五話 伊藤ほのかの傷心 その一
「ほのか! ご飯よ!」
「……」
「ほのか!」
「……食べたくない」
私はドア越しに返事する。ママはそのままキッチンに戻っていった。
「姉ちゃんどうかした?」
「ご飯いらないって」
「明日、雪が降るな」
「こら、剛! お姉ちゃんのご飯、食べない!」
……。
何もやる気が起きない。
電気もつけずに暗闇の中、ベットに潜ったままじっとしている。制服のまま、しわになるのもかまわずにうずくまり、痛みに耐えている。
涙があふれてくる。
どうやって家に帰ってきたのか、覚えていない。唇を洗ったことは覚えている。唇が荒れても、何度も何度も洗った。洗っても洗っても、何も変わらなかった。
ファーストキスを獅子王先輩に無理やり奪われたこと。しかも、先輩の目の前で。
先輩……負けたんだよね。
正直、信じられなかった。
先輩が世界で一番強いわけじゃない。体調だって悪かった。だけど、あんなに一方的に負けるなんて思ってもみなかった。
テニスでもバスケでも一矢報いたのに、今回は手も足も出なかった。
ショックだった。
そのせいで、私の大切な……違う! そうじゃないでしょ!
私は無意識に思ってはいけないことを考えてしまった。先輩のせいにしようとするなんて、サイテーだ、私は。
でも、心の底にある感情が抑えられない。
先輩がもし、体調が万全なら。
獅子王先輩に喧嘩を売らなければ。
教室で獅子王先輩より先に古見君に会っていれば。
考えても無駄なのに、思ってしまう。過ぎたことを悔やんでも仕方ないのに、もしかしたらのことを考えてしまう。
黒い感情が胸の中でざわつき、あふれてくる。
先輩のせいじゃない。先輩のせいじゃない。先輩のせいじゃない。
呪文のように口走る。
そうでもしないと感情を抑えきれなくて、悲しくて、悔しくて……泣いた。
夢を見た。
おばあちゃんが生きていた時の夢。
私が子供のころの夢。
「……こうして二人は幸せになりましたとさ。めでたしめでたし」
「めーたしめーたし!」
私はおばあちゃんの膝に座り、お気に入りの絵本を読んでもらっていた。
シンデレラ。
きれいなドレスを着て、王子様と恋におち、幸せになる。
女の子なら誰もが憧れる物語。
「ねえ、おばーちゃん。ほのかにもおーじがきてくれる?」
「そうだね。ほのかがいい子にして、お母さんのお手伝いをしっかりしたら、きっとくるわ」
「いーこするー! てーだう!」
おばあちゃんは優しく微笑む。
私はおばあちゃんの笑顔が大好きだ。
喜んでほしくて、私はとっておきのことをおばあちゃんに話した。
「おばーちゃん。けーこんってチューするの!」
「ほのかは物知りさんだね」
「エヘヘ!」
おばあちゃんの優しい手が私の頭を撫でてくれる。おばあちゃんに褒めてもらいたくて、いっぱい、いーっぱいお話をした。
「ほのか。口づけは大切なものだから、好きな人だけにしておやり」
「はーい! じゃーおばーちゃんにちゅーする!」
私はおばあちゃんのほっぺにチューをした。
おばあちゃんは喜んでくれる。
うれしくて私も笑顔になる。
「ありがと、ほのか。おばあちゃん、うれしいわ。お礼にいいことを教えてあげるわ」
「なーに?」
「女の子にとって一番大事なキスをファーストキスっていうの」
「ふぁ……ーとす?」
おばあちゃんが私の頭を撫でながら、教えてくれた。
「ファーストキス。いいかい、はじめてのキスは一番大切な人のためにとっておくんだよ?」
「おばーちゃんより?」
私は首をかしげて聞き返す。
おばあちゃんより大切な人って誰だろう?
パパ? ママ?
「ああ、そうだよ。ほのかのお気に入りのうさちゃんよりも大事なものだから、大切にするんだよ。おばあちゃんとの約束。できるかい?」
「できる!」
私は両手を上げて賛同する。
おばあちゃんとの約束は絶対。
だって、約束を破るとおばあちゃんが悲しむから。
大好きなおばあちゃんには笑っていてほしい。おばあちゃんの笑顔が大好きだから。
「ふふっ、いいお返事ね。おりこうさんなほのかにはもっといいこと教えてあげる。このせかいで最初のカップルは誰か知っているかい?」
「だーれ?」
「それはね、アダムと……」




