鎌倉時代の古文を現代風に通釈してみたw
<あらすじ>
防衛大臣の父と天皇の血筋の母を持つ男は、愛していた女を天皇に寝取られてしまった。悲しみの中、男は宇宙飛行士になった。
作者不明『松浦宮物語』
『楽しかった夏の思い出も、過ぎ去ってしまったら憂鬱なのだ。大切なものというのは、失ってから初めてその価値に気づかされるのだ。つまり幸福というものは、いつだって手遅れなのだ!』
…男は女との思い出にしがみつくだけの、惨めな毎日を過ごした。
追い討ちをかけるように、来年火星に打ち上げられるロケットの副船長に決まった。数年がかりの大きなプロジェクトで、生きて帰って来られる保証はどこにも無い。
これには男の父も母も嘆き悲しんだが、宇宙船のクルーに選ばれるということは、息子が優秀であるということの何よりの証拠でもある。これも才能のある人間の宿命なのだと思うと、彼らは息子を誇らしく思った。
男は血の涙を流した。
死ぬのが怖いのではない。もう二度と、他の女を知ることができないのが怖いのだ。
もしこのまま地球にとどまったとしたら、もっと美しい女性に出会えたかもしれない。そして女のことも忘れられたかもしれない。女との思い出も、ちっぽけでほろ苦い、そんな青春の一ページにできたのかもしれない。
しかしそれはもう、叶わないのだ。
女を忘れることも、許すことも、叶わないのだ。
『僕がもし…』
男は体を震わせる。
『僕がもし、旅の途中で死んでしまったら、彼女に対する僕の気持ちは怨念となって、宇宙空間を永遠にさまよい続けることになるだろう。僕の流す血の涙は、無数の流れ星となって、夜空に降り注ぐことだろう。それを彼女は眺める。皇居で、愛する夫と、子供たちに囲まれて。それが、僕の呪いとは知らずに…!』
男は自分の中に芽生えた邪悪な感情を、何よりも恐れた。
女はついに天皇と結婚した。このことに世間は大騒ぎした。
テレビをつけても、ラジオを聴いても、新聞を見ても、同僚の口からも…どこに居ても、男は女の話を聞かされた。自分にとっての最悪なニュースが、世間にとっての最高のニュースであるということの孤独が、男をよりいっそう絶望させた。
『ご結婚、おめでとうございます。なんて、あらたまって言うとなんだか変な感じがしますね。君は昔から僕にとっては高嶺の花だったけれど、まさかお妃さまになっちゃうとはね。相手が大王様とあっては、さすがの僕も諦めるしかないな(笑)、宇宙船のクルーなんて勝ち組の集まりなのに、その中で唯一僕だけが、負け犬です(笑)』
男は復讐のつもりで、女にメールを送った。
…返信はなかった。
厳しい訓練を重ねるうちに、男はしだいに火星への旅立ちが待ち遠しくなった。
他の搭乗員たちは、そんな彼の熱心さを不思議がったが、それは当然のことだった。
誰もが死にたくないから訓練を受けている中で、彼一人だけは、死ぬために訓練を受けていたのだ。男の自暴自棄がかえって彼を誰よりも訓練に積極的に取り組ませ、仲間たちからの信頼も自然とつのった。
『僕のこの情熱がどこから来ているのか…、その源泉を誰も知らない。それなのに、僕の両親も、仲間たちも、僕のことを正義感に満ち溢れた英雄か何かだと勘違いしている。なんて皮肉なんだろう。僕を突き動かしているのは、復讐心なんだ。これはあの女への、復讐なんだ!』
男は自分の肉体をこれでもかと追い詰めた。その間だけは、精神的な苦痛から解放される気がした。
そうして月日は過ぎて、出発の日はやってきた。
船長を務める安部中太郎という男は、有名な大学教授でもあった。
そのため、彼の壮行会には各界の博士、名だたる知識人たちが集まった。その中に男も居た。
教授達はさまざまな話題に花を咲かせたが、誰もが男を賞賛した。男は物理学から儒学にいたるまで、あらゆる学問に精通していたのだ。
男の最後の演説はテレビで全国中継され、これには天皇も感動し、男には国民栄誉賞が与えられることになった。地元の同級生たち、学生時代の教師、近所のおばさんまでが、男のもとに押し寄せた。
その中に、女の兄の姿もあった。
「あいつが言ってたよ。『火星に行ったとしても、私の心はいつまでもあなたの側にいます。どうか、無事に帰ってきて、三人でまた一緒に遊びましょう』ってね」
女の兄はひどく酔いつぶれていた。
「本当は君と二人きりになりたいんだろうけど、それはもう無理なんだろうな。でも兄貴の俺には分かっちまう。あいつがどんなに健気に振舞っていても、俺には分かっちまうんだ。あいつはまだ、今でもお前のことを……」
彼はそのまま眠り込んで、会話は終わった。
男は彼の酒くさいイビキに顔をしかめつつ、『なぜ今さら…』と思った。
『なぜ今さら、彼女はそんなことを言うんだ?結婚してから一度も、一言も、やさしい言葉をかけてくれなかったじゃないか。なぜこの土壇場になって、そんなことを言うんだ?僕の復讐の企てをすべて台無しにしてしまうようなことを、どうして?…僕は火星で孤独に息絶えて、彼女は地上でぬくぬくと暮らす。それで良いじゃないか。それをなぜ今さら……』
「もし君が覚えていたら、彼女にあとで伝えてくれないか?」
男は酔いつぶれて眠っている友に語りかけた。
「僕のこの怨念は、必ずお返しします。必ず生きて帰ってきて、本物の英雄になって、あなたを悔しがらせてやります。…ってね」
そういって、男は火星に旅立った。
「基地まで見送りしなくていいのか?」という男の父の提案を、母は断った。
この世で母だけが唯一、息子の苦悩を知っていた。
「あの子の邪魔をするわけにはいかないよ。母ちゃんにできることは、息子の邪魔をしないように遠くからそっと見守り続けることだけさ。これまでもそうだったようにね」
母はこの地球でどこが一番宇宙に近いのか考えた。
そして、ニューカレドニアに辿りついた。
別名、「天国に一番近い島」と呼ばれる、フランス領の小さな島だ。
母はそこに住居をかまえた。男の火星行きが決まったときから、男には内緒で母は計画を進めていた。
「あの子が帰ってくるまで、私はここから空を眺めていよう。あの子が帰ってこなかったら、世間はいつかあの子のことを忘れてしまうでしょう。お妃さまでさえ、忘れてしまうに違いない。それでも私は、あの子のことを決して忘れないように、毎日お祈りをして暮らすのです」
母のそんな言葉に、「まるで恋人みたいだな…」と父は笑った。
流れ星が一瞬、夜空にきらめいた。
※原作で男が実際に旅立ったのは中国。当時のリスクを考えて宇宙にした。
※原作で母が住居をかまえたのは国境の佐賀県。