生保レディVS俺
弛緩した空気が漂う職場のお昼休み。
いつもであれば、俺はお昼ご飯を食べ終え、十五分の仮眠をするのだが『奴』は突然やってきた。
「すみません。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
真っ黒なスーツに身を包み、メガネをかけた顔立ちの整ったいかにも仕事の出来そうな三十路手前あたりであろう女性は俺を見据え、ニッコリと微笑んでいた。
「はい、なんでしょうか?」
昼寝しようとしていたところを妨害され、思わず舌打ちしたくなるのをグッと堪え、承諾した。
今思えばこれが良くなかった。ここで「いえ、忙しいので無理です」や「ちょっと用事があります」と言って断っておけば、あんな悲劇は起こらなかったであろう。
「私、〇〇生命の佐藤彩乃と言います。今、保険には入っていますか?」
「あー、入ってますね……」
嘘では無い。今の職場に勤めた時、なんとなく加入しておいたものが一つある。
「その保険のお値段はおいくらでしょうか?」
「ちょっと……分かりませんね」
というか、保険の値段を逐一把握している者などいるのであろうか。
「うちの保険はですね、大変お安く設定されております! 後日、金額が出来る通知書をお持ちいただけますか?」
「はぁ……分かりました」
「ありがとうございます! 続けて、保険内容について説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
彩乃は淡々と保険の内容を説明し始めた。
入院した際は一日に何円支払われるだの、病気にかかった時はたくさん保険料がたくさん貰えるだのそんな感じの内容だった。
俺はなんとか下らない説明を黙って最後まで聞くことができた。内容自体は何も頭に入らなかったが。
「お忙しいところ、ありがとうございました。名刺をお渡しいたします」
生保レディから名刺を渡された。名刺には電話番号が記載されている。
「何かありましたらお気軽にご連絡ください!」
あるわけないだろうが。
彩乃はぺこりと頭を下げ、颯爽と俺の元を去っていった。
さてと、邪魔者がいなくなったで寝るとするかって……もうお昼休み五分で終わるじゃねぇか。
くそ、あの女……
◇◇◇
生保レディの襲来から三日が経過した。すっかり保険のことなど忘れていた俺は机に突っ伏して眠っていた。
コンコン。
誰かに肩を小突かれた。渋々と顔を上げると視界に映ったのは柔和な笑みをこぼしている彩乃の表情であった。
「お疲れ様です。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
俺はこの瞬間、この女に猛烈な嫌悪感を抱いた。
普通、人が寝ているところを叩き起こすか?
もし、俺がスタンド使いであったなら容赦無くラッシュの雨を浴びせているところだ。
「はい……いいですよ」
ノーと言えない自分が憎くてしょうがない。彩乃は嬉しそうに微笑んだ。
「この前お話しました、現在加入されている保険の通知書、お探しになりましたか?」
「あー、探してないですね……すみません、忘れてました」
「分かりました。実はですね……保険料なんですかど、今月中に加入しないと保険料が高くなっちゃうんですね。なので、明日くらいに持ってきていただきたいんですけど、よろしいですか?」
あーうざい。今すぐにこいつをキラークイーンで爆弾に変えてやりたい。
「分かりました」
渋々ながら俺は承諾した。
「明日、何時頃職場にいますか?」
「12時45分頃ですかね」
「分かりました。それではその時間に伺います」
そう予告し、彩乃は去って行った。
◇◇◇
次の日。
時刻は12時45分。俺は職場にあるトイレに身を隠していた。
一応、保険の通知書を持ってきていた俺であったが、出来るだけ彩乃の話を聞きたくない俺はあえてお昼休みのギリギリまで職場の自分の机には戻らないことにした。
十分ほどトイレに籠り、時刻は12時55分。
俺は自分の机に戻った。流石にもうあいつはいないだろう。
そう思っていたのだが――
「お疲れ様です! すみません、お昼休み終わりに」
なんと、奴はいた。
びっくり世界仰天ニュースである。奴は十分近くも粘っていたというのか。ストーカーかよ。
――生保レディ!
――ストーカー!
――スーパーベストマッチ!
――アンコントロールスイッチ! ブラックハザード!
――ヤベーイ!
頭の中で某ライダーの変身音が響く。もう勘弁してヒヤシンス。
「通知書、持ってきましたか?」
「はい、一応……」
「お預かりしてもよろしいですか?」
「はい」
俺は現在、自分が入っている保険の通知書を彩乃に渡した。
「それではまた伺いたいと思うんですけど、明日お時間よろしいですか?」
「はい、いいですよ」
「何時頃大丈夫ですか?」
「12時半くらいですかね」
「分かりました。それでは、また説明に伺います」
そうして、彩乃は去って行った。なんて、しつこいんだ。生保レディ。
これは一筋縄ではいかないとは思わなかった。
多少、うざそうな表情をしたり、避けようとしたくらいじゃ効果が薄い。
俺はこの時、生保レディを甘く見ていたことに気づいた。
◇◇◇
次の日。
彩乃は当然のごとくやってきた。今日の俺はトイレに篭ることはせず、ちゃんと時間通り、自分の机で待っていた。
避けようとしてもやってくるのであれば、黙って話を聞く方がいい。
「お疲れ様です。今日はメガネを掛けてないんですね!」
「あれPCメガネなので。今は外してます」
うっさい、帰れ。心の中で毒づくも彩乃はいつものように笑顔を崩さない。
ようやるなぁと思う。豆腐メンタルな自分が営業をしていれば多分、心が折れるだろう。
「それで、昨日お預かりさせていただいた保険なんですが、当社の保険料の方が安くなっております。また、内容もほとんど変わりません。いかがでしょうか?」
「そうなんですか、保険料はそちらの会社の方が安いんですね」
「そうですね! 今月中に加入していただければお安くなります!」
今入っている保険は適当に加入したものである。
金額が安いのであれば彩乃の会社の保険に乗り換えてもいいような気がした。
「どうされますか?」
「そうですね……ちょっと考えて見ます」
「ありがとうございます! また伺わせていただきます!」
その後、彩乃は俺の元へ繰り返しやってきた。俺の方も保険はなんでもいいとう考えであったため、段々と加入しても良い気がしてきた。
まぁ、あまりに説明がうざいので入ってしまって良いかなという屈服してしまった気持ちもあったのだが。
そして、俺はついに彩乃の会社の保険に加入した。
「手続き終了しました! お疲れ様でした!」
定時後に加入手続きを済ませた。これで長きに渡る勧誘も終わりか。
「こちら書類になります。重要な内容が記載されてますので、無くさないようご注意ください。何かありましたら私宛に御連絡ください」
「はい、ありがとうございます」
俺は書類が入った重い袋を彩乃から受け取った。兎にも角にも、今後は平穏なお昼休みがやってくる。
しかし、まだ終わりではなかった。
◇◇◇
彩乃の会社の保険に加入してから二週間後が経過した。
お昼休み中、俺は深い眠りに落ちていた。
しかし、何者かに肩を揺すられ起こされた。
「お疲れ様です」
なんと、俺を起こしたのは彩乃であった。一体なんだと言うのだ? もう保険は加入したはず……
俺は訝しんだ様子で彩乃を見つめた。
「お、お疲れ様です」
「今日はですね……年金保険について説明に上がらせていただきました!」
なん……だと……
まだ勧誘するのか、こいつは。
一体、こいつは俺からいくら搾取すれば気がすむんだ。
「今、年金保険は入っていらっしゃいますか?」
「入っていたと思います」
嘘だ。入っていない。さすがにもう加入したくない俺は息を吸うように嘘を吐いた。
「そうですか。当社の保険料は他社の者と比較して、お安く設定されております! ぜひとも、当社の保険に乗り換えていただければと思います!」
グルグルと脳内にあらゆる考えが廻り巡る。
俺はこいつから逃れることはできないのか。
今までの人生、思い返してみれば俺は『ノー』と答えることが苦手だった。
人の意見に流されるだけのイエスマン。
こんな奴、生保レディのカモになって当然だ。
「今日は資料を配布させていただきます。また説明に上がらせていただきますので、よろしくお願いします!」
「は、はい……」
勝ち誇ったような表情で去っていく彩乃。
その日、帰宅した俺はネットで生保レディの断り方を探した。
しかし、どれも自分にはできそうにない。
もし、断ったら罵声を浴びせられるのではと思うと恐縮してしまう。
ああ、情けない。
俺は気分転換がてら、ジョジョの奇妙な冒険のアニメを視聴することにした。
視聴した話はジョルノ・ミスタVSギアッチョ戦。
俺はその話の中で出てきたジョルノの言葉が心に響いた。
「「覚悟」とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く事だッ!」
その言葉を聞いて思わずハッとした。
俺は今まで何をしていたんだ。
たかだが、あんな生保レディに恐れをなし、さして入りたくもなかった保険にまで加入してしまった。
本当にこれで良かったのか――いや、良くない。
俺は変わりたい。
ノーと……いや、「だが断る」と言えるくらいの自分に。そうだ、『覚悟』を決めろ。
なんだか自分の進むべき道を見出せたような気がした。
◇◇◇
次の日、俺は職場の受話器を手に取り、電話を掛ける。
電話先は……佐藤綾乃。
「お疲れ様です! どうされました?」
ご機嫌そうな声色で話す彩乃だった。さしずめ、俺が年金保険に入るとでも思っているのだろう。
「前に加入した保険なんですが、諸事情で解約したいと思います」
「そうですか……よろしければ理由をお聞きしてもよろしいですか?」
明らかに声のトーンが低くなった。だが、これしきでは怯まない。
「すみません。個人的なことなので、あまりお話ししたくありません」
俺は強めに話した。ここで下手に話せば色々と言われそうだと思ったからである。
仮にもし、ここでさらに突っ込んで来ても絶対に拒否してやろうと思っていた。
「分かりました。後日、解約手続きに伺わせていただきます」
拍子抜けするほどあっさりと彩乃は解約を認めた。
心の鎖が解けたようにすっきりとした気持ちになった。
◇◇◇
「解約手続完了しました」
後日、俺は解約手続きを済ませた。この忌々しい保険と生保レディからようやく逃れられることができたのである。
「また、何かありましたら御連絡ください」
相変わらず、笑顔を崩すことなく彩乃は頭を下げて去って行った。
何もないから心配するな。もしまた勧誘に来ても……
「絶対に断ってやるよ」
彩乃に聞かれないようにポツリと小さい声で呟いた。
こうして、およそ一ヶ月に及ぶ保険勧誘戦争は幕を下ろしたのだった。