づいても、千夏は筆を止めない。

「千夏」

 無視を続ける。その様子を、浦辺はアイスキャンディを口に含みながら眺めている。蛍の視線も、浦辺の視線も、どちらも一方通行だ。

「ねえ、返事ぐらいしてよ」

 千夏の真横で立ち止まり、声を荒げても反応がない。蛍のビニール袋を握る手がきつくなる。ビニール袋が動く音だけが聞こえる。千夏は蛍などいないかのように作業を進めている。取り澄ました顔で涼しげに筆を動かす千夏に、蛍の中で怒りが増加していく。

いつも明るい声ばかりの蛍が、初めて怒鳴り声をあげた。

「千夏!」

 甲高い声が美術室に響く。その声にも、千夏は全く筆を休めない。いつもの忍耐勝負とは少しわけが違ってしまっていることに、千夏が気づかないわけでもない。いつもの蛍の攻め方ではなくなっている。

 浦辺が、あ、と声をもらした時にはもう遅かった。

 蛍の手が千夏の筆へ伸びる。そのまま、千夏の掌から筆を奪い取った。

 アイスキャンディの入ったビニール袋だけが、蛍が動いた証拠として揺れている。無理矢理に奪い取られた筆はキャンバスにその紫色の軌跡を残して蛍の掌におさまっていた。

 千夏が蛍を振り向くが、もう何もかも遅い。

 口をきつく結んだ蛍の顔は、怒りに負けて泣きそうだった。

「なによ、睨まないでよ。千夏がひとの話聞かないのが悪いのよ!」

 道理が通っていない理論展開だ。反論しようと思えばできるくせに、千夏は冷たい表情を崩さないまま、腰をあげる。怒られるのかと身を竦めた蛍を置き去りに、そのまま口を開けず静かに動いて、自分の手から移動した筆を蛍の手から抜き去った。

 油絵だから、間違えたところも上から着色し直せばどうとでもできる。不必要な部分に着色された紫色も、白で塗りつぶしてしまえばそのまま続けることはできる。しかし、蛍の態度に怒りもしない千夏は、浦辺からみても、ひどすぎる反応だ。

 まるで何事もなかったかのようにもう一度腰をおろそうとする千夏に、蛍の怒りがもう一度破裂した。

 次に身を竦めたのは浦辺だ。皮膚を弾く乾いた音が響いてすぐに消える。思わず落としそうになったアイスキャンディを浦辺は慌てて持ちかえた。それほどの衝撃がある。さっきまで蛍を見向きもしなかった千夏の顔が――いや、頭だけが蛍に向いていた。

 空いた掌で、蛍は千夏の頬をなぶったのだ。

「おい、遠藤大丈夫か?」

「……大丈夫」

 かすれた声がもれる。その声に、蛍の心が少しだけ軋んだ。何をしたのかやっと理解した。罪悪感が湧き出す。だからといって今さら謝ることも、ビンタを食らわしたことを白紙に戻すこともできない。

「なんなのよ。千夏はそんなに蛍のこと嫌いなの? 浦辺くんにはちゃんと答えるくせに。蛍は千夏に楽しくなってほしいだけなの。それなのに怒るの? 無視するの? ひどいよ!」

 ウェーブのかかったゆるい髪が、蛍の口調に合わせて揺れる。千夏は蛍を見るが、冷たい視線をよこす以外は何もしない。蛍に沈黙にたえる勇気はなく、口から言葉が溢れるように飛び出していった。

「なんでそんなにいやな顔するの? そこまで蛍のこと嫌い? 千夏にとっては幼なじみなんてどうでもいい人間なんだね。蛍、千夏と一緒の学校に行きたくて勉強がんばったんだよ? 千夏のためにこの高校受けたんだよ? そんなに蛍のこと嫌いなら、最初に来るなって言えばよかったじゃない。うざいって、そう言うだけでよかったのよ。なのになんでいまになって邪魔者扱いするの? 邪魔なら、最初から言ってくれないと、蛍ばかだからわかんないんだよ」

 言葉を重ねるにつれて、蛍ののどが震えだした。声がうまくでていないことも、自分が涙を流しながら喋っていることも、蛍にはわかっていた。わかっていたのに、滑り出した言葉は止まる場所を知らなかった。

 言い終えて、涙をぬぐうために手を顔に押し付ける。その右手は、いま、千夏を殴った右手だ。

 千夏も、浦辺でさえも何も言わなかった。美術室に蛍のすすり泣く声だけが流れている。暑さに懲りずに練習を続ける運動部の掛け声と、蝉の必死な鳴き声が鮮明に室内に侵入してくる。

「蛍」

 沈黙と空気が同化しそうなほど時間が経って、やっと千夏が口を開いた。涙で濡れた瞳を、希望の眼差しで千夏に向ける。

 蛍が見たのは、相変わらず冷たい表情のままの千夏だった。

「おまえ、そんな風に生きてて楽しい?」

 アイスキャンディの入っているビニール袋ごと投げつけた。

 千夏の一言で涙はひっこんでしまった。潤んだままの瞳で千夏を睨みつけ、

「千夏のばか!」

 罵声して、蛍は身を翻した。ドアの付近に立ったままの浦辺にぶつかり、アイスキャンディが落ちる。無様な音で落下したアイスキャンディに目もくれず、蛍は美術室を走り去った。浦辺に謝る余裕もなかったのだろう。そのまま振り返ることもなく、開きっぱなしのドアの向こうに蛍の後姿が消える。

 暖まっていた床の温度で、アイスキャンディが溶け出していた。



           *



 ひどいのはどっち、かな。蛍はひとり、ベッドの上に身を放り出してごちた。

「もう会いにいけないかもなあ」

 天井に向かって独り言を投げかける。投げた言葉はそのまま自分に返ってきた。

 白いだけの何もない天井を眺める。これなら、夏休みに入る前の方がよほど忙しかった。数少ない指定校推薦で合格するために一学期の成績をあげるための努力を、蛍は高校受験の時並に必死になって勉強した。その休憩ともとれる合間に蛍は友人達と遊び、また勉強へと戻る。それの繰り返しだった。それの繰り返しのおかげで、今まだ推薦枠は発表されていないものの、担任からは指定校推薦で行けるのは間違いないだろうと言われるほどになっていた。大学側が指定校推薦枠の発表を行うのは九月のことだが、ほとんどが例年通りであろうと担任もそう話している。つまり、蛍の指定校推薦での進学は決まったも同然なのだ。担任からそう聞いて、蛍はやっと肩の荷が降りた、と感じたのである。だからこそ、夏休みに千夏へと付きまとっていられるのだ。いや、付きまとうための努力だった。

 蛍は、夏休みに入り千夏につきっきりで構うようになってから、毎日日の落ちる前か、落ちた直後あたりに帰宅していた。千夏が寄り道もせずにまっすぐ帰るからだ。逃げるように早く歩く千夏の隣をキープするために、必死でくらいついて徒歩で帰る。駅がある方向とは全く逆なので、浦辺とは学校でお別れだ。帰り道には助け舟もでないために、蛍は必死に喋る。聞いているのかいないのか、たまに機嫌を損ねて睨まれる以外、千夏は蛍を振り向きもしない。ほとんど蛍の独り言だ。いまと同じように。

「返事のない会話に慣れちゃった」

 言った勢いのまま、足を上に持ち上げ、その反動で起き上がった。スカートがめくれあがっているが気にしない。そのままベッドを降りて洋服箪笥に向かう。適当に大人っぽい服を引っ張りあげて、制服から着替えた。家に帰ってきてしまった以上制服でいる必要はない。

「千夏のばか」

 本人に言う勇気はなく、箪笥に向かって無愛想に頬を膨らませた。膨らませてすぐに口内の空気がしぼむ。気持ちも一緒にしぼんだ。

 ニスの塗られたよく光る木の箪笥に手をおいて、一拍おく。

「……あたしの、ばか」

 さっきとは違う理由で溢れそうになる涙を、必死に目のふちにとどめた。



 涙をこらえながらベッドに横たわっているうちにいつのまにか寝てしまっていたらしい蛍は、夕日が沈みかけている夕方六時、駅前を歩いていた。

 白地に水色が染みのようにあしらわれたマーメイドスカートに、ちいさめに作られた白のノースリーブ。上着はグレイのボレロを羽織り、光沢のある黒い手持ち鞄で装備している。もちろん顔は昼間とは違って大人の雰囲気が漂う化粧に変えた。背の高い蛍に、ロングのマーメイドスカートはよく似合う。ピンクのミュールがコンクリートをはじく度にスカートの裾が揺れた。その姿に目を奪われる通行人も少なくはない。

 駅をそのまま横切り、人通りの少ない路地に入っていく。街の明度が急激に下がる。スナックの合間にちらほらと建ち並ぶバーのひとつの前で蛍は足を止め、ドアを開けた。ちりん、と涼しく落ち着いた鐘の音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 音に気づいた店員の、落ち着いた声が歓迎する。歓迎したその一瞬後に来客が誰なのか気づいて店員の笑みが意地の悪い笑みに変わった。

 七時の少し手前の時間では、まだ店内に客はいない。薄暗い照明の中、アンティーク調の木のテーブルと椅子を横切り革張りのカウンター席に腰掛ける。

「未成年はお断りと書いてあったはずなのですが」

 腰を落として早々、カウンターの中から女性のバーテンダーがにっこりと営業スマイルで手厳しい言葉を吐いた。

「固いこと言わないの」

 同じような営業スマイルで返す。未成年といわれても、いまの蛍は大人びていてとても高校生には見えなかった。今の女子高生など、ほとんどがそんなものだ。

 バーテンダーは営業スマイルを崩し、ふう、と苦笑いで息をついた。

「あなた、お母さんにはここに来ること言ってきたの?」

「言うわけないじゃん。どうせ止められるだけだもん」

 カウンターの奥のドアが開いた。

「あれ、蛍ちゃんまた来たの?」

 ドアの奥からでてきたのは、蛍の目の前の女性よりも幾分か若く見える、短髪の青年だった。

「こんばんは押村さん」

「こんばんは蛍ちゃん」

 にっこり笑顔で挨拶を交わすふたりを見る女性の表情は、あまり機嫌が良いとは言えない顔だ。

「押村くん、こんばんはじゃないでしょう。蛍は未成年なのよ。ここは良いお客さんばっかりじゃないんだから。危ないって何回も言ってるのに」

「吾川さん、自分のことは棚にあげてるね。自分はこんなところで働いてるくせに危ないもなにもないでしょ」

「そうだよお姉ちゃん。あたしを注意する前に、転職考えてみてよ」

 二対一で、女性――吾川美津は、負けた。平然と笑っている蛍を睨み、肩を落とした。

「十時には帰りなさいよ」

「十時!? 早すぎ――」

「じゃあいますぐ帰る? このお店にいたら主導権は私にあることをお忘れなくね」

 再び出現した営業スマイルに蛍は言葉を飲み込み、おとなしく黙った。その様子に美津は満足そうに笑む。

 美津と蛍は八歳も年の離れた姉妹である。高校を卒業後、進学せずにすぐに就職した。が、それも一年ともたなかった。もともと真面目な性分ではない美津は、規則にしばられることを嫌って進学しなかったのだが、会社では学校以上に縛られている部分がある。それらに耐え切れなくなり、以後はずっとこのバーで働いている。二十六歳という若さにして、ここ水面――バーの名前である――では古株として扱われている。

 蛍が水面に出入りするようになったのは高校入学と同時だ。最初の頃は開店直後の夕方五時、客のいない時間帯にしか来れなかったのだが、いつのまにか、夜も出入りするようになった。その行動に対して、美津はあまり良い気分ではない。日に日に派手になっていく妹が、自分と同じ末路をたどってしまうようで怖い。美津自身は夜の仕事を選んだことに後悔などしていないが、自分の妹となったら話は別である。加えて、蛍は美津と違って勉強ができるのだ。

「お姉ちゃん、なにか飲みたい」

 カウンターに肘をついてだらけている姉は、その姿勢のまま視線だけを蛍に持ち上げて「子どもはジュース」と冷たく言う。

「もう子どもじゃないよ」

「子どもでしょう。まだ未成年のくせして」

「お姉ちゃんだって飲んでたくせに」

「私はいいのよ。最初から誰にも期待なんてされてなかったもの。でもね、蛍はみんなから期待されてるでしょう。飲酒が見つかって学校をクビにでもなったらどうするの」

「そんなの知らない」

 反論をする気もおきずに蛍は横に顔を逸らした。拗ねる妹を姉はじっと見つめる。観察と呼んだ方が近い視線だ。蛍とは違って切れ長の目に、さらに鋭い光がはいる。「で?」

「え?」

「え、じゃないわ。今日は一体どんないやなことがあったの。まだお客さん来ないだろうから、話してもいいわよ」

 両肘をカウンターについて、手にあごをのせている。のんびりとしたその構えに、蛍はなんだか不服そうだ。だがしかし、話したくないわけでもない。むしろ話したいからこそここにやって来たのだ。邪魔をしているのは蛍の中にあるささやかな意地のみである。

 どうしてわかったのか、蛍には不思議でしょうがなかった。が、わかるのは当たり前だ。高校に入ってから、何か嫌なことがあれば毎回このバーに出入りして叱られていたのだから。

「お酒がはいらないと、蛍はしゃべれません」

「この未成年め」

 眉をしかめて意地悪く笑いながら、それを捨て台詞に美津は蛍に背中を向けた。

「え? つくってくれるの?」

「飲まないとしゃべらないんでしょ。しゃべらないと帰らないんでしょう。わかってるのよそれくらい。その代わり、軽いやつよ」

 普段なら飛び上がらんほどの勢いで喜ぶ蛍だが、さすがに今日は、手放しで大袈裟に喜ぶ気分になれなかった。姉の背中を見つめて、そのまま言うのも気恥ずかしく、結局テーブルに向かってぽつりと「ありがとう」と呟くように言った。

 数分も経たないうちに、美津の背中は振り返った。

「はい」

 コースターの上にことんと乗せられたグラスは鮮やかなオレンジ色をしていた。浮かべられた氷が照明の明かりを透かして透明に光っている。オレンジジュースよりも透明度の高いオレンジ色の飲み物が蛍の前に置かれた。

「これはなんていうお酒?」

「ミモザっていうの。強くないからオレンジジュースと変わらないと思うけどね」

「みもざ?」

「そういう花があるのよ。その花の色に似てるから、ミモザ」

 ふうん、とそっけなく相槌を打ってグラスを掲げる。手にとって目元に持っていく。眺めてもオレンジ色は変わらない。

「いただきます」

 口をつける。オレンジジュースと同じ味を飲み込んで、余韻に熱が残る。ほんのりと熱い。蛍にはまだ、酒の味というものがよくわからなかった。

「うん、美味しい」

 不味くはないから美味しいのだろう。熱の広がり方がアルコールであることぐらいしか判然としないのだ。

 二口目に口をつける妹の前で、やはり頬杖をついて、美津意地悪く笑う。

「それじゃ、話してもらいましょうか」

「もう!?」

「早くしないと忙しくなって話聞けなくなるわよ」

 グラスを両手で囲み、オレンジ色の液体に向かってうう、とうめく。そして意を決したように勢いよく顔をあげてグラスの中身を一度に口の中に放り込んだ。

「こら、味わって飲みなさい」

 美津が注意している間にのどが上下して、グラスからは氷と氷がぶつかる冷たい音だけが落ちる。最後の一滴まで全部飲み終えた。

 グラスをコースターに戻す。渋い顔をする美津のことなど、蛍の目には映っていない。

「あのね」

 相変わらずグラスに目を向けたまま、声をだす。

「うん?」

「千夏にビンタしてひどいこと言われたの」

 蛍の発言に、美津の顔が険しくなる。少しの沈黙をおいて、拍子抜けしたように「はあ?」と聞いた。蛍の説明だけではわけがわからない。

「お姉ちゃんは蛍が千夏と遊びたいの知ってるでしょ? でね、今日はガリガリ君を差し入れに持っていったの。昔よく食べてたじゃない、千夏。味覚変わってないらしくてね。なのに、千夏受け取ってくれなくて、蛍のこと無視したの」

 グラスに向かって語りかける蛍に、美津は呆れた。

「あなたそんなことぐらいで人を殴ったの?」

「だって!」

 顔をあげて必死に訴えようとする。しかし、その後の言葉はでてこなかった。言いよどむ。言い訳が自分の口からでてこないことに、蛍は泣きたくなった。また俯いてしまう。

「千夏、毎日絵ばっかり書いてて、あれじゃつまんないよ。あたしは千夏に楽しんでもらいたいだけなの。伝わらないの」

 言っていて、昼間のことを思い出した。また泣きそうになる。

 どうして伝わらないのだろう。

 千夏と蛍は、中学三年になるまで一度も同じクラスになったことがなかった。小中と同じ学校に通っていたにも関わらず、だ。小学校の頃はそれでもまだ交流があったが、中学に上がり、それもなくなった。もともと千夏は一匹狼のようなところがあったから、蛍が交流のあった友人などとは折り合いが悪い。蛍自身もそれを肌で感じていたため、中学の二年間で、幼なじみのふたりの距離は大きく開いた。漠然とした距離の大きさに、蛍がやっと気づいたのは中学三年時、ふたりが初めて同じクラスに区分けされてからだった。

 同じ教室内にいるのに言葉も交わさない。目も合わさない。いつのまにか他人行儀で、幼い頃と同じ様に名前では呼べなくなっていた。

 ――吾川さん。

 千夏にそう呼ばれた時、記憶よりも低くなった声に驚いた。そして、その口から初めて発音されたように思える名前が、まるで自分の物ではなかった。千夏に苗字で呼ばれ、つられて自分も遠藤くん、と返してしまったことも癪である。それに傷ついている自分が嫌でしょうがなく、中学三年の一年間はずっと千夏に付き纏った。千夏に声をかける度に友人一同が怪訝な顔をしたが、もはや気にならなくなっていた。

 千夏はその頃からすでに校内では絵によって有名になっていた所為と、口数が少なく人に寄り付かないためにプライドが高いと思われていたらしい。あながちはずれてもいないのだが、蛍にとって、それは反論せずにいられないことだった。蛍にとっての千夏はもっと温厚で、人見知りをするだけの優しい子にしか見えなかった。最初は友人の誤解を解きたいために、必死になっていた部分もある。とにかく笑ってほしかったのだ。

 結局卒業式が終わっても、千夏への誤解――と蛍は思っている――はとけなかった。つまり、笑わなかったのだ。最後まで。

 蛍がうつむいたまま続きの言葉を発しないでいると、焦れたようなため息をついて美津が口をひらいた。

「それで? あなたはなにを言われたっていうの」

 聞かれて、なおも押し黙る。その様子の妹をみて、氷が溶け出してオレンジ色の上に薄い膜ができたコップを、しょうがなくカウンターからさげた。

「生きててたのしいのかって、言われた」

 店内に染み渡るように流れる音楽に、蛍の沈んだ声が浮いた。美津は何も言わない。続きを促すように黙っている。沈黙に、蛍の顔が歪む。

「あたしみたいな風に生きてて楽しいのかって、言われたの」泣きそうな顔でそこまで言えば、後はもう止まらなかった。

「ねえ、蛍ってつまんない生き方してると思う? 蛍はこうやってるのが楽しいよ。いまの千夏よりずっと楽しいと思うの。静かに絵とにらめっこするより、騒いで遊んだ方が絶対楽しい。それをわかってほしいだけなの。そのためにあたしがんばってきたのに。ばかみたいじゃない? 結局伝わらなかった。昔は千夏、もっと笑う子だったのに。なんでかな。やっぱりみんなが言うとおりに変わっちゃったのかな」

あとからあとから湧き出してくる言葉を吐き出して、戸惑うようにそこで止まる。カウンターの上に組んだ掌をじっと見つめる。

 店内の空気に溶けてしまいそうなちいさな声で、最後の最後を吐き出した。

「あたしが、変わっちゃったのかな」

 語尾はすでにやわらかい照明の中に消え入っていた。

 美津は蛍のその様子を、冷たいとも取れる目で流すように見て、何も言わなかった。黙って背中を向ける。他人が見れば、蛍を放っておいているように見えるだろう。

 そのまま、何も声をかけずに瓶やレモンをいじりはじめる。静かな店内に音が響く。シェイカーに氷をいれた時の音がやけに響いて蛍の耳にも流れた。蛍がゆっくりとうつむいていた顔をあげると、タイミングを見計らったかのように、材料の入ったシェイカーを器用に振りはじめた。

 蛍は思わずその姿に見とれてしまった。相変わらず美津は後姿のままだが、器用に動く手は、まるで機械じかけのようで美しい。今の今まで沈んでいた感情や思考が吹き飛んだ瞬間だった。細々と、上流に流れる湧き水のようにかすかに店内に泳ぐ音楽と、暗い照明の所為でまるで異世界だった。もともと店内は外と切り離された空間のように感じていた蛍だったが、姉がシェイカーを振る姿も混じると、本当に異世界に飛び移ってしまった感覚を覚えた。

 激しく動いていた腕が、唐突に止まる。音もなく静かに止んだあとは、振り返る動作までもが流れるように、シェイカーの中身は用意されたコップに注がれていく。

 カクテルグラスが、ことりと静謐な音とともに蛍の前に差し出される。その色を、蛍は初めて見た。

「むらさき……?」

 カクテルグラスの中の液体は、透明で、冷たいために早くもグラスの表面が水蒸気で曇りはじめている。その曇り方がいかにも幻想的で、またもや蛍はみとれていた。

「そうね。わたしは勝手に、紫陽花色だな、なんて思ってるけど」

 美津の口からでてきた単語に敏感に反応して顔をあげる。ゆるく微笑む姉と目が合った。

「あじさい?」

「あら、なにか思い当たることでもあったかしら?」

 意地が悪そうに、猫のように笑った。

 わかっている。お姉ちゃんはわかっているんだと、蛍は思った。

 紫陽花という単語で、蛍が思い浮かべたものがある。それは千夏の絵だ。しかし、蛍は美津に千夏の絵がどんなものだったかは、まだ何も話していない。基本的に家にいない姉で、会話を交わすといえばここに来るしかないのだ。その所為か、美津にはなんでも話しているようで、話していない。

 さすがは血をわけた姉妹、とでも言うのだろうか。美津は勘がいい。悩みごとがある時、一番に気づくのは美津だ。蛍には、美津が何を考えて生きているのか全く想像がつかない。つかめない存在だ。それでも、蛍にとって回復剤なのである。

「綺麗な、色」

 その前に飲んだミモザの酔いもまわってきているのだろう。蛍の瞳はかすかに潤み、カクテルグラスの中の紫色を反射していた。

 カクテルに翻弄されている蛍を、美津は優しい笑顔で上から眺めた。放っておけばこのままずっとカクテルを見続けていそうな勢いである。

「そうね、そういう気持ちなのよ」

 諭すように言った言葉は、アルコールに強くない蛍の耳には届かなかったかもしれない。生返事だけを返して、蛍はカクテルを手に取った。

「ブルームーンって言って、少し度が強いんだけどね。それ飲んだら帰りなさい。ひとりで帰れる?」

 雰囲気を一転させるような歯切れのいい言葉でそう告げた。蛍の目線がそこでやっとカクテルからはずれる。さっきよりもいくらか軽くなった気持ちで、蛍は首を落として頷いた。軽くなったのはアルコールの所為だけではないだろう。そう、と満足気に美津が笑む。

 カクテルグラスを持ち上げて、口元の持っていったところでドアの鐘が静かに鳴った。正式な客だ。口中に広がる高い熱と、蛍にはまだ少し苦いジンの味は鐘の音とともに蛍の体内に落ちていく。

「いらっしゃいませ」

 明らかに作られた高い声で言い、美津の意識は蛍からはずれる。蛍はカウンター席にひとりになった。鐘の音に気づいたのか、奥のドアから押村がでてくる。二人連れの中年のカップルの接客にまわった美津の代わりに、押村がカウンターに入った。

 一口だけで一気に上昇した自分の体温に、視界が熱を帯びる。その奥で、押村が茶化すように笑っていた。

「蛍ちゃん、悩みは解消した?」

蛍の口角もあがる。

「まだだけど、楽になったよ」

「よかったね」

「うん! 解決はこれからするの」

 ひとりで頷く。そうして、もう一口、紫陽花色のカクテルに口をつけた。今度は鐘の音もない所為か、味が口中に広がる。熱で頭がとけてしまいそうな感覚だった。喉を熱い液体が通って、後味が残る。さわやかな、涼しい後味だった。

「蛍ちゃん、それブルームーン?」

「そうだよお、おいしいのお」

 グラスの芯を指で持ったまま、押村を見上げて気の抜けた表情と声で答える。それを見て押村の口が引き攣る。

「……蛍ちゃん、もしかしなくても酔ってる?」

「酔ってないよお。蛍お酒つよいもん!」

 その口ぶりで確信した。顔こそ赤くないが、蛍の表情はだらしなくゆるみ、舌のまわり方もよくない。二口で終わったか、と押村は苦笑した。

「吾川さん、蛍ちゃんどうします?」

 接客から帰ってきた美津に話し掛ける傍ら、カクテルグラスに再度口をつけようとする蛍をなだめる。

「あら、やっぱり強かった?」

 言いながら、美津はカウンターの中に入らずに蛍の背後にまわる。蛍は気づかない。

「蛍、もうおしまい」言うが早いか、蛍の手からカクテルグラスを奪い取った。

「あ!」

「押村くん、悪いけど烏龍ひとつくれるかな?」

「はいはい、いいですよ。それより蛍ちゃんどうします? 帰れないでしょう、これじゃ」

 カクテルグラスを持ったまま、やっとカウンターの中にはいった美津の手を、うらめしそうに蛍が睨んでいる。美津は気にしない。

「蛍のお酒」

 酔いの所為だろう、無愛想に言い放った蛍の目が据わっている。

「もうおしまいって言ったでしょう」

「まだ飲み終わってないもん」

「帰り送っていけないんだからだめよ」

「蛍のお酒!」

 突然の大声に、中年のカップルが驚いて蛍を見た。怪訝な顔をされたのを、美津と押村は確認する。しかし当の本人、蛍はそんなことには気がつかない。

 押村と美津は顔を見合わせ、ふたり同時にため息を吐いた。





   3


 蛍が酔う話から、時間は少し戻る。

 蛍が走りながら飛び出していった美術室には、蝉のうるさい鳴き声と運動部の掛け声だけがうっすらと満ちている。浦辺は呆気にとられた思考をスイッチを切り替えるように元に戻して千夏を見やる。平手で嬲られた本人は涼しいとも冷たいともとれる顔で、すでに着席していた。

「はは、おとこまえ」

 乾いた笑い声を枕詞に浦辺が冷やかす。

「なにが」

 筆を手にすることもなく腕を組んで絵に向き直っていた顔を浦辺に向ける。

「ほっぺ赤いぞ。男の勲章だね」

「バカかおまえ」

「そりゃどうも」

 言いながら、床で溶け始めているアイスキャンディを手に取ろうとしたが、ゆるくなったアイスキャンディは棒を残してもう一度地べたに落ちた。

「誉めてない」

「わかってるよ」まずい顔をして、残った棒も床に放る。「でもさあ、毛嫌いにもほどがあると思うね、俺は。いまのは人間としてどうかと思うけど」

 千夏の反撃を覚悟の上で責めたのだが、浦辺の予想とは外れて、千夏は黙った。テンポの遅れたリズムで口が開く。

「俺は、いまのあいつが嫌いなんだ」

「なんで」

 またもや黙る。めずらしく苦い顔をして、組んでいた腕をほどいた。その掌を机の上で握る。

 静けさに蝉がうるさい。

「だって、あんな風に生きてて楽しいのかよ。カラオケとか、プールとか。イベントに行って騒ぐだけじゃなにも残らないだろ。あいつは絵を描くことがつまらないことだって言ってるんだ。そんなやつなんかと遊んでなにが楽しいんだよ。あいつらの世界は全部一瞬で終わってるよ。同じことを繰り返してるだけじゃないか。一瞬の娯楽に逃げてるだけじゃないか。それでなにが楽しいっていうんだよ。上辺だけの付き合いだろ、どうせ」

「それはおまえの偏見だけどな」

 真面目な声で否定されて、千夏は浦辺に向いた。声と同様に真面目な表情は少しも笑っていない。いつもの誤魔化しではないのだ。沸々と沸騰するように溢れ出してくる怒りが、血液にのって体中に満ちていくのを、千夏は感じた。怒りに任せて席を立つ。

「じゃあ、蛍みたいなやつらは、上辺だけじゃないって言うのか?」

「上辺だけの付き合いをしてるやつらもいるだろうけど、蛍ちゃんは違うんじゃないの? 俺にはそう見えるけど。不良には不良の友情があるし、ギャルにはギャルの友情があるんだよ。付き合い方なんて人それぞれだろ。相変わらずおまえ、視界狭いよな」

「見えてないっていうのか、俺が」

 睨む。鋭い視線が浦辺を刺した。意にも介さない態度で浦辺はその視線を流した。微妙に空いている間合いをつめてるために千夏のもとまで歩いていく。千夏に負けない強い目で見返しながら、一歩進むごとに言葉を吐いていった。

「おまえの意見は一理あるよ。でもそれがすべてじゃないだろ」

 言い終わり、千夏のイーゼルが立てかけてある真横の机に身体を預ける。横を向いた千夏と正面から向き合う姿勢になった。

「俺が間違ってるっていうのか?」

「そうじゃないよ」

「そう言ってるだろ。俺は、いまの蛍は全部綺麗事だと思うね。昔の幻想追いかけてるだけだ。俺もあいつも、昔みたいに戻れるわけないだろう、いまさら。変わったんだよ、もう戻れないくらい。あいつと俺の道はもう交わることもない。俺は蛍がやってるように簡単な娯楽に逃げるようなつまらない生き方はしたくない。それでなにが楽しいんだよ。汚いところを見ずに、醜い部分をさらけださないように、安全な道に逃げてるだけじゃないか」

 怒りに任せて口がほどけていく。いままで溜め込んでいたものが一斉に口から滑りだしていた。もはや千夏自身の力では止まれない。怒りを露にした千夏は、笑った顔よりも、普段の涼しい表情よりも、何よりも生々しい。だらりと下げたままの腕の下で、拳が握られていた。

 千夏が言い終えたらしいことを確認して浦辺はゆっくりと口を開いた。

「それじゃあ」その一言の後ろにちいさな空白を置いて、続ける。「おまえは幻想を追ってないって言い切れるのか。綺麗事じゃないと」

 千夏の頭の中が、一瞬浦辺の言葉を理解しきれずに止まる。千夏はもう浦辺を睨んでいなかった。感情が凍るかのように急激に冷めていく。千夏の時間が止まってしまう。自分を見据える目を、千夏は見ることができない。

 浦辺の言ったことを理解した瞬間に千夏の時間が動いた。

「俺が、蛍の幻想を追ってるだと?」

 見開いた目が静かな怒りに満ちている。それは台風のおよぶ前の、静かな海岸に似ていた。

「ああ、そう言った」

「馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てた。もう会話は終わったとばかりに千夏は浦辺に背を向ける。そしてもとの位置に着席した。静かな顔で筆を選び、握る。パレットの絵の具に手を伸ばしたところで、浦辺が独白のように言った。

「おまえはまだ蛍ちゃんのことが好きだよ。高校三年のいまでも」

 電源を切られた玩具のように千夏の動きが止まる。何かを言う代わりに、まずため息をついた。

「なにを根拠に」

「普通、嫌いな女なんて描くやついねえよ。その絵に全部描いてある。おまえは昔からいままで、ずっと蛍ちゃんのことが好きだ。でもプライドが邪魔して、素直になれない。おまえの嫌いなやつらと同じに見えるからだ。おまえだって蛍ちゃんと同じじゃないのかよ。昔の蛍ちゃん追っかけて、いまの蛍ちゃんを見ようとしてないだろ。おまえが蛍ちゃんを嫌いなのは、自分と同じだからじゃないのか。自分が嫌いなところを見せつけられてむかついてるだけじゃないのかよ」

 勢いでまくしたてた浦辺に、千夏は何の反応も示さなかった。筆を動かしもしないで固まっている。男にしては長い黒髪は額を見事に覆い、俯いたままでは目までもが隠れてしまっていた。だから、浦辺に千夏の顔は見えない。

 しばらく待っても何も言わない友人に、浦辺はためいきと同じイントネーションで「それだけ」と言い、見えてるか見えていないかもわからないのに片手を挙げて終わりを合図した。そのまま千夏に背を向けて美術室を出ていこうとする。

「違うんだ」

 その後姿を止めたのは、千夏の静かな声だった。怒りも含まれていない冷静な声だ。

「違うんだよ、プライドが邪魔なわけじゃない。たしかに俺のプライドは高いだろうけど、そうじゃない。それは関係ないんだ」区切る。俯いていた首を持ち上げた。「俺は、蛍にわかってほしいだけなんだ」

 遠くを見つめるように前だけを見据えている。溜めていたものを吐き出して、気が抜けてしまったのだろうか。うつろな瞳が黒く光る。蛍光灯の下で、千夏はまるで人形のように綺麗だ。

「わかってほしいって?」

 浦辺が尋ねる。

 聞かれて、千夏はうつろに前を見つめることを止めて背もたれに寄りかかった。背筋の曲がっただらけた姿勢そのままに天井を向く。重たそうに腕を動かして、日に焼けていない白い手が目の上にかぶさる。

「絵の、力強さとか、物悲しい作風とか、さ」床に落とすように頼りない声で言葉を吐き出していく。滑り出すという感覚ではない。

「別にそこまでを求めてるわけじゃないんだ。ただ夕日を見るだけでいい。月を眺めるだけだっていい。景色とか、綺麗なものを見て、なにかを感じてほしんだ。その気持ちを形にしろとは言わない。それは俺たちの役目だし、無理にやらせてもつまらないだけだ。でもいまのままじゃ、乾いてるように見えるんだよ」

「乾いてるって、蛍ちゃんが?」

 目の上にのせていた手をどかして、ぐらりと揺れるように背もたれから離れる。微かに椅子が軋んだ音がした。

「そうだよ。あんな風に生きてて、毎日ずっと同じリズムで生きて、それで満たされることなんかないだろう。俺は、そんなあいつを見ていたくない」

 心からの本音だった。吐露しながら、千夏自身、泣きたいのか落ち込みたいのかよくわからない気分だ。

 千夏には、蛍のような人間が満たされているようには見えない。もちろん常時満たされている人間などいないのだが、蛍のように手近にある遊びばかり手にとって、それで心から楽しんでいると言われても納得できない。薬物と変わりないじゃないかと、千夏は思う。簡単に気分を高揚させてくれるゲームにばかり浸かって、その後に来るのは所詮虚しさだけだろう。一瞬の楽しみだけで、また虚しくなるから結局同じ遊びに手をだす。それの繰り返しで毎日が成り立っているのでは、それはもう満たされることなどありえないのじゃないか。同じ行為を繰り返せば高揚はどんどん薄まっていく。最後にはつまらない作り笑顔でひきつった顔になるだけだろう。そんなのはつまらない。

 千夏にとってそんな生き方は、乾いているのだ。潤いがない。満たされない。絶望も悲しみも喜びも感動も何もない、乾いた世界なのだ。

「この頃はまだ、蛍だって乾いてなかったんだ」

 男にしては細い指で、自分の描いた絵に触れる。ちょうどまだ色塗りがされていない、幼い少女の姿の場所だ。――幼い蛍の上を、指でなぞる。

 ほとんど独り言のように呟く千夏に、切り込むように浦辺が言った。

「それは、昔の蛍ちゃん追いかけてるって言い方じゃないのか? 結局おまえだって幻想追いかけてるんじゃないのかよ」

「違うよ。あの時といまが違うことぐらいわかってる。俺は――」そこで中途半端に区切り、首を振った。「違ってなんかない、な。たしかに俺は蛍に昔と同じようになってほしいと思ってるよ」

 キャンバスから指が、離れる。相変わらず浦辺は腕を組んだまま、机によりかかっている。否定も肯定もしない所為で、美術室内は会話を続けにくい空気に変わる。いつもの笑顔はなしのまま、浦辺がまた口を開いた。

「おまえ、絵描く理由、好きだから好きって言ったよな」

「言ったよ」

 それがどうしたんだと問うばかりのトーンの低い声で答える。

「俺だって同じだよ。絵を描くのが好きだ。好きだから描く。だけどなんでもいいってわけじゃない。描きたいものを描くのが好きなんだ。おまえだってそうだろ? 好きなものしか描きたくないんだ」そこで、視線を千夏の未完成のキャンバスに移す。「そこには誰を描いたんだよ、おまえ」

 千夏は浦辺の視線を追うように、キャンバスに目を戻した。そこにいるのは幼い千夏と、幼い蛍だ。千夏は描きかけの蛍の笑顔を見つめて、気が抜けたように唇をあげて自嘲した。

 浦辺もつられて笑う。張り詰めた空気が美術室内から抜けていった。怒鳴りあいに近い口論の名残が嘘のように消えていく。

 その中で、千夏は自嘲を変えて、本気で笑った。千夏の口から小さな声が洩れる。

「そうだよ、俺は蛍のことをまだ好きだよ。好きな女にわかってもらいたいって思って、何が悪いんだ。しょうがないだろ。好きなんだよ。大切なんだ。できるだけ、幸せになってもらいたいんだよ」





      4


 蛍は、唐突に出現した空白の時間に、何をしたらいいのかわからなかった。わからないまま、暇を持て余しながらベッドの上で黙っている。

 蛍の昨日の記憶は一時薄れている。またお姉ちゃんのお店で酔っ払っちゃった、と心の中で呟いて蛍は反省する。が、恐らく次回の役には立たないだろう。前回も酔い、美津からお目玉をくらったのだから。

 蛍の夏休みの予定はすべて千夏へ向けられていた。千夏はどうせ毎日美術室にこもって絵を描くのだろうから、自分も毎日そこに通いつめよう。そんな健気な予定はいとも簡単に崩れてしまったのだ。

 蛍は今、千夏にどんな顔をして会えばいいのか、もうわからなくなってしまった。ちいさな頃のように、喧嘩をしたらごめんと言えば済む関係ではなくなっていることが、蛍にとって痛くて痛くてしょうがない事実だった。

 ――今ごろ、浦辺くんと一緒に、またあの絵、描いてるのかな。あじさいに色塗ってるのかな。

 想像するしかできない自分が悲しくて、仰向けの状態では睫のない目尻からは簡単に涙が流れる。

 蛍は水分を流しつづける自分の目を両手で覆い、また泣いた。

 ――なんでこうなっちゃうの。千夏に笑ってほしいだけなのに、なんでこんな風になっちゃったんだろ。

「もう会えないよ」

 自棄を起こしたように、蛍の口から声が洩れた。喉で押しつぶされそうになった声が洩れただけの、頼りない声だ。

 蛍はたった今自分が声にだした言葉を頭の中で反芻する。繰り返し繰り返し、会えないという言葉が自分の声で頭の中に響く。それが現実なのだと思うと、涙は止まる余地を見せない。

 二日酔いで朝寝坊した蛍は、いつもなら午前九時には必ず起きているというのに、今日ばかりは正午過ぎに起きた。起きて着替えて、それからずっとベッドの上で千夏のことばかり考えている。その考えに発展性はなく、ただ昨日のことを繰り返し繰り返し頭の中で考え倒しているばかりだ。もう蛍が起きてから彼是二時間は簡単に経過している。その間、蛍は泣いてばかりだ。

 昨日、姉に話して少しは浮上したはずの気持ちも、目覚めと同時に自覚した二日酔いの頭痛によって台無しになった。軽くなったはずの気持ちも酔いの彼方に飛んでいってしまっている。姉に迷惑をかけた罪悪感が蛍の心の重しとなって、深みにはまればはまるほど昨日の記憶から抜け出せなくなる。

 二時間の間に、たくさんのことを思い出した。それはまるで蛍の記憶をどんどん遡っていくかのように、近い記憶から順番に掘り返されていった。

 高校に入ってからの千夏の態度。

 中学三年の時、初めて蛍をさん付けで呼んだ千夏の表情。

 中学に入ってから、千夏を見ようとすれば必ず距離は遠く、知らない人や友人が紛れ込んでいたこと。

 小学校の朝礼の時の涼しげな千夏の横顔。

 まだ一緒に遊べていた頃の、優しく崩れる千夏の笑顔。

 色々なことを思い出しながらそのたびに蛍は涙を流した。

 蛍は中学の時には既に異性から好意を寄せられていた。それは人並みと呼ぶにはあまりにふさわしくない量の人数だった。それなのに、蛍はまだたった一度しか交際したことがないのである。

 相手は、高校に入学してから何人かから告白された中のひとりだった。別に蛍が相手を好きだったわけでもない。ただ、高校生なら付き合ってみたいと思うのは当たり前のことだ。しかしそれも長くは続かなかった。最終的に、さよならを言ったのは蛍の方だ。

 蛍は今でこそ千夏のことを異性として好きだと思うものの、それまでは自分の気持ちが漠然としていて気づかなかったのだ。気づいたのは、告白してきた人と付き合っても、千夏の傍にいたくてまとわりついていることを相手に怒られた時である。

 どうして俺がいるのに遠藤とばっかり一緒にいるの――

 その時、相手は確かにそう言った。どうして、と。蛍の中で千夏の傍に行くことは疑問など何一つ湧くことではなかったし、何よりも千夏に笑って欲しくて、それだけしか頭になかったのだ。相手に問い掛けられて、蛍はやっと、自分がなぜ千夏に笑って欲しいのか気がついた。

 何よりも蛍自身が千夏の笑顔を見たいからだったのだ。

「でもまさかこんなことになるなんて、考えてなかったな。千夏のこと、ずっと遠くから見てるだけにすればよかった」

 そう口では発して、心の中で否定している。嫌だ、千夏の傍にいれないのは嫌だ、と。

 外は、蛍が起きた頃には晴れていたというのに、にわかに雨雲が浮かび始めていた。雨雲は蛍が終わりのない記憶の掘り返しをしているうちに大きさを増して、飽和状態を超えた雲からは一斉に雨が降り出した。

 土砂降りだ。その音が、部屋でじっと泣いている蛍の耳にも届く。その音に共鳴するように、いくら記憶を掘り返してもでてこなかった懐かしい思い出が蛍の頭の中に蘇った。

 蛍自身、その当時いくつだったのかは思い出せない。幼稚園の頃だったか。懐かしく暖かい思い出は、雨音に引きずり出されるようにワンショット切り取っただけの写真のような記憶から、それを重ね合わせた映像のように、どんどん深くなっていく。

 その時、蛍は千夏を招いて家で遊んでいた。絵を描いたりゲームをしたり。その頃から千夏は当たり前のように絵が上手く、だけれど決して蛍はそんな千夏を疎ましく思ったことはなかった。むしろ誇らしかった。色々な物をリクエストして、描いてもらっていた。

 その時も遊んでいるうちに雨が降り出したのだった。千夏はすぐにしとしとと屋根に落下してくる雨音に気づき、楽しそうに笑った。そして提案を出した。蛍はもちろん、千夏の提案を断る理由などなかった。

 ふたりは親に見つからぬように静かに階下へ降り、静かに外へ出た。玄関のドアを閉める時でさえ慎重に、音の鳴ることのないように焦れるほどゆっくりに閉めたのを覚えている。蛍はそのことを思い出し、かすかに笑った。その頃はまだ子供だけでの外出は許されていなかった。蛍の持っていた子供用の真っ赤な傘一本を頼りに、ふたりとも身体を縮こめるようにしてできる限り濡れないように歩いた。

 たどり着いたのは――と言っても、蛍の家からそう遠くはない。しかし親に内緒、という秘密を共有し合い、まるでちいさな冒険家にでもなったつもりでわくわくしていたのだ。行き着いた場所で雨に濡れながら、よく見れば青と紫の斑のような色合いをしたその花達に出迎えられた時、幼い蛍の目にそれはまるで別世界だった。

 背丈が小さいから、紫陽花が間近な距離にあって、雨の雫が残っている場所はぐんと色が鮮やかに、印象的に見える。虫眼鏡を通して見るように生きている色が目に迫る。紫陽花の、色気のある美しさに蛍が見惚れていた時だった。

 夕立だったのだろう。傘に音を残す雨の音は一気にちいさくなり、様子を窺っている間に止んだ。

 傘を持っていた蛍は、目の前にある生一番綺麗な花に囲まれている喜びと、雨が止んだことの喜びで、思い切り傘を投げるように飛ばした。雨は上がったというのに、傘から飛んだ雨粒に逆に顔を塗らされる。おかしくなって蛍は笑った。一緒に、千夏も笑っていた。

 鮮明に覚えているのはそこまでで、その後自分達がどんな行動をとったのか、蛍はよく覚えていない。

 けれどその記憶と、同時に昨日も見たばかりの千夏の絵を思い出した。

 ――あの絵、あたしと千夏だ!

 どうして気づかなかったのだろうという疑問を置き去りに、蛍はベッドから跳ね起きた。無意識に身体に染み付いた行動で携帯をポケットに詰めこみ、外に向かう。大雨だからやんでからにしなさい、という母への返事もおざなりに、靴を履いて外に飛び出した。傘も持たずにだ。

 なんで気づかなかったのだろう、そう悔しく思いながら、さして気分が悪いわけではない。むしろ清々しい気持ちだった。千夏と蛍はもう別々になって二度と道が交差することはないと感じていたのに、確かに、記憶の中身を共有している。それは今でも変わらない。記憶と記憶が繋がっている。蛍は、なぜ思い出さなかったのかという疑問よりも、思い出せたことが嬉しくて疑問はその影に隠れてでてこない。思い出せた、そして、千夏も蛍と同じものを、今でもなお持ちつづけている。その共同体とでも呼べる記憶がいとおしく感じた。

 無我夢中で記憶を引きずり出しながら走る。あちこちにある水溜りはばしゃりと撥ねて蛍のサンダルとジーンズに染みを作り続ける。大雨の中、傘もささずに全速力で駈ける蛍の姿は、昨日の大人っぽさとは一変して幼い。雨水が衣服を蛍の身体にまとわりつかせる。落ちる水の軌跡で蛍の視界は遮られるのに、それでも蛍は目を手でかばうこともなく走る。数分も走らないうちに、角を折れたそこにそれはあった。

 荒い息のままその場所に立ち尽くす。

――変わらない。変わらない色だ。

 記憶と同じ色をした紫陽花と、その花びらに吸い付く水滴が鮮やかで、蛍はそう思った。同時に塗りかけだった千夏の絵も思い出した。あの時、この紫陽花の写真は撮ってなどいない。それでも千夏は記憶と同じ色の紫陽花を描こうとしていた、そう、蛍の記憶と同じ色。絵はまるで初心者で何もわからない蛍なのに、千夏のまだ完成していない紫陽花の色は、この紫陽花の色を描こうとしていたのがわかる。記憶と同じ色を作ろうとしていたのが、わかった。

 千夏は変わってない。だけどきっと、あたしは変わっちゃってたんだ。蛍は思った。なぜこんなにも鮮やかな景色を記憶の引き出しの奥にしまい込んでいたのだろう。ちいさな頃の大事な、宝物のような記憶を忘れてしまっていたことが、蛍が変わった証拠なのだ。

 けれども蛍は思い出した。変わってしまったものは元には戻せない。過去が変わらないのと同じように。だけれど思い出すことはできるのだ。変わっていない過去を記憶として思い出すことなら、できるのだ。

 痛いほどの大粒の雨が蛍のいたるところを打つ。聴覚はざあざあと響く雨音に遮られ、目に映る物も紫陽花だけに限られる。その特殊な状況に、蛍はまるで異世界に飛び込んだような感覚に満ちた。冒険特有の興奮、少しの不安、懐かしい景色への愛しさ。それら全てが、蛍の中で千夏への想いへ還元される。千夏に会いたい。やっぱり千夏と話したい。いくらそっけない態度をとられたって、千夏の傍にいたい。蛍は思い、切なさに涙が零れる。涙は髪から垂れる雨の雫と顔に降りかかる雫とで、蛍が涙していることなど傍目にはわからない。けれど雨に打たれながらも、蛍の目も鼻も喉も、熱を孕んでいた。

 蛍はその場にへたり込み、より一層泣いた。大雨の所為か通り過ぎる人間は誰もいない。記憶と同じ紫陽花に見守られながら、蛍は泣いた。懐かしさと愛しさが混ざり合う。切なさもそこに溶け落ちて、涙は複雑な感情の色を持った。泣いている蛍自身、なんで泣いているのか、理由がよくわからない。ただ込み上げる何かが切々と蛍の涙腺を刺激してくる。全身びしょぬれのまま、蛍は嗚咽を漏らして泣いた。

 どれぐらいそのままでいただろう。蛍には時間の経過がわからなかった。音は遮断されて視界も利かない。その状況下で時間を測るのは難しい。蛍は込み上げる感情と泣くことに只管に夢中で、雨音が小さくなり身体を打つ衝撃も和らぎ始めていることに気がつかなかった。

 そして唐突に、記憶をスクリーンで改めるように、雨は止んだのだ。正確に言えば霧雨になった程度だが、それまでと比べれば上がったも同然である。

同じ夕立なのだから同じ上がり方をしても不思議はない。ただ、蛍にとって、記憶と同じ現象はとてつもなく奇跡のように思えた。

 雨が上がり、蛍もそろそろと立ち上がる。下着まで濡れているが、まるで服を着たままプールで泳いだようで、気にはならない。

 雨雲は驚くほどの勢いで風に吹かれて行く。蛍が泣きはらした目でぼうっとしている内に、雨雲が切れて光が覗いた。空からは塵のような霧雨が降り注いでいる。雲間から射し込む太陽の明かりは天使が訪れた時の階段のようで、蛍は紫陽花をも忘れて見惚れた。

 ――綺麗。綺麗だ。

 自然と蛍の口許に笑みが浮かぶ。か細い光が蛍を照らし、紫陽花と同じく濡れた肌は艶めいている。空を綺麗だと思う蛍もまた、綺麗だ。

 しかし、雲間の光に見惚れていた蛍はさらに驚かされることになる。そして更なる感動を得るのだ。

 雲間から覗く光は、降り続く霧雨と共鳴し、空に淡い色の虹を作った。

 微細すぎて、見れば見るほど消え入ってしまいそうな透明な美しさ。様々な色の合唱に境界線など存在しない。溶け合っている色と色は、しかし確かに違う色が折り重なっている。蛍は思わず驚嘆の声をあげた。そして自然な思考の流れで、何の疑問も持たず、ポケットにしまいこんであった携帯電話を取り出して千夏へ電話を寄越した。携帯電話も雨で濡れそぼっていたが、壊れてはいないらしい。

 数回の呼び出し音の後、無愛想な千夏の声が機械音と化して聞こえてきた。



         *



 千夏は浦辺に指摘されてから、翌日も少し気恥ずかしい気持ちになりながらキャンバスに向かって黙々と作業を続けていた。自分の絵を書き上げた浦辺は嬉々として外で部活動を行っている野球部と楽しそうに野球を楽しんでいたのだが、いつの間にやら降りだした雨の所為で文句を垂れながら美術室に戻ってきた。その姿を見て、千夏はとことん美術部に似合わない男だ(外見と行動は)と思った。

「うわー、ひでえ雨。いきなり降ってくるんだもん、対処できないよなあ」

「絵、濡らすなよ雨男」

 さらりと浦辺の方も見ずに言った千夏に、浦辺は溜息をついた。

「普通さ、風邪ひくなよ、とか、濡れた本人の心配をしてくれるものなんじゃないの?」

「おまえバカだろ? バカは風邪ひかないんだよ」

 まるでそれが公認の決まりとでも言うように保証のない言葉でさらりと断言する。

「ちょっと。遠藤と俺って友達だったんじゃなかったっけ?」

「そういう説もあるらしいな」

「とことんおまえは冷たいな!」

 そう言いながらも、千夏が浦辺を友人として扱ってくれているのは承知のことなので、浦辺は千夏の近くまで来て適当な椅子――と言っても、絵に水が飛ばないようにと考慮して机ひとつ分は隔ててある場所に座った。

 座って静かに黙々と筆を動かす千夏に、浦辺は意地の悪い質問を思いついた。思いついたままに口にだす。暇なのだ。

「なあ、今日は蛍ちゃん来ないね」

 いらやらしい笑みを浮かべている友人に、千夏は思い切り嫌な顔をして睨んだ。睨んだが、浦辺にはもう聞かない。昨日千夏自身が言ってしまった言葉が原因である。

 ――そうだよ、俺は蛍のことをまだ好きだよ。

 機嫌悪く、千夏はふいっと顔を背けてまた絵に集中し始めた。眉間には皺が寄ったままだ。反対に、浦辺は意地悪い笑顔のままだ。

「美術室の女神が来なくなったのは誰のせいかなあ」

 浦辺のばればれの含みを持った問いかけを千夏はわざと無視する。無視しているが、いつものように涼しい顔はできない。

 しばらく眉間に皺を寄せる千夏を楽しみ、それにも興が冷めて浦辺は泥に汚れたシャツを扇ぐ。

「ただでさえ暑いのに、雨降るとさらに蒸し暑いな。ヒマだし」

「ヒマなら帰れば?」

「傘がねえよ」

 浦辺は席を立ち、何か扇げる団扇代わりの物を探し始める。だが、美術室内に団扇の代わりになりそうな物は見当たらなかった。よさそう、と思っても絵の道具であるから無闇には使えない。

 浦辺は開き直って、やはり堂々と千夏の邪魔をすることにした。それ以外に楽しいことが見当たらない。

「なあ遠藤、聞いていい?」

「却下」

 無碍に断られる。浦辺は構わずに続けた。いくら千夏でも、この話題ばかりは無視できないと踏んだからだ。

「おまえ昨日のこと、少しも反省してないって言う気?」

 千夏は筆を止めた。

 さすがの浦辺もこの質問ばかりはふざけてはいなかった。昨日から浦辺はずっと気になっていたのだが、尋ねる機会を逃してしまったのだ。千夏は蛍のことを好きだと認めるなり恥ずかしくなったのか、そそくさと描きかけの絵を片付けて帰ってしまったからである。今日は今日とて、千夏は無言だ。

「そりゃ、殴られたってところだけ見ればおまえが被害者だけど。傷つけて殴らせたのはそっちだろ。そこんところどう思ってるんだよ」

 筆を止めたままの千夏は、しばらく黙った後に投げやりに言った。

「ひどかったと思ってる」

「それだけ?」

 この質問にもまた、千夏は黙った。そしてようやっと筆を置いたかと思うと、溜息と共に言葉を吐き出した。

「反省してるよ」

「謝ったのか?」

 そう言われて、千夏は初めて浦辺の目を見た。驚いている。浦辺は千夏の驚きの意味がわからず、なに、とだけ聞いた。

「おまえなら謝れるのか? こんな状況で」

「謝るよ。だって好きなんだろ? 好きならすぐに――」

 そこで浦辺の声を遮る携帯の着信音が、静かな教室に一際目立って響いた。音源は千夏のポケットである。携帯を開いて、千夏は柄にもなく目を見張った。その奇行に、今度は浦辺が驚いて問う。

「誰から?」

「蛍、からだ」

「おまえ! 携帯見つめてないで早くでろよ!」

 目に見えて慌てる浦辺とは逆に、千夏は驚きと動揺で、携帯電話を見つめてしまっていた。千夏は動揺した状態で浦辺に言われるがまま、頭が白いまま通話ボタンを押した。

 先に声を発したのは蛍の方だった。

――もしもし、千夏?

「なに、急に」

 無愛想に答える千夏に、浦辺は溜息をついた。なんで好きな女に、あんな声を出せるかね。それも性格なんだろうけどさ、とひとりごちる。

 ――ねえ千夏、外見てごらん? すごく綺麗!

 蛍の声は動揺している千夏にもわかる程高揚している。何があるのだろうと窓から外を見やると、いつの間にか、先ほどの土砂降りはあっさりとあがり、あげくには太陽が隙間から顔を出している程だった。

 昨日の今日でどんな言葉をかけたら良いのか。そんな千夏の動揺の種は、目の前の景色のおかげですぐに飛んでいった。確かに雨上がりの光は、綺麗である。だがしかし、そんなことぐらいで蛍がこんなに高揚するわけがない。

「ああ、いつ雨あがったんだ?」

 ――そうじゃなくて! ねえ、窓の外見てみて! 早く!

 千夏は蛍の言葉に従い、窓に近づいていく。そしてやっと、蛍の高揚の理由がわかった。

 窓の外には空がある。あがったように思えた雨はまだ軽く降り続いていて、雲の陰から覗く太陽の光はまるでスポットライトのように雨粒にあたり、虹を作っていた。小さいながらもしっかりとした、本物の虹。千夏は動揺していたことも昨日のことも全て頭の中から放り捨て、笑んだ。

 蛍が、あの蛍が、景色を綺麗と言ったのだ。それを伝えたくなるほど、その綺麗さに感動したということなのだ。

 千夏はしばらく無言のまま笑みを続け、窓の向こうに広がっている虹を見つめる。蛍もまた、同じ虹を見ているのだろう。蛍の言う通り、確かに虹は、これ以上ないぐらいに綺麗だった。千夏は自然現象としての虹を見たのは初めてなのである。こんなにも色彩が溶け合っているのに全ての色が主張しあう幻想的な物を、絵画ではなく、現実に、見れた。

 そしてそれを蛍も感じたのだ。千夏ほどに深くは考えられずとも、確かに、綺麗だと感じたのだ。

 ――千夏?

 何も声を出さない千夏を不審に思った蛍が電話越しに千夏を呼ぶ。千夏は携帯電話の中に蛍がいるかのように、優しい笑みを与えた。

「ほんと、綺麗だな」

 ――でしょ!? よかった。千夏にどうしても見てもらいたくなったの。

「で、おまえはいまどこにいるんだよ?」

 ――へ? あたし?

 突然トーンの落ちた声での話題変化に、蛍は素っ頓狂な声をあげてしまった。

「そう、おまえ」

 ――うーんっと。家の近くにいるけど。

「なら来いよ。浦辺が言うには、おまえは美術室の女神なんだってさ」嘲るようにそう言い、ちいさく続けた。「俺も、会いたいし」

 今度は電話の向こうが黙った。千夏は眉を潜めるが、その間にも声は返ってこない。もしもし、と聞こえているのかどうかを確認しようとしたところに、いつもの元気な声が耳を劈いた。

 ――行っていいの!? 行く! 着替えてから行くから待ってて!

 そのままの勢いで電話を切ろうとする蛍に、千夏は待ったをかけた。

「待て、勝手に話を終わらせるなよ」

 ――え、なに?

 無邪気な声に、千夏は生まれてから一番恥ずかしい思いで身体中が熱くなりそうな感覚に陥りる。けれどもうこれで後には退けない。千夏にしては珍しく押し出すような声で、言った。

「今度さ、映画でも行くか。カラオケとかはいやだけど」

 しばらくの無言。蛍は、思考停止でもしているのだろう。けれど蛍がこの誘いを断るわけもなかった。

 少し離れた位置から千夏の後姿を見守る浦辺にまで聞こえる声で、蛍は元気良く「行く!」と答えていた。電話越しにでも遠くに聞こえる声、しかもはっきりと聞こえる声だ。相当嬉しかったのだろう。

 蛍はすぐ行くから、という言葉で電話を切った。千夏が振り返ると、そこには笑っている浦辺がいる。

 千夏は恥ずかしさというものには果てがないのか、と思った。浦辺の笑顔が自分の羞恥心をより倍増させる。その気持ちを隠せるようにできるだけいつもの無愛想な声を出した。

「なんだよ」

「いいや、なんでも? とにかくよかったねえ、色男!」

 蛍が制服に着替え、美術室にやって来れば、紫陽花の話もするだろう。昔話もするだろう。かつて共有した記憶を手に取り、愛らしい笑顔で、喜びを千夏に伝えるだろう。千夏も千夏で、それを少し無愛想に、けれど前よりはずっと優しく、聞きながら、自分も絵について語るのだろう。

 しかし。

 何よりも先に現れるのは、とうとう千夏の逆鱗をしっかりと撫で付けてしまい、荒廃した姿になった浦辺なのであろう。千夏はすぐ傍にあった忘れ物と書かれた箱の中にある筆をすばやく手に取る。

「ちょっと待て、な、話せばわかる。俺が悪かったってば、だから――」

 千夏は浦辺に有無も言わせる隙なく、投げつけた筆で言葉を遮った。

「いてえってば! 全力投球するなよ!」

「うるさい、黙れ!」

 結局、蛍が来る頃には、筆によってつけられた引っかき傷や千夏自らかましたボディーブローなどで痛々しい姿になった浦辺と、怒りが多少収まった千夏が、蛍のことを待っているのだ。


何よりも、冷たい黒髪少年と、紫陽花と虹の描写が書きたくて書いた小説なので、うまく恋愛になっているかわかりません。プロの編集の方には「エピソードを増やした方がいい」と言われたのですが、この作品はこの形で完結し、この形のまま心に残ってしまっています。私にとっては「完成品」なのです。ですからこれから手を加えることはありません。

16の頃に書いた小説ですが、出版社に拾ってもらえなかったこの作品、拾ってやってください。

もしくは拾ってくださった方。全力を尽くして感謝を述べます。ありがとうございました。

ではまたお会いできる日を楽しみにしております。


百合丘忍 拝

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