墓標
「ロイはなにも悪くないの、悪いのはわたしなの」
彼女は最期までそう言い続けていた。
縄をぐるぐるに巻いてようやく大人しくさせた彼女の探し人———愛しい恋人は獣のように歯を剥き呻り声を上げていたが、そんな歪になり果てた姿など目に入らないかのように優しく口づけた。
それから顔を上げて振り返ると、疲れた笑みを浮かべて、シュヴァルに丁寧にお礼を言った。
「わたしのせいでロイを苦しめてしまったけど、あなたのおかげで無事にロイを見付けられて、取り戻せた・・・ありがとうございました」
悲しい笑顔だった。
そのあと、彼女はようやく探しだした恋人の体に、縋り付いて泣くのだろうかと思われたが、メイアが取った行動は大きくシュヴァルの予想に反してしまった。
正気が失われていようと恋人達の再会だった。
じろじろ見ていてもバツが悪いと、ほんの少し目を逸らした隙だった。
メイアは懐から取り出した短剣を拘束され身動きの取れないロイの心臓に突き立てていた。
良く晴れたある春の日、森に仲間達と狩りに出かけたロイは大怪我をしたのだと聞いた。
モンスターの近隣の出現情報や噂は、彼らの村には一切流れてきてはおらず、それはまさに青天の霹靂。襲撃を知らされたメイアは、悪い冗談ね、と笑ったぐらいだ。
しかし、笑みはそのまま凍りつくことになる。
木の枝で緊急にこしらえた担架で運ばれてきた身体中に血まみれでボロ切れを巻き付けたような者が、彼女のロイだという。
鋭い爪で大きく抉られた無惨な傷が身体中に走る。
特に酷い背中と頬は、爪の毒によって紫色に変色し腫れあがってしまっていた。
その姿にはメイアの大切な、精悍なロイの面影はまるでなかった。
信じられるわけがなかった。
これはロイじゃないわ!
ロイはこんな顔ではないわよ、これは別人よーーー叫ぼうとしたメイアの目に、血に染まった小さな銀色のペンダントが映った。
見間違えることはない。それはロイがいつも首に下げていたメイアが贈ったお守りのペンダント、ロイは喜んで肌身離さず身に着けてくれていたものだった。
ロイは強運の持ち主だ!
この怪我で一命を取り留めたんだ、もう大丈夫だ、すぐに良くなるさ!
それがメイアに送られた村人達の温かい励ましの言葉だった。
でも看病に着くメイアの救いにはならなかった。
悪意などない純粋な願いではあったが、逆にメイアは追い込まれていくことになる。
夜更けにようやくロイは意識を取り戻したが、状態は快方に向かってはゆかなかった。
体に負った傷は深すぎた。高熱と浅い呼吸と苦鳴の中、眠りと現実の狭間をさまよい続けるロイ。
彼女の愛しい恋人。大切な大切なロイ。メイアは毎日付きっきりで懸命に看病した。
しかし村人達は、口にこそ出さなかったが、次第にロイの命を諦めていった。一人メイア以外のすべての者はーーー。
メイアだけはどうしても現実を受け入れられなかった。
メイアにとって、ロイがいない未来など、あり得なかったのだから。
二人で耕した畑、収穫の秋を待って、結婚するのだ。
子供は男の子二人と、女の子の三人がいい。子供はたくさんがいいわというと、ロイもそうだねと笑顔で頷いてくれた。
男の子達とロイは一緒に畑や森に働きに行き、メイアは女の子と美味しい料理を作って彼らの帰りを待つ。
穏やかで、平凡すぎると日々に子供達は文句をこぼすかもしれないけれど、直に彼らも大事な者を見つけ、その平凡の価値を知って、二人の元を去ってゆくその日までーーー。
しかし二人で語り合った夢は今、何一つ実現せず、夢で終わろうとしている?
なぜならロイは。
ロイが。
メイアの目の前で死んでゆこうとしている、彼女を一人残して!
「ロイは、そんなことダメだと言ったの。自分はもう無理だからって・・・」
お金は君が生きてゆくためにもっと有効に使って欲しい。
包帯の間から覗く青い目は痛々しい程優しく微笑んで、切れ切れな言葉は彼女の提案を拒否した。
幼い頃、彼の祖父もモンスターによって命を失っていたロイは、己の運命を静かに受け入れようとしていた。
これまで蓄えてきたお金は、可能性も薄い悪あがきではなく、未来のあるメイア自身のために使ってくれ、と。
「わたしは!どうして嫌だったっ!だって、まだあったんですもの、一筋の光が。助かるかもしれないと思ったの・・・だから、わたしは魔族のひとに、助けてくださいってーーー」
二人の蓄えだけでは足りなくて、渋い顔をする両親やみんなに頼み込んで法外な治療費を用立てて。
森の奧に住む人ではないその男の元に赴くのは怖かったけど、勇気を奮い起こした。
友好的とは言い切れない異種族の相手に断られても、引き下がれない。しがみついてでも帰らないつもりだった。
「治療をして貰ったの。でもそのひと、お金は取らなかった・・・。今から思うと、意地悪じゃなくてあの魔族のひと、治療を嫌がっていたのね・・・『治療はするが責任は持たない。どうなろうと、それでも良いか?』———そう言われたときどういう意味か、よくわからなかった・・・でも、もっと考えるんだったのよね・・・。そうしたら、こんなふうにロイを苦しめずにすんだのに・・・わたし、馬鹿だから・・・」
依頼人の事情を聞いて、シュヴァルは仕事を引き受けた。
治療費に掻き集めたお金を差し出して、魔族の治療を受け、ロイの怪我は癒えていったが、引き替えに正気を失って街に飛び出して消えた恋人の捜索だった。
泣き続けて涙はもう枯れ果てたとばかりに、健気な微笑さえ浮かべるボロボロの一途な瞳をした娘。
人に関わることも嫌う彼の一族、森に住むという男の想像が付いた、あの男が良い結果を生まないことを予想していても、放り出せず彼女の願いをきいて傷の治療を施した気持ちもわかるような気がしたからーーー。
たとえ変わり果てていようと、ロイを探しだいたいと望むメイア。
正気を失い街に飛び出して何人もの通行人に怪我を負わしたロイを見つけだして、メイアはいったいどうするというのかーーー。
実はシュヴァルには、もう二人の未来など見いだせなかった。
癒しに長けた魔族であろうとも、消えようとする命を繋ぎとめることは出来ない。
魔術、魔力は自己回復の手助けが出来るだけなのだ。
もし無理に留めようとして魔と言われる力を注ぎ込んだなら、無理矢理傷口を加工できたとして、自然の理に反する力はモノを本来あるべき姿から歪め別のモノに変化させてしまう。
人間の姿でも人間ではなくなってしまったロイのように。
そしてーーーシュヴァル達のように。
一度変化してしまったものは二度とは戻れないと考えるシュヴァルには、元通り二人が幸福になる答えは見つけられなかった。
だけど。
だから。
シュヴァルは自分に持ち込まれた仕事の完遂にただ徹することにした。
考えるのは依頼を受けた戦士の役目ではなく、彼ら、彼女の仕事だった。
彼女が、自分には見付けられない方法を探し出してくれるのを見たかったのだ。
「メイアっ」
気付いて飛び付いて止めようとした。
ロイを絶命させた短剣が切っ先を向けるのはメイアの心臓。
剣をもぎ取ったシュヴァルの腕の間で、未遂のはずなのにメイアの身体は崩れ落ちていった。
赤に塗れたロイを腕にしっかりと抱きしめるメイアの唇の端から、血が流れ落ちていた。
「毒っ!」
素早く吐かせようと口を開かせようとしたシュヴァルに、メイアは弱々しく首を横に振った。
「・・・ロイ、・・・わたし、のこと、許してくれない、かな・・・。ロイ、は嫌だって、言ってたのに・・・わたし、無理矢理して・・・ロイに、こんな、ふうにしちゃた・・・ごめんなさい・・・わたし・・・だから、ロイはね、なんにも悪くない・・・の、全部わたしのせい、なの・・・わたしが全部、悪いの・・・」
シュヴァルの腕の中で、メイアはロイを胸に抱きしめながら最後に一筋の涙を流した。
泣きはらした目をして現れたメイアの見せた、はじめてで最期の涙だった。
ロイが逃げ込んだ洞穴の奥の暗い湿った地が、恋人達の終着点となった。
「彼女だって、悪くないんだ!」
見晴らしの良い丘の上に並ぶ二つの墓標の前に跪く銀髪の古い友人の背中を眺める戦士は、しばらくの間を置いた後、あぁ、と低く応じていた。
「彼女は、彼女の最善を尽くしただけ・・・。精一杯の愛情だった」
その結果、ロイの精神は壊れて人間ではなくなってしまい、襲われた数人の怪我人が出た。その一人の怪我は決して軽いとは言えないと言う。
ギルドで友人の情報を得て、追いかけてきた先で戦士を待っていたのは一緒になって馬鹿騒ぎが出来る快活な男ではなかった。
湧き起こる何度めかの溜め息を金髪の戦士は呑み込んでいた。
その娘は悪くなくて、モンスターに襲われた恋人は勿論非があったわけではない。
しかし、その結果、傷を負った者が何人も出た。
そして、その悪くはないという彼女の死を止められなかった者がいる。
「ただ・・・その娘は知らなかっただけだな」
素知らぬ振りで、話の方向を変えようとしたが無駄だった。
「おまえ、“知らなかっただけ”と言う?・・・普通、知らないことだよ、そんなことは。あの一族に出会うことなく一生を終える者だって多いんだ。・・・知らないことーーー事の展開を予想できなかったことが罪だったのなら・・・俺だって同罪だっ!」
シュヴァルの吐き捨るような言葉に、今度こそ舌打ちを押さえきれなかった男は、がりがりと長髪を掻き混ぜた。
「あぁ、まったくっ!いい加減にしろよ!!おまえ、一々こんなことやっていたら仕事にならないだろうが。おまえの仕事は探し人だった、あとは依頼人の自由だ。———自由!おまえの好きなコトだろう。復讐相手を探しだしてくれという事だって多々あるんだ。そのとき、どうするんだ?おまえだったら邪魔はしないだろうが」
「———その手の依頼は俺は受けないよ」
思わず声を荒げたが、抑揚を極限に押さえる静かな返答に、言葉が困った男の前で、ぽつりと地面が濡れた。
滴は無数になった。
「こんな時に、雨かよ・・・」
忌々しげに呟かれた。
朝からなんとか保っていた暗い空は、直に辺りが滲むような激しい雨を大地に叩きつけはじめた。
「おまえは昔から、世話がかかるっ!」
ずぶ濡れになろうと微動だにしない友人と空と。交互に見やったあと雨音に消されないよう男は大声を張り上げた。そのあとどっかりとシュヴァルの後ろに腰を下ろすと胡座を組んだ。濡れてうっとうしく頬に張り付く髪を乱暴に後ろでまとめた。
「好きなだけやってろ、仕方がないから、付き合ってやる。その後、俺につきあえよ、このあたりの地酒は美味いんだ!」
この地方では珍しい雨は、新しい石造りの小さな墓標の悲しみを洗い流そうとするように何日も続いた。