道化と姫君
近づいてくる足音に、ページをめくる指先がピクリと震えた。
マリアは静かに本を閉じ、ドアにそっと身を寄せる。
「眠っているのですか?」
ノックとともに聞こえてきた声。
浮き立つ思いを抑え込み、マリアは何も答えない。
これから起こることを想像して、口元が笑み崩れそうになるのを懸命でこらえていると、鍵穴に鍵を差し込む音がした。
鈍いきしみ音とともに扉がゆっくりと開いていく。
それに呼応するように、胸の鼓動も早くなる。
隠れていいた扉の陰から飛び出した途端、「うわっ!」とわざとらしいほどに驚いてマリアを笑い転げさせたのは、この場にはおよそ不釣合いな存在だった。
マントをふわりと翻すと、ひし形の模様を連ねた派手な衣装が現れる。
羽根飾りのついた帽子をかぶり、黒い仮面で顔を隠したその姿は、コメディア・デラルテに登場する道化そのものだ。
「お相手に参りました。私の名前はアルレッキーノ。どうぞアルとお呼びください」
初めて会った時、そう言って、幼いマリアに向かって優雅に一礼し、小さな手の甲に仮面の唇を押し当てた。
それ以来、限られた者以外は決して入れぬはずのこの場所に、アルはしばしば現れる。
「今日は何を?」
一つしかない椅子に腰掛けながら、最初にする質問はいつも決まっている。
仮面の向こうから聞こえる声は少しくぐもって聞こえたが、マリアはにっこりと微笑んで分厚い本を差し出した。
「リア王ですか。つまらない話だ」
思ったままを口にすると、マリアは憤慨したように可憐な唇をとがらせた。
「つまらなくなんてないわ。それに、ここにある本は全てアルが持って来たものよ」
それもそうだとうなずいて、アルは周囲を見回した。
簡素な机や本棚は、密かに材料を持ち込んで、アル自身がこさえたものだ。
色彩に乏しいこの部屋で、目を引くものと言えば、妖精めいた美貌を持つ目の前の少女と整然と並ぶ本の背表紙ぐらいだろうか。
「……リア王ね……」
視線をテーブルの上の本に戻し、本のタイトルをもう一度口にする。
ウイリアム・シェイクスピアが創作した救いのない悲劇。
三人の娘の愛情を言葉で測ろうとした老いた王が、これはと見込んで領土を分け与えた二人の娘から裏切られ、ついには城からも追い出され、最後には、敵も味方もことごとく死に絶える。
「で、好きな登場人物は?」
その一言で、マリアは目を輝かせた。
「もちろん道化よ。アルは?」
「いじわるな姉妹かな。とことんまで父親をないがしろにする様は、いっそすがすがしい」
「冗談でしょ?」
「冗談です」
声に出して笑いながら、アルは持参した紅茶をカップに注ぐ。
そんなたわいないやりとりを、何度繰り返してきただろう。
現実世界から目を逸らし、本の世界に浸ることだけが、マリアにとっては自由の翼を広げる唯一の方法なのだ。
紅茶は冷めきっていたが、それでも良い香りがした。
味はどうなのかわからない。
紅茶を飲むためには仮面を外さなくてはならないが、マリアの前で仮面を外すことはできない。
「アルはどうなの?」
窓の外に気をとられていたアルは、すみれ色の瞳を見返した。
「道化はリア王と一緒に荒野をさまよった挙句、先に死んでしまうでしょう?リアをからかってばかりいたけど、本当は一番の忠臣だったのよ。ねえ、アルは……」
「私が誰に仕えているとしても、心はいつだってあなたのものですよ」
おどけた口調で言葉を遮ると、白い手がすっと仮面に伸びてきた。
軽くよけると、今度はもう一方の手が伸びてくる。
「ねえ、どうして顔を見せてくれないの?」
両手を押さえ込まれたまま、マリアはアルに詰め寄ってくる。
真剣な色をたたえた瞳から、アルはさりげなく視線を逸らした。
「醜いからです」
「アルがどんなに醜くても私は平気なのに」
「あなたが平気でも私は平気ではない」
わざと悲しそうな声を出すと、マリアは急におとなしくなり、仮面の争奪戦はおひらきになった。
亡国の姫君。
魔女の忘れ形見。
マリアはあと半年で十六になる。
その時、待っているものは、魔女裁判とは名ばかりの拷問と火あぶりだ。
何かにせきたてられるように塔に足を踏み入れたのは、もう十年も前のこと。
自分は十二歳になったばかりだった。
石の階段を延々とのぼった突き当たりにある、鍵のかかった小さな部屋。
物見のために作られたその部屋は、今は幼い貴人のための牢獄になっている。
結果は予想した通りだった。
閉じ込められていたのは魔女ではなく、銀の髪を持つ妖精のような少女だった。
「そう言えば、今日も鐘の音が聞こえてきたわ」
無邪気な口調に返す言葉は見つからない。
マリアは何も知らないのだ。
高く、低く、響き渡る鐘の音。
どれほど時間が経っても、忘れることは決してできはしない。
好奇心に駆られ、こっそりと出かけて行った中央広場。
その日、広場で処刑されたのは美しい女だった。
銀色の髪も菫色の瞳もたちまち火に飲み込まれ、気がつけば全身を炎の色に染めていた。
鐘の音にかきけされて、切れ切れにしか聞こえなかったけど、断末魔の叫びはこの国の王に対する呪いの言葉だった。
無言の時はそれほど長くは続かなかった。
白い手から滑り落ちたカップが、床で粉々に砕け散る。
アルはすばやく立ち上がり、壊れ物でも扱うように、そっとマリアを抱き上げた。
格子窓から覗いていた月はいつのまにか沈んでいた。
冷たく暗い部屋の中、粗末な丸テーブルの真ん中で、燭台の火がゆらゆらと揺れている。
無造作に外した仮面の下から、冷たいほどに整った容貌が現れる。
紅茶にたらしたクスリのせいで、マリアが目を覚ますことはない。
「父が犯した罪は私が償います。あなたはお母上の分も幸せに……」
アルはそこで言葉を切り、可憐な唇に口付けた。
「愛していますよ」
吹き消された蝋燭の火とともに、密やかな告白は闇の中に吸い込まれた。
一年がまたたく間に過ぎた。
それでもマリアは聞こえてくる足音に、じっと耳を傾ける。
次の瞬間には落胆の吐息を漏らすことになるとわかっていても、幼い頃からの習慣をやめることができないのだ。
広くて明るい部屋。
窓際に飾られた花瓶には季節の花々が飾られ、窓の傍らに置かれたマホガニーの書棚には、シェイクスピアの「リア王」が皮の背表紙を覗かせている。
マリアがその本を手にした時のこと、
「マリア、喜べ!」
ドアが勢いよく開き、兄のジュリオが姿を現した。
何が起こったのかは、聞かなくてもわかった。
頬は紅潮し、眼に涙を浮かべていた。
戦いは終わり、我が軍は勝利した。
兄はすさまじい苦労の末、ついに国土を回復したのだ。
およそ勝ち目のない戦に勝てたのは、敵国の貴族たちが私兵を率い、国のあちこちで一斉に反乱を起こしたからだった。
残虐で狡猾な敵国の王は、自分の権力を保持するために、教会と結託して魔女狩りを徹底的に利用した。
疑心暗鬼から互いに疎遠になっていた貴族たちが、同時に反乱を起こしたからには、それを手引きする人物がいたはずだが、全ては秘密裏に進められたようで、それが誰だったのかはわからない。
「お兄様、アルを見つけ出して下さい」
「もちろん、そのつもりだが……」
ジュリオは口ごもり、複雑な面持ちで、美しい妹を見下ろした。
妹の恩人だという道化のことは、いやというほど聞かされてきた。
だが、捕虜が口を揃えていう所によれば、敵国の王に道化が仕えていたという事実はないし、それ以前に、道化などというものを王宮で見た者が一人もいないのだ。
それは今から一年前。
ジュリオが身を寄せていた母方の屋敷の前に、四頭だての馬車がつながれていた。
馬はなく、御者もいない。
後部座席で眠る妹のかたわらには、一冊の本が置かれていた。
「それにしても……」
いくら考えても、わからない。
アルレッキーノはコメディア・デラルテに登場する道化の名だ。
芝居など観なくても、名前ぐらいは大抵の者が知っている。
ふざけた名前、ふざけた扮装で、衛兵に固められていたはずの塔の中に、どうやって入り込むことができたのか。
恩人探しは骨の折れる作業だった。
国内外の戦闘で命を落とした可能性だって否定できないし、世間知らずの妹には、相手の年齢を推測することさえできないのだ。
だが、もしもまだ生きているのなら、塔に閉じ込められた妹の話し相手になってやり、読み書きを教え、学問をさずけ、一片の見返りすら求めずに身内のもとに返してくれた恩に、必ず報いなければならない。
「お兄様、捕虜の中で一番身分が高い人に会わせて下さい!」
壁にもたれ、自分自身の物思いに沈み込んでいたジュリオは、唐突な妹の言葉に飛び上がった。
「アルは国王に仕えていたはずなのです。王が行方不明だというのなら、少しでも王に近い立場の人にアルのことを聞いてみなくては……」
何度無駄だと言い聞かせても、マリアは絶対に引き下がらない。
ついに根負けしたジュリオは、捕虜との面会を許可することにした。
地下牢は身分が低い捕虜であふれかえっているとかで、王に次ぐ身分のその人は、かつてマリアが暮らしていた塔の部屋にいた。
部屋にあるのは、簡素な椅子が一つだけ。
ベッドも、丸テーブルも、アルが作ってくれた机も本棚も取り払われ、部屋を埋め尽くしていた本もあとかたもなく消えていた。
衛兵に左右から羽交い絞めにされ、床にひざまずかされたその人は、俯いたまま動かない。
輝く金の髪も、王家の者にふさわしい華麗な軍服も、血に汚れていた。
「どうして手当てをしないのですか?」
「残虐の限りを尽くした王の息子です。手当てを受ける価値などありません」
心ない衛兵の言葉に、他の者たちが口々に同意した。
悪いのは王であって、王の息子ではないのに。
無意識に眉をひそめた時、ジュリオに背後から引っ張られた。
「マリア、気にすることはない。この傷は自業自得みたいなものだ」
逃げた王の行方を聞き出すために、何度も拷問にかけたという。
「それに、この程度の傷で死にはしない」
別人のように冷ややかな兄の声を背中に聞きながら、マリアは強引に前に進み出た。
「あなたに、教えて頂きたいことがあります」
ためらいがちに声をかけると、死んだように動かなかった男が、静かに頭を持ち上げた。
血に汚れてはいても、息を飲むほどに整った容貌だ。
透き通るような青い瞳がこちらを見て、そしてゆっくりと逸らされた。
「わたしは五歳の時から約十年間、ずっとこの場所に閉じ込められていました」
目の前の美しい青年に不思議な慕わしさを感じながら、マリアは懸命に言葉を紡ぐ。
「ここに来てくれたのは、交代で食事を運んだり、身の回りのことをしてくれる召使いの他には、アルレッキーノと名乗る一人の道化だけでした。でも、アルがいてくれたので、私は自分が不幸だと思ったことはありません。塔から出たいと思っていたのは事実です。でもそれは、アルのことをもっと知りたかったからで……」
言っていることが支離滅裂だ。
これでは思いが伝わらない。
焦りにも似た思いで唇をかんだ時、青い瞳がまたこちらに向けられた。
「あなたが何をおっしゃりたいのか、私にはわかりかねますが、一つだけ申し上げておきましょう」
低いのによく通る声だった。
顔は青ざめ、声は少しかすれていたが、それでも凛とした威厳を失ってはいない。
「あなたがお探しの道化はもう二度とあなたの前に現れない。過去のことなど一日も早く忘れてしまうことです」
その声はまるで神の啓示のようだった。
衛兵が止めるのを振り切って、マリアは青年の前にひざまずき、その手をつかんだ。
「あなたはアルを知っているのでしょう?アルはどこへいるのですか?」
青年は静かに首を横に振る。
「私がお話できることは何もありません。それよりその手を離して頂けませんか。あなたの手が汚れてしまう」
「えっ」と小さくつぶやいて、相手の視線を追っっていったマリアは、思わず小さな悲鳴をあげた。
青年の指先からしたたる鮮血が自分の手を濡らしている。
「誰か、手当てを!」
「不要です。聞いていなかったのですか、私には手当てを受ける価値など……」
「あります。あるに決まっています。誰も手を貸してくれないのなら、私があなたの手当てをするわ!」
ドレスの裾を勢いよく引き裂く音と、ジュリオの悲鳴が重なった。
あわてて部屋を飛び出した衛兵が、医者を連れて戻って来るまで、マリアは王子のそばを離れなかった。
「全く、何を考えているのだ」
兄に無理やり手を引っ張られながら、マリアはとぼとぼと階段を下りていく。
それにしても、足が痛くなるほど長い階段だ。
おまけに暗くて、じめじめしていて、あちこちに蜘蛛の巣がはっている。
アルはこの階段を、本や、お菓子や、大工道具や、色々なものを持って、マリアのために何度も何度も上り下りしてくれたのだ。
少しも似ていないのに、アルの面影が傷だらけの青年と重なった。
「お兄様、あの方を助けて差し上げて」
思わず口をついて出た言葉に、ジュリオは階段から足を踏み外しかける。
「わかっているのか、あの男は……」
「お父様とお母様を死なせたのは、あの方ではないわ。国王がいなくなったからと言って、全ての憎しみをぶつけるのはひどすぎる」
「おお、マリア……」
ジュリアは宙を仰いで慨嘆した。
「同情する気持ちはよくわかる。だが、国王をかばった時点で同罪だ。黙って王の居場所を白状すれば、何も命までは……」
マリアが顔色を変えたので、ジュリオはあわてて口をつぐんだ。
王の嫡子は明日の正午に中央広場で火刑に処せられることになっていた。
それを望んだのは、もちろんジュリオだけではない。
残虐な魔女裁判の犠牲者の家族が、口々に王子の火あぶりを主張した結果だった。
やり場のなかった憎しみが、投げ与えられたスケープゴートに向かって噴出している。
どこかに隠れているに違いない王の目からも見えるように、高い台座をこしらえて、その上で処刑を行うことが提案され、そのまますんなりと採用されたのもそのせいだった。
いつも頭の中で鳴り響いていた鐘の音が今は不思議と消えていた。
そのかわり、広場の方から様々な音が聞こえてくる。
どうやら処刑場の台座作りは、夜通しの突貫工事になるようだ。
身体中が痛んだが、不思議と心は凪いでいた。
自分がどんな風に殺されるのかは、悪趣味な衛兵が微に入り細にいり教えてくれた。
大衆の面前で、生きながら焼き殺されることに怖気づかなくもなかったが、呪いの言葉を聞いたあの日から、覚悟していたことだった。
壁にもたれて膝をかかえていると、浮かんでくるのは愛しい少女の面影ばかりだ。
藤色のドレスがすばらしくよく似合っていたのに、今はその切れ端がこの手に巻きつけられている。
おてんばな所は相変わらずだ。
育て方を間違ったのかも知れない。
ふっと笑って、不器用に巻かれた布切れに唇を寄せた時、扉の鍵を開けるガチャガチャという音がした。
「逃げて下さい!」
「…………」
差し出された白い手を凝視したまま、しばらくは何もできなかった。
夢を見ているのか。
いや、そんなはずはない。
心の中で何度も自問自答した後、ようやく言葉を発することができた。
「せっかくのお心遣いですが、私は逃げるつもりはありませんよ。それより、どうやって入って来たのですか、塔の入口にも、扉の外にも衛兵が立っているはずですが……」
冷静を装ったつもりだが、声は情けなくも震えている。
いや、震えているのは、マリアの方も同じだった。
恐怖と緊張で震えながら、それでも気丈に手を伸ばしてきた。
「国王らしい人影が裏庭を横切って行ったと嘘をついたのです。ここには今、誰もいません」
「私を逃がしても、良いことなど何もありませんよ」
ため息交じりに告げると、菫色の大きな瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
子供のように泣きじゃくりながら、それでも腕を引っ張ることを、やめようとしない。
「お気持ちは嬉しいのですが、腕を引っ張るのはやめて下さい。肋骨が何本か折れているようで、逃げるどころか、こうして話をするのも、やっとという状態なのです」
「嘘でしょう!?」
悲鳴に近い声だった。
「残念ながら本当です」
大真面目に答えると、怯えていたことも忘れて、しがみついてきた。
「ドレスが汚れるから離れなさい」
泣き続ける人の耳には届かない。
「傷が痛むので、離れて頂けませんか」
その一言の効果は絶大で、マリアはぱっと飛びすさった。
涙目のまま、茫然と立ち尽くしているマリアを見て、王子は肩をすくめてみせた。
「少し話をしませんか」
マリアは潤んだ瞳を揺らし、こくりと一つうなずいた。
「では、そちらに」
椅子に座るように促すと、消え入るような声で「いいえ」と小さく答えてから、王子の隣に腰を下ろした。
広場は人で埋め尽くされていた。
興奮に目を血走らせ、処刑者の登場を今か今かと待ちわびている顔は、どれもこの上なく醜悪に見える。
この人たちと、全ての罪を身一つに引き受けて死んでいく青年と、どちらが神の御心にかなうのか。
祈り続けるマリアの目の前では、今も準備が続いている。
作りつけの台座の上の中央に屹立する一本の柱。
その周囲にはうず高く薪が積み上げられ、燃え上がる炎のすさまじさを連想させた。
本当は今すぐ逃げ出してしまいたいのに、自分の中のもう一人の自分がそれを許さない。
(何もかも夢だったら良いのに)
それを否定するように、昨夜のやりとりが思い起こされた。
「父を狂気に陥れたのは私です。母が亡くなるまでは本当に優しい父でした。母を心から愛していたのです。そして、母の命を奪ったのは……」
低いのによく通る声が、淡々と言葉を紡いでいく。
悲しいのに、涙がとまらないに、それでもずっと耳を傾けていたかった。
幼い頃、数名の刺客に襲われた。
けれども実際に命を落としたのは、我が子をかばった王妃の方だった。
八つ裂きにされて死んでいった男たちは最後まで口を割らなかったが、その後の調査で、王位を密かに狙っていた、王の弟の仕業だということが明らかになった。
「その時から父は誰も信じられなくなってしまったのです。身内を疑い、自分に近づいてくる者を疑い、侵略戦争に明け暮れて、目の前に立ちふさがる者は処刑した」
戦い続け、人を排除し続け、狂い続け、魔女狩りの悪しき風習がその行為をますます残虐なものに変えていったという。
「それでも私の前でだけでは以前と変わらぬ優しい父でした。だから私は父の変化に気付くことができなかった。でも、好奇心にかられ、生まれて初めて覗き見た刑場で……」
続く言葉は出てこない。
王子は何かをふりきるように立ち上がり、マリアに向かって微笑みかけた。
「全てが終わった時、人々の恨みは消えているでしょう。そしてそこから新しい国作りが始まる。あなたの兄上は慈悲深い方だ。戦いに勝利しても、国を滅ぼそうとまではしなかった。話を聞いて下さってありがとうございました。あなたは幸せにおなりなさい。お母上の分もお幸せに……」
それが別れの言葉であることはわかっても、受け入れることはとてもできない。
自分に向かって差し伸ばされた手をマリアはとっさに払いのけた。
「ちゃんと立っているじゃない、骨を折ったなんて嘘だったのね」
両手を広げ、困ったように微笑する相手の姿がかすんでみえる。
マリアは急いで涙をぬぐい、必死の形相で王子に詰め寄った。
「国王をどこへ逃がしたの!」
「逃がしたわけではありませんよ」
拷問にかけられても決して口にしなかった答えを、王子はあっさりと口にした。
「だったら、会わせて、会わせて下さい!」
国王さえ見つかれば、王子は処刑されずに済むかも知れない。
マリアの胸に小さな希望が生まれたが、その希望は次の瞬間には粉々に砕け散った。
「会うことはできません。父の亡骸は母の墓の傍らに埋まっています」
思いもよらぬ言葉だった。
マリアの顔から表情が消えた。
誰が国王を殺したか。
その質問は愚問だろう。
拷問から、そして、むごたらしい処刑から守るために、王子は自ら手を下したのだ。
泣いて、泣いて、泣いて、泣きすぎて意識を手放して、気がつくと、衛兵の手によって、ジュリオのもとに送り届けられていた。
私には救えない。
もう誰にも救えない。
見上げれば、絶望に曇った瞳に映る空はいやみなほど晴れていた。
国王が王家の墓に埋葬されていることは、ジュリオには話さなかった。
真実を語れば、人々は王の亡骸を掘り起こすに違いない。
でも、死んでしまった人をどんなに鞭打った所で、恨みが消えることはないだろう。
アルのことは、何一つ聞き出すことができなかった。
この広場のどこかで事態を見守っているかも知れない。
あるいは国王と一緒に……。
ふと浮かんだ思いをマリアが強く打ち消した時、群集がわっとどよめいた。
けれどもそのどよめきは、長くは続かなかった。
血をきれいに洗い流し、純白の正装に身を固めた青年が、金色の髪をなびかせながら広場の中央へと進んでいく。
そのよどみない足取りに、陽光を浴びて輝く姿に、誰もが畏怖を感じて黙り込んだのだ。
そして今は、しわぶき一つ聞こえない。
しんと静まり返った中、広場の中央にしつらえられた階段をのぼっていく足音が、マリアの耳にもはっきりと聞こえてきた。
一段、二段、三段、そして最後の一段に足をかけた時のこと、
「マリア、どこへ行く!」
驚きに満ちたジュリオの声があたりの沈黙を切り裂いた。
群集が一斉に声のする方を見たが、名前を呼ばれた当の本人は一顧だにしなかった。
どうして気付かなかったのだろう。
仮面を外さなかったのは、醜いからではなく、この日が来ることを知っていたからだ。
深刻ぶるのが嫌いで、どこか芝居がかっていて、物腰が優雅で、面倒見が良くて、そして、とても優しくて……。
そんな人、アル以外にいるはずがないのに、どうしてわからなかったのだろう。
さびしい塔の部屋で、じっと耳をすませていた日々がよみがえる。
どんなに姿が変わっても、どんなに声が変わっても、その足音を聞きさえすれば全てがわかる。
王子はアルで、アルは王子で……。
広場の中心までの距離が、気が遠くなるほど長く感じられた。
息が切れ、足がもつれ、何度も転びそうになりながら、マリアは懸命に走り続けた。
大勢の視線に晒され、柱にしばりつけられたまま、アルは彫像のように動かない。
ドレスの裾を翻し、階段を駆け上がるマリアの目の前で、一斉に火がかけられた。
「マリア、戻って来い、マリア!」
ジュリオの渾身の叫びに反応したのは、柱にしばりつけられた処刑者の方だった。
見開かれた青い瞳に衝撃が走る。
「来てはだめだ!」
燃え上がる炎の中から聞こえてきた声。
「火を消して!」
それに呼応するようなマリアの声。
予期せぬ事態に衛兵たちが右往左往する中、炎はなおも燃え盛り、柱にしがみついたマリアのシルエットを影絵のように浮かび上がらせた。
あらゆる種類の悲鳴が広場を埋め尽す中、天を焦がす勢いで炎が立ちのぼっていく
あわれな犠牲者を焼く火刑の火は、これまでに幾度となくこの場所で燃え上がったが、これほど激しい炎を噴き上げたことはなかった。
青い空が見る間に灰色に染まっていく。
黒煙は太陽をも覆い尽くし、やがてあたりは真っ暗になった。
地獄の底のような闇の中で、火はなおも燃え上がる。
「……神よ……」
誰かが漏らした祈りのつぶやきが、広場全体に伝わるのにそれほど時間はかからなかった。
広場を満たす合唱のような祈りの声が渦巻く空を、銀色の閃光が縦横に駆け抜けて、人々をさらなる恐慌に陥れた。
青から、黒へ、そして銀色へ……空が次々と色を変えていく中、網目状に広がった銀色の光が凝縮し、巨大な光の束となって、刑場の赤い火柱を直撃した。
銀と赤とが溶け合ってスパークし、ドンという鈍い音がした。
その音を最後に、空は再び沈黙した。
再び目を開けた時、全身を燃やし尽くすかに見えた火が、嘘のように消えていた。
熱も痛みも、息の根を止められる苦しみも、炎とともに消えうせて、マリアの瞳には、その瞳の色と同じ菫色の空が広がっていた。
手のひらをかざしてみると、やけど一つなかったが、炎に焼かれた生々しい感触は夢にしてはあまりにリアルだ。
上半身を起こしたマリアは、ゆっくりと周囲を見回した。
焼け焦げた柱のそばに、一人の青年がひざまずいている。
背中に純白の翼を広げたその人は、こちらに背を向けたまま、低く厳かに呪文めいた言葉を唱え、横たわる王子を抱き上げた。
「待って、待って下さい!」
振り返った青年は、マリアをじっと見つめたまま、不思議そうに小首を傾げてみせた。
「何か用?」
あっけらかんとした問いかけに、マリアは思わず口ごもる。
とび色の髪、とび色の瞳。
ギリシア風の旅装に身をかためた青年は、一見するとごくごく普通の人間に見えるが、背中の翼が作り物ではないことは、周囲の状況から見ても明らかだった。
「お願い、アルを連れて行かないで!」
「火の中に飛び込んだ君の勇気は認めるし、美人の願いはできれば聞いてあげたいんだけどね」
青年はいたずらっぽい瞳を瞬かせ、意味深な笑みを浮かべてみせた。
「でも、アルレッキーノじゃないんだ。天界でも、下界でも、こいつの名前はミシェルで、神に仕える大天使の一人で、加えて言えば大嘘つきで、さらに言えば……」
「ラファエル、黙れ」
「おや、目を覚ました」
青年はぱっと手を離したが、アルこと大天使ミシェルの身体が地面に叩きつけられることはなく、全く重さを感じさせぬ軽やかさでふわりとその場に着地した。
「マリア、どうしてあんな無茶を!?」
「だって、私……」
「おっと、待った!」
二人の間に割って入ったラファエルは、マリアに向かってにこりと微笑みかけてから、ミシェルの方に向き直った。
「魔女狩りの首謀者たちに引導を渡すだけの仕事にいつまでかかっているのかと思いきや、まさか人間に生まれ変わっているとはね。なくしていた記憶は僕が元通りにしてやったから、とにかく一度、天界に戻れ」
「いやだと言ったら?」
短い沈黙の後、急に真顔になったラファエルは、マリアの眼前にすっと人差し指を突き出した。
ぐらりと崩れ落ちる身体を、ミシェルはあわてて抱きしめる。
見回せば、台座は消え、自分が縛り付けられていた柱も消え、広場を取り巻く群衆は、様々なポーズや表情のまま固まっていた。
「時を止めたな」
「さっきからずっと止まったままだ。今頃気がつくとは間抜けだな」
声に出して笑ったラファエルは、ミシェルに背を向けたまま、とび色の髪をかきあげた。
自分でも、まずいことをしたと思う。
ミシェルを天界に連れ戻すためには、このまま二人を死なせた方が都合が良かったはずなのに、思わず手を下してしまった。
判断を狂わせたのは、あろうことか、記憶をなくし、自ら進んで死を受け入れていたはずのミシェル自身だ。
「お前の声が聞こえたんだ。無意識に俺を呼んでいた。もちろん自分が助かりたいからじゃない」
つまりはそういうことなんだろ?と訊ねられ、ミシェルはマリアに視線を落とした。
記憶の中のマリアは、いつも幸せそうに笑っている。
その笑顔に、信頼しきった眼差しに、何度救われたことだろう。
見守ること、塔の外に出してやること、そして幸せを望むこと。
自分がマリアのためにできることは、ただそれだけだと思っていた。
だからこそ、花がほころぶように成長していく様を、切なさと愛しさの入り混じった思いで見守ってきたのだ。
「私が人を愛するのは、おかしいか?」
ラファエルは小さく吐息を漏らしただけで、肯定も否定もしなかった。
癒しの天使として、多くの人間にかかわってきただけに、思い当たるふしがないでもない。
だが、人間界での生を終えれば、天使は空へ戻るしかないわけで、どんなに愛し合っていても、一緒にいられる時はほんのわずかだ。
「お前の望みをかなえてやることが、必ずしも良いことだとは思わない。だが、ここで恩を売っておくのも、悪くないかも知れないな」
ラファエルの予想に反し、ミシェルは複雑な表情で俯いた。
「だが、私にはマリアの気持ちがわからない。私の望みがマリアの望みと同じとは……」
「大天使長様らしからぬ弱気な発言だな。まあ、俺にまかせてみろよ」
悪戯っぽく片目を閉じたラファエロは、マリアの銀の髪を指先ですくい、気障なしぐさで口付けた。
ラファエルが即興でこさえた筋書きは、この男らしいふざけたものだった。
合図とともに人々は目覚め、再び時が流れ出す。
神の使者として地上に降り立った大天使ラファエルが、悲劇の主人公である王子と姫君を蘇らせ、魔女裁判と火刑が神の意思に反するものであることを高らかに宣言する。
そして問題はその後だ。
「演出は派手な方がいい。そうだ、愛し合う二人を祝福するために天使を呼ぼう。百人の天使が現れて無数の花びらを散らすその下で、王子と姫君は抱き合いキスをする。感動的な光景は群集の目に焼き付けられ、奇跡の物語として長く語り継がれるに違いない」
「……お前を呼んだのは、どうやら失敗だったようだ……」
苦悩に満ちた呟きを、明るく笑い飛ばしたラファエルは、空に向かってパチンと一つ指を鳴らした。
「さあ、道化芝居の再開だ」
本来なら腹立たしいはずのその言葉は、ミシェルの耳には届かなかった。
ぱっちりと開いたマリアの瞳に、自分の姿が映っている。
そのことに気付いた途端、群集も、大天使も、意識の外に飛び去った。
「マリア、あなたを愛しています」
少しの戸惑いとともに口にすると、マリアは泣きながら微笑んだ。
「私も、あなたを愛しています」
まっすぐな言葉とともに、しなやかな腕が伸びてくる。
首に絡められた腕の甘やかな感触にびくりと身体が震えたが、ロマンチックな時はそう長くは続かなかった。
「たとえ、あなたが道化でも、敵国の王子でも、殺人者でも……」
全部当たっているだけに、はっきり言われると、さすがに辛い。
苦笑しながら、相手の言葉を唇で塞いだ時、空から薔薇の花びらが降ってきた。
「積極的なのは結構だが、順番を間違えてもらっては困る」
ミシェルにだけ聞こえるように小声でささやいたラファエルは、文字通り「天使の微笑」を唇に刻み、ゆっくりと前に進み出た。
「皆に神の祝福を」
目覚めたばかりの群集は、その一言で雷に打たれたように跪いた。
花びらは、なおも降り続く。
空を見上げたマリアに向かって、天使たちが一斉に手を振った。