1章 邂逅の時①
――タルタロスを開けてはならない
祖父は逝去する前、そんな言葉を遺していった。
言葉の意味は分からない。何故だか、それ以上の事を教えてくれなかったからだ。
耄碌して出てきた言葉なんて事は露にも思っていないけれど、今の今まで不吉な予兆などもなかったので、とりたてて気にする事もなく生きてきた。
あの日までは――。
○
「おっはよ、透」
朝のホームルーム前の時間。前の席の女の子、今泉遥が席に着こうとする透を振り返って朗らかに笑みを投げかけた。
「おはよ。朝から元気ね」
「別に元気じゃないよ。ちょっと躁気味なだけ」
「そうなんだ。それはそれとして、私最近よく思うんだ」
「何を?」
「遥みたいに朗らかになれんもんかね、って」
「なればいいじゃん」
「いやいや、不味いでしょ。遥ならともかく、私がそんな事したらクラスドン引きだって。キャラが違うし」
「あー、まあそれはそれで面白いかも。私はいいよ、面白いし」
「私は良くないよ。変人認定待ったなしだし」
「まあまあ、何事も挑戦だと思って」
「全く、他人事だと思って」
透は今泉の鼻を軽くデコピンする。今泉は「いてっ」と言いながら反射的に目を瞑る。
「あっ、そうそう知ってる?」
他愛のない会話も適当に、今泉はこれから内緒話でもするのかという風に身を乗り出し自慢のポニーテールを揺らしながら顔を近付けてきた。
「最近不審者が市内をうろついているって噂」
「いや、知らない。でも不審者って割といないっけ」
透は言った。透は何かの調べ物等のついでにニュースをネットで見る事があるが、地域ニュースに目を通すと毎日ないし数日に一回のペースで変質者が出没したという記事がある。だから、不審者が出たからといって別段珍しい事でもないだろうと透は思っていた。
「この前だって杜の台辺りで露出狂が現れたとかあったし」
「いや、そういうんとはちょっと違うんよね。何ていうかさ、やばい、って感じのやつ」
「一層分からん」
「聞いた話によると、金髪に黒々とした服装をした男だか女だかが目撃されてるんだって。ま、全身黒ってわけじゃないらしいけど、見た人は兎に角にも真っ先に黒を連想した」
「ふーん。それって単純に外国人観光客とかじゃないの。もしくは教会の神父さんとか」
「そうかもね。まあでも、こんな噂立つくらいだからなんかあるんかもなーとも思う」
「そんな馬鹿馬鹿しい。世の中そうそうおかしな事は身の回りには起きないって」
「ストイックだねえ」
「夢見過ぎなのよ、遥は」
チャイムが鳴り、程なくして担任の奥村が入ってくる。そして彼はホームルームにて一限目に担当の英語で抜き打ちテストを行うと宣言し、生徒からのブーイングを浴びていた。
そんな教室の様子を眼鏡越しに見ながら、透は帰った後の事を考えていた。