夜のお見舞い
「お疲れ、じゃあ行こっか」
車の後部座席に座ると、母がそう言って、エンジンをかけた。車の中には、自分と姉と母と父が乗っていて、一家総出で病院へ向かう。おじいちゃんのお見舞いに行くためだ。
おじいちゃんは、3日前に、家で血を吐いてしまったらしく、救急車で病院に運ばれた。半年ほど前に、肝臓ガンを手術で摘出してからは病院に通いながら、なんとか生活を続けていたのだが、いよいよ生の限界が近づいているのかもしれない。
車の中では、おじいちゃんの現在の容態について、実の娘である母親が細く家族に説明している。私はなんとなくそれを聞き流し、学校帰りの疲れた体を休ませようと座席の首元にもたれかかって、目を瞑っていた。
病院の一階は節電のためか、必要最低限の明かりしかないといった感じで、全体的に薄暗かった。壁やものなどは白と緑で統一されていて、病院ということを強く意識させられる。受付でお見舞いの用紙に記述をしてから、母に案内されるがまま、4階に上がり、おじいちゃんの病室へ向かった。
おじいちゃんはベッドで横になってテレビを見ていた。音は枕元から出ているらしく、こちらからは何も聞こえない。画面にはよくあるグルメ番組が映し出されていた。周りにはいかにもな精密機器たちで溢れていて、なんだか緊張する。おばあちゃんはおじいちゃんの枕元近くにある椅子に座り、おじいちゃんをじっと見ていた。
「あら、いらっしゃい。ほら孫たちが来たよ!」
私たちが来たことをおばあちゃんがおじいちゃんに知らせる。私たち一家は、ぎゅうぎゅうになりながらも、おじいちゃんの周りを取り囲んだ。
「おお、よく来たな」
ベッドからゆっくりと起き上がったおじいちゃんはそう言って、にこりと笑った。普段に比べて3割くらいしか元気が感じられないぐったりとした笑顔だった。「どうも、お久しぶりです!」と、病院の雰囲気とはかけ離れた、どこかうるさい父が挨拶をする。その横で、私と姉はこくりと頭を下げた。そして、おじいちゃんはまたテレビ鑑賞へと戻っていった。
「いや〜、それにしてもグルメ番組なんて見ていたら、色々食べたくなるんじゃないですかね? 辛くないんですか?」
会話をしようと頑張ったのか、無神経にもほどがあることを言い出す父。唇をきゅっとして怒りを鎮める。
「いやでも、逆に元気になろうって思えるんじゃないかしら?」
すかさず入るおばあちゃん。ナイスフォローだ、さすが長年の夫婦関係。うまいところに入ってくれる。おばあちゃんが、元気になったら美味しいものいっぱいだべましょうね、と耳元で囁くと、おじいちゃんはこちらを向いて頷いた。
それから、長い時間が過ぎた。実際は5分ほどだろうが、この何もない緑の空間でずっと喋らないでいるというのはとても苦しかった。おじいちゃんはこの空間の中で一日を過ごしているのかと考えるとゾッとした。私には到底耐えられない。私が黙りこくって精密機器を眺めたり、テレビを一緒に見ている間、母とおばあちゃんはおじいちゃんの容態について、深い話をしていた。会話の内容は専門的な言葉が多くてあまり分からなかったけど、覚悟はしておいてくださいと医者に言われた、というところだけは頭に入って来た。
私がぼうとテレビを眺めていると、何かを思い出したかのように、おじいちゃんが私と姉のいる方向を向いて口を開いた。
「学校は楽しいか?」
「うん、楽しいよ、すごく」
「私も」
お姉ちゃんの言葉に、首を傾けるおじいちゃん。妙な間が生まれる。会話の当たり前が崩れた不気味な沈黙の時間が流れた。
「おい、佐奈、おじいちゃんは耳が遠くなっているから大きな声で言わないと伝わらないぞ。私も! だってさ!」
と、うるせえ父。さらりと口にした、耳が遠いという事実に心が寒くなる。少し前までは普通だったのにね。
「おお、そうか、なら良かった。頑張るんだぞ」
おじいちゃんはそう言うと、また横になってテレビを見だした。
それから少しして私達とおばあちゃんは、病室を後にした。別れはとてもあっけなく「じゃあ、帰るね」「おう、またな」というやりとりだけして別れた。病院の外に出ると、止まっていた時間が動きだしたような、不思議な解放感があった。
一家と、今度はおばあちゃんも車に乗せて、おばあちゃんの家へ向かう。車内の会話は、行きの時と比べれば幾分か軽い。それでも話題は、おばあちゃんの負担が大きいけれど大丈夫か、といった感じの真面目な内容で、重たいことには重たかった。私はというと、行きの時と同じく、座席に深くもたれかかって、会話には参加しなかった。
「そういえば、母さん。来週あたりに、新潟からお母様方がお見舞いに来たいって言っていたんだけど、必要ないよね」
途端に話題を変える母。そういえば、行きの車の時もそんなことを言っていた気がする。
「そうだね、うまいこといけば3日後にはもう退院できるみたいだから」
「心配する気持ちはわかるんだけどね。あんまり心配し過ぎても本人が不安になるだろうし……」
母がそういうと、みんなしてそれに共感した。しかし、私は、「心配」という言葉に強烈な違和感を感じて、どこか取り残されたような気分になった。ただ連れてこられたからお見舞いに来た私は、おじいちゃんをちゃんと心配していたのだろうか。
「でも、今日、孫たちが来てくれて良かったよ。いつにも増してあんなにも元気だったからさ」と、ぽそりと呟くおばあちゃん。
元気? あれで? あんなにも疲れ切った様子で、笑顔も3割ほどの元気しかなかったのに?
私にはおじいちゃんが元気だったなんて到底思えなかったからおばあちゃんの言葉に驚いた。けれど、私の感想なんかよりも普段のおじいちゃんを見ているおばあちゃんの言葉の方が幾分も説得力がある。だからきっといつもより元気だったというのは本当のことなのだろう。
途端に自分が情けなくなる。私は、心配さえもあげられない。励ましの言葉も言えないし、明るい話もできはしない。それなのに、おじいちゃんは、こんな私で元気になってくれるらしい。
いつまでも、血に甘えてばかりなんだ。私の価値はしょぼいくせに。
車窓からぼんやりと外を見た。真っ暗な空には、まあるい月が浮かんでいて、夜の街を照らしている。まばらに見える星たちは空にくっついているみたいに、大人しくそこにあるだけで、夜を照らすまではいかない、弱々しい輝きを見せていた。
ーおわりー