聖架
そもそも「ここ」に初めてやって来た時から、僕はあまりここが好きでは無かった。何が嫌だったのか、うまく説明できない。ただ、ひどくつまらない場所だと思った。
何もかもが、まるで安っぽいプラスチックでできているようだった。人々の顔の筋肉は妙な形に引きつっているように見えたし、あるがままの美しい真実はいつも、何かしらの人工物で覆われていた。
特に何も面白いもの、興味の持てるものがあまり無かった。たまにそういったものを見つけても、周りの人々は誰もそれに興味を示さなかったので、僕は僕の興味を他者と共感しあうという幸福を味わう機会に恵まれなかった。それどころか、彼らは興味を示さないだけならまだしも、時には、僕の大切に思うものを取るに足らないものとして扱うようなことも多かった。そういう時には僕はしみるようなさみしさを味わったものだった。
他の人たちも僕と同じように感じてはいないのかと、キョロキョロと周りを不思議な思いで眺め回してみるものの、皆はここにそれなりに満足しているように見受けられた。大満足、というのではなく、なんとなく、「まあいいや。こんなものだろう」といった感じの曖昧な許容。僕も彼らを見習おうと試みようとしたが、どこから初めて良いのかさえ分からなかった。
どうもなんというか、この場所で流れる自然のリズムというか、そういったものと、僕自身の心臓が鼓動するリズムがどうにも合わず、不協和音を成している。そういった漠然とした不快感が常に僕につきまとっていた。
「漠然とした」不快感。「漠然とした不安」と書き残して自殺したのは誰だっただろう。「漠然とした」不快感というのは、実に始末に悪い。むしろ強烈な嫌悪感だとか怒りや不満といったものはある種のエネルギーを生み出すが、そこまで強力でなく、なんとなく我慢できないことはない程度の漠然とした不快感はまた、そこから脱出するためのエネルギーを絞り出すことも無い。
漠然とした不快感はただ漠然と、そこに在り続けるだけなのだ。
なので僕は、やはりただ漠然と、いつの日にか「ここ」とは違う場所に行く自分を夢想して、ぼんやりと日々を過ごしていた。
だから彼女が死んだ時、僕は考えた末にその肉を食らったのだ。
彼女は仲間だった。彼女は友達のいない僕の唯一の仲間で、僕は彼女を愛していたし、「ここ」に存在する他の何よりも、彼女は僕にとって、意味のあるものだった。
彼女は愚かで無力だった。しごくあっさりと、死に屈した。
無垢なものよ。無抵抗の生き物よ。自然淘汰されるものの、純粋なる美よ。
僕はその柔らかい皮を、丁寧に丁寧に、彼女の肉から剥がした。彼女の皮膚は、変わらずに良い手触りだった。内蔵をとりのけ、肉を、食べやすい大きさに切った。彼女が生きていたとき、その肉と皮膚と臓腑とは、一体であった。触れると温かくやわらかだった赤子のような感触は、彼女の生命の内部から僕の手のひらに伝わっていたのだ。それは宇宙そのものだった。彼女を通じて僕は、この世界、この全宇宙と溶け合っていたのだ。
だがその時にはもう、彼女の肉は肉という単なる物質であり、皮は皮、臓物は臓物でしかなかった。彼女は単なる物質に変わったのだ。しかし、宇宙はまだその肉に宿っている。微かな温かみが、それを証明していた。
君は、僕が狂っていると思うだろうか。でも、君がもし恋をしたことがあるなら、僕の話を理解してくれるに違いないと信じている。
ずっと長い間愛し慈しんできた彼女の肉を喰らうのは、悲劇であり、喜劇であった。
大いなる喜びと、この世の果ての悲しみであった。
僕は泣いた。嗚咽しながら喰らった。僕の涙が彼女の肉に塩味を付けた。彼女の肉はうまかった。鶏肉に似ていたがもうすこしこってりと、ふくふくとしていた。豚肉のような臭みなどはなく、食べやすかった。生きていた時そのままに、その胸のように柔らかかった。死んでからもなお、僕に喜びを与えようとする彼女。そう思うと、さらに涙が溢れて止まらなかった。僕は彼女を愛していたし、今もなお、愛している。
僕は最後まで喰った。全てを喰らい尽くした後の、その恍惚をどう表現すればよいのだろう!僕たちは一つの命になったのだ。互いに相手の一部なのだ。僕たちはひとつの存在なのだ!そして僕はじきに、命などというものすら超えた至上の存在に変わり、「ここ」を後にして彼女の元へ行き、そして共に、もっと大いなるものの一部となるのだ。永久に。
「互いの目的地が同じ者同士は、例え今は離れていても、目的地に近づいてゆけばいずれ出会うことになる」と誰かが言っていた。それが本当ならば、今頃彼女の魂は、天の国で僕を待っていてくれるだろう。いや、待っていてくれなくとも構わない。僕はいま、彼女が、天上の国で大好物の甘いものをダイエットなど気にせずたっぷり食べて、楽しくおしゃべりし、笑い、幸福であればそれでいい。彼女が僕のことなんか忘れていたとしても、ちっとも構わない。もう僕らは離れることなどないのだから。
幸福に暮らす彼女を思うと、涙が出る。幸福でない彼女のことを考えても、やはり涙が出る。
夕日が、僕の影を色濃く地上に落としている。僕はそれを眺めた。両腕を大きく広げた形で柱に括りつけられた僕の影は、まるで電波塔のようだ。いったいなんの電波を受信するというのだろうか。僕はなんだかおかしくなって一人笑った。
僕は今、かの肉を喰らった罪で、善意の人々によりここに括りつけられている。葬り去られる為に。かの人々は自らの手を汚す必要もなく、夜行性の肉食の鳥たちがその役を務めてくれる。日が沈めば、じきにやってくる。
生きながら喰われるというのは、どんな感じがするのだろう。痛いだろうか。善意の人々は僕を、なんて酷いことをしたものだと責め罪に問うたが、その彼らもずいぶん酷いことをするものだ。
顔を上げ前方に目をやれば、地平線の彼方までまっすぐに続いている、石ころだらけの道。そしてその両側には、麦畑がやはり視界の端まで広がっている。夕ぐれの黄金色の大地は美しい。あるがままの、太陽の色を反射している。
あの道の先はどうなっているのだろうか。僕は目を閉じた。
あの道はきっと、進むに連れてだんだん細くなり、小高い丘を登ってゆくのだ。ゆるやかな登り道からはきっと、遠くに海が見えるだろう。金色の麦の海と、青い海が、素晴らしいコントラストを描くに違いない。道は、丘の頂上にある小さな広場に辿り着きそこで終わる。でも、そこへは誰もたどりつかないのだ。道がどこまでも永遠につづくと錯覚できるように。
地面に映った僕の影は、まだ、くっきりとその輪郭を描いている。しかしもうすぐ日は完全に沈み、黒が訪れ、僕の輪郭を塗りつぶすだろう。そして鳥たちがやってくる。
鳥たちは、僕の肉をすごい速さでついばむだろう。僕はブクブクと、まるで蟹のように、血のあぶくを吐くだろう。その瞬間のことを思うと、恐怖と期待がちょうど半分半分だ。刃物で切られるより、痛いかもしれない。切れ味の鋭いもののほうが、意外と痛みは少ないものだ。鳥たちのくちばしはとても力強いが、尖そうではない。それともその痛みが、僕の罪への罰だというのか。
一匹の蝿が、僕の膝に止まった。気の早いお客さんだ。僕はその不浄の生き物に向かって微笑んだ。空を見上げれば少しづつ、藍色が広がりつつあった。
早く暗くなってくれ。光はもういらないんだ。
早く暗くなれ。暗いところにゆきたいのだ。
そして、僕の輪郭を、溶かしてしまってくれ、早く。
どうせこの世の全ては流れ行くのだから。
君も僕も、形を留めない。結局のところ、いつか僕達の輪郭は流れだす。
どろどろと。どろどろと。
そうなった時、僕たちはどこへ行くのか。
その時、僕たちは、確かにこの世に存在したと、確信を持って言えるのか。
本当に?本当に?本当に?本当に?
突然、一陣の風が乾いた土を巻き上げた、と思った瞬間、激痛が走った。それを合図に、来た。無数の鳥たちが、一斉に僕に襲いかかる。僕の視界に一瞬、赤茶色のモヤがかかった。僕は自分自身の呻く声を聞いた。
僕は、僕の視界に映る限りの麦の穂が、まるで神を称える群衆の手のように、大空へ掲げられ、何かを乞うように揺り動かされるのを見た。今まで聞こえなかったそのざわめきが耳に飛び込んでき、僕の脳を揺らした。
その瞬間、僕には分かったのだ。
世界はプラスチック製ではなかった。ちゃんと生きていた。生きていたのだ。
痛みと苦しみが人を浄化し、はじめてその目を開かせる。そしてはじめて人は、幼子の目で世界を再度みることができる。
しかし幼子とは違い、浄化された人々はそこに初めて美を発見することができる。
幼子にはそれはできないことだ。幼子はただ世界をあるがままに受け取り、好奇心を持って無垢の瞳を見張るだけだ。
人間とは、混沌だ。
人間以外の動物は、混沌を内包しない。至ってシンプルだ。人間のみが、「矛盾」からなる混沌的存在だ。矛盾、混乱、ごまかし、見栄、嘘、計算、欲、知識、思考、信仰、さまざまなものから成る混沌・・・・それが人間だ。
そして今こそ僕はその混沌から脱出するのだ!
最後の力を振り絞り天を仰げば、巨大な黒い鳥が頭上を旋回している。
ああ、天の使いの黒きものよ。羽音を響かせ、僕の前に、圧倒的な存在としてゆったりと舞い降りてくれ。その勇壮な姿を見せてくれ。僕を、僕自身に閉じ込めるこの憎むべき有機物から、自由にしてくれるために来たのだね。
棺も墓も、僕にはいらない。だから、どうぞ、僕を味わい尽くし、喰らい尽くしてくれ。そうして僕は、僕と彼女が一つになったように、お前とも一つになろう。そして宇宙の一部になろう。僕は僕自身から完全に脱却しよう。