インビジブルガール
私の姿は誰からも見えなくなっていた。
私がいても誰も無反応。私が声を掛けても誰も気づいてくれないし、目すら合わせてくれない。しかも切符や電子マネーがなくても改札が通れたり、自動ドアが反応してくれなかったりと、機械にまで自分の存在を無き者として扱われていた。
ファンタスティックだけど、そんな私の状態はまるで透明人間のようだった。
今も私の目の前にあるタッチパネル式の航空券発券機は無反応だった。私がディスプレイを何回も指でタッチしているのにもかかわらず、画面は一向に切り替わらない。
私の横から指がぬっと突き出された。黒スーツの腕だ。
平均身長を持ち合わせた二十代女子を無視するとは何事か。
私は振り返り、これからどこかに出張にでも行くであろう中年サラリーマンの男を睨みつけた。けれど発券機を操作し始めたサラリーマンは、私の視線などものともしなかった。それどころか、私と目を合わせることもなく、その瞳はひたすらディスプレイに注がれていた。
「ちょっと」
私は不平の声を上げる。しかしサラリーマンは表情一つ変えないで、発券機を操作し続ける。
私はサラリーマンの顔の前で手を振ってみた。しかしこの中年男は瞬き一つしない。苛ついた私はサラリーマンの肩を思い切り叩いてやった。けれど彼は肩を押さえることすらせずに、座席予約の手続きを黙々とこなしていった。
私は仕方なく発券機から離れた。どのみち機械は私に反応してくれなかったのだ。あの場にいつまでいてもしょうがない。
私は受付カウンターへと歩く。こうなったら人から直接空港券を手配してもらう。
空港内は人がまばらだった。六月という祝日も何もないこの微妙な時期。しかも平日の昼間。いるのはスーツ姿の仕事人と、年齢層が高めの旅行者ばかりだった。
「すみません。東京行きの便に空きってありますか? もしあるのでしたらチケットの手配をお願いしたいんですけど」
髪を一つにまとめ制服をきちっと着こなし、上品に綺麗なメイクをしたカウンターの受付嬢に声を掛けた。けれど彼女は長いまつ毛を伏せたまま、仕事に没頭していた。手元の機械をいじったり書類を書き込んだりせわしなく作業をしている。
やっぱり私のことが見えていない。
普通だったらカウンターの真ん前に客が突っ立っていればいくらなんでも気づく。目の前の受付嬢がどんくさい可能性も考えられるが、やや吊り上がった切れ長な目をした見るからに利口そうな彼女がそんなわけないだろう。
このまま声を掛け続けたところで埒が明かないので、私は仕方なくカウンターから離れた。
航空券を手配するのは無理なようだ。でも私は飛行機に乗って東京へ行かなければならない。日本で一番面積が広い、ここ北海道から日本で一番人口の多い大都市――東京へ。
婚約者の彼がいる東京へ。
いや……。
私は空港内を一人歩きながら被りを振った。知らず知らずのうちに唇を強く噛んでしまう。
正確には婚約者だった彼がいる東京へ。
けれどいまだに大好きなそんな彼の元へ会いに私は行くのだ。彼に会ったって透明人間から元に戻れる保証はどこにもない。しかしどうしようもなく、私は彼に会いたかったのだ。
何便、何時何分どこ行きかが表示された電光掲示板を私は見上げた。最新の発着が電光掲示板いっぱいに表示されていた。カタカタカタカタとフライトが終了した便の項目のパネルは、新たな発着へと表示が切り替わっていく。
東京行きの便は……。
私は上から順に、電光掲示板の項目を目で追う。
大阪、名古屋、仙台、福岡……。
見つけた。
ちょうど電光掲示板の真ん中辺り。搭乗時刻は今から約一時間後。
私は搭乗口のナンバーを確認すると再び歩き始め、保安検査場の前まできた。検査場と言ってもそんなに仰々しい所ではなく、実質登場待合室へと繋がるゲートのような場所だ。
国内線では手荷物に、鍵等の金属製の物を別のトレーに置き、職員の手によって検査場内にあるベルトコンベアーに乗せ、機械に通す。そして搭乗者本人自体はその横を一緒に歩く形で金属探知機を通り過ぎ、問題がなければそのまま手荷物と鍵等を再び受け取り終了だ。
私は保安検査場内を素通りしていった。前回、クリスマス・イブに東京へ行った時――私がまだ透明人間になる前に飛行機を利用した時は、金属製の物がないかバッグの中をいじりまくり戸惑ったりしたけれど、今回は何も持っていないから楽なものだ。
ここでも搭乗券のチェックは行われるのだが、私は機械にすら見捨てられた透明人間。搭乗券を持っていなかったけれど、何の問題もなかった。
ふわふわとスキップしたくなるような気分で、足取りも軽やかに私は東京行きの搭乗口ナンバーのスペースまで来た。搭乗口待合室には登場時間までくつろげるように一人掛けのソファが規則的にズラッと並んでいる。私はそのうちの一脚に腰を降ろした。
前回はクリスマス・イブ、しかも年末で土曜日ということもあり混んでいたため、見知らぬ人と隣同士で座らなければならず窮屈な思いをした。けれど今は六月の、しかも平日。だから空いていて、他人と一脚以上距離をおいて座ることができた。
「アハハ」
私は声に出して笑った。どうせ私の声は誰にも聞こえないのだから構わない。
自分の口から出た乾いた笑いから、きっと頬が引きつった自嘲めいたものになってしまっているだろうことは鏡を見なくとも容易に想像がついた。
私の婚約者だった彼――恵太は去年の春から一年間、仕事の関係で東京に出張していた。離れ離れになるのが私はすごく嫌だったけれど、一年間だけ、それに仕事なのだから仕方ないと割り切っていた。
去年のクリスマス・イブ、私はそんな恵太を驚かせようとサプライズのつもりで何も告げず、彼に会いに東京へ行ったのだ。あの時の私はノー天気に彼がどんな顔をするのか、そして二人で過ごすクリスマスに思いを馳せていた。恵太に会わずに帰ってくることになるとは、彼に私以外の大切な人できていたことを思い知らされるとは、この時の私は夢にも思っていなかった。
アナウンスが流れた。放送の内容によると、私が乗り込むつもりである飛行機の搭乗時間になったようだ。私は立ち上がると搭乗口へと向かった。
私が乗り込んだ飛行機の便には運良く空席があった。私はその誰も座っていない席に腰を降ろした。通路側の席だったため、飛行機の小さな窓から外の景色を眺められないのが残念だったが、それ以外に不満はなかった。
私の隣に座っている中年のスーツを来たサラリーマンは、昼食を取り損ねていたらしく、シートベルトをするとすぐに鞄から菓子パンと紙パックの野菜ジュースを取り出し、前の座席の背にある折りたたみ式の簡易テーブルを開きその上に置いた。そしてストローを刺し野菜ジュースを飲みつつ、その菓子パンを頬張っていた。
そういえば、私は朝から何も食べてもいないしまた飲んでもいない。透明人間になってから、食事をしていなかったことに気づく。誰にも姿が見えない私に食事なんか用意されなかったし、父も母も何か気に掛ける様子すらなかった。もちろん見えないせいで誰ともコミュニケーションが取れなかったため、自分で何か買って食べるということもできなかった。
けれども、隣の席の人の飲食風景を羨ましいとは思わなかった。不思議なことに私には空腹も喉の渇きも全くなかった。
飛行機は徐々に滑走路へと移動していった。ゆっくりと微妙に他の飛行機や名前のわからない特殊自動車の横を通り過ぎていく様子を私は食事中のサラリーマン越しに眺めていた。
まもなく離陸するとのアナウンスが流れた。隣のサラリーマンは慌てて野菜ジュースを飲み干し、菓子パンの包装紙と共にコンビニの袋に押し込みテーブルを持ち上げ閉じた。そしてゴミのみが入ったコンビニ袋を備え付けのエチケット袋に押し込んだ。
飛行機が轟音を立てながら勢いよく加速し始めた。サラリーマン越しに見える景色が急速に前から後ろに流れていくようになる。それから飛び上がったのか地面が消え空のみとなった。残念だけど私は通路側の座席だったので、建物や車が小さく、どんどん米粒のようになっていく様子を見ることはできなかったが。
私の気分は晴れ晴れとしていた。飛行機の離陸の瞬間が私は苦手だったのだが、今回はその時に生じる嫌な感覚がなかったからだ。飛行機が地面から離れる瞬間というのは車体がジェットコースター程ではないにしろ似たような感じに傾き、ものすごく圧迫感があるのだ。それに飛び上がり生じる浮遊感に最初のうちは慣れず、地に足がつかないという不安定さがものすごく気持ち悪い。
いつもそれだけがどうしても憂鬱でたまらないのだが、今回はそれがなかったのだ。離陸時に生じる轟音は相変わらずうるさいなとは思ったが、それ以外は何の感覚もなく快適だった。
私は子供のようにぶらぶらと貧乏ゆすりをする。暇だった。東京に着くまで一時間以上は何もすることがない。
私は自分が置かれている状況を整理してみようと思った。このまま、のほほんと透明人間を気取ってはいられない。誰にも見えない、存在しないものとして扱われる状態が続くのはさすがに困るし、何よりも悲しい。「私」という存在を否定されている気がして。
いつから誰の目にも留まらない透明人間になったのか? 今朝目覚めた時点ではもう私は透明人間だった。じゃあ、その前は?
私は記憶の糸を手繰り寄せようとする。しかしなぜか今日以前――昨日、一昨日、そのまた前と何をしていたか全く思い出せなかった。いつも通り仕事に行って帰ってきて、家族に愚痴ったりリフレッシュがてらテレビをダラダラ観たりして寝てといった日常を繰り返していたはずだとは思うが、その詳細が全く頭の中に浮かんでこなかった。頭を手で押さえたりして頑張って思い出そうと脳みそを最大限ひねっても、頭痛がしてくるだけで意味がなかった。
私にある今日以前で最も新しい記憶は冬の終わりの方だけどまだ充分寒い三月。恵太が東京でできた浮気相手の女を連れて、私との婚約解消の直談判しに来た時のことだった。
大切な話がある、私と私の家族にも話したいことだから君の家に明日行ってもいいかとその前日に言われた時から嫌な予感があった。なぜなら私はクリスマス・イブに東京へ行った時、恵太が私と同じぐらいの歳のその女とデートしているのを見たからだった。
クリスマス・イブのその日、席が取れた便の関係上、昼間に東京に着いてしまった私は恵太の家に直行したのだが、当たり前ながら彼は留守だった。そこで時間を潰すためにせっかくだからと観光に勤しんでいたのだ。その時に偶然、道を歩く恵太とその女を目撃し、二人の跡をずっと付けていた。仲良く寄り添い合いながら彼女と歩く恵太は私といる時よりもずっと楽しそうだった。二人は恵太と私よりもずっと心が通じ合っていてお似合いのカップルに見えた。恋人の理想像とも言えるぐらいに。
東京では珍しかったらしい、けれど私には何の変哲もない雪が降るホワイトクリスマス・イヴ、二人は最終的に恵太の家へと消えていった。私が入る余地はどこにもなかった。仕事が忙しいし、そんなに早くから休みはもらえないから帰省できないと言っていた恵太に、私はとっくの昔に裏切られていたのだった。
二人が仲良く、本当だったら私がそう過ごすはずだった聖夜。私は一人惨めな気持ちを抱えたままビジネスホテルに泊まり、翌朝北海道へと帰った。
正月、私の元へと帰ってきた恵太に私は訊いた。
「必ず、絶対に三月になったら戻ってくるよね?」
その時、恵太は言った。
「……うん」
少し間が空いたし、なぜかはっきりとしない返事に私の不安はさらに増大した。だからその時、私は彼と約束した。
「約束だよ。もし破ったらまち針千本、頑張って飲ますからね~」
まち針とか具体的過ぎるだろうと恵太に突っ込まれつつ、おちゃらけながら軽いノリだったけれど、彼と確かに私は約束した。結局破られてもまち針千本、恵太に飲ませたりすることはなかったが。
恵太が新しい恋人である女を連れてきて、その人との将来の方を真剣に考えていると告げられ婚約解消するしかなくなった後、私はどうしたんだろう? 改めて私は頭を働かせてみる。
ずっとずっとずっと、会えない寂しさを我慢して毎日午後十時からの電話と、メールのやり取りのみで耐えてきた。いつも私は東京にいる恵太のことを想っていた。
元気かな? 病気してないかな? 落ち込んだりしていないかな? 仕事はきちんとこなせてるかな? 悪い人に騙されていないかな?
会えない寂しさや触れ合えない悲しさ、不平不満はたくさんあったけれど、恵太に愚痴ったりなんかしなかった。私は彼に嫌われるようなことなんか何一つした覚えはない。
なのに恵太は東京で私以外に恋人を作り、最終的にその人を選んだ。
私は歯を食いしばる。手をギュッと握る。両拳が震えているのを見て私は知らず知らずのうちに自分が俯いてしまっていたことに気づき、顔をまっすぐ上げた。鬱屈した気分に沈みたくはなかった。
私はもっと遠い過去を振り返る。今辛い思いをしている原因である恵太とのことを。
恵太と出会ったのは大学一年の時のことだった。彼は当時一つ年上の二年生で同じサークルに所属していたのだ。最初に好きになったのは私で、特別好意を持っている相手はいないという彼にひたすらアタックし続けて付き合うところまで持ち込んだ。恵太は優柔不断ではっきりしなくて抜けているところがあったけれど、優しくて大らかな彼が私は大好きだった。
デート場所をビシッと決めたりとリードしていくのは私だったけれど、恵太はいつも流されがちだったけれど、でも彼は私を見てくれていた。近いうちに結婚しようって言ってくれたのは恵太だった。恵太が自分から私に告げてくれた。解消しようと言ったのも恵太だったけれど。
私は目をギュッとつぶる。涙がこみ上げてきたりはしなかったけれど、泣きそうになってしまったからだ。いくら誰にも見えないからといって無様な姿を人前で晒したくなかった。
結局飛行機に乗っていた間、計一時間半、私は透明人間になった原因を思い出すことはできなかった。わかったことはとても悲しく惨めな思いをしたこと。恵太に別れを告げられた後、私はずっと自分の部屋に閉じこもり、泣き続けていた記憶。両親が来ても友達が来ても誰が来ても拒絶し、ずっと引きこもり続けていた。どうして? なぜ? といった疑問符が頭の中を埋め尽くし、行き場のない思いや恵太と過ごしてきた日々が入り混じり堂々巡りし続けた。
ぐしゃぐしゃに自分でもわからないくらい複雑に入り組んでしまった暗澹とした思いは頭上にある路線図と似ている気がした。東京に無事辿り着いた私は恵太の家に向かうためにその経路を駅で確認していた。地下鉄だけで十本以上もある東京の路線図は大きく、各路線も長く様々な駅で交差しており複雑な形を作り上げていた。私が住んでいる北海道の札幌市内を走る地下鉄の路線は三本しかなく、その路線図も単純な形だ。だから東京のこの路線図を眺めていると目眩がしてきた。
クリスマス・イブに一度恵太の家まで行ったことがあったから、その時よりかはスムーズに経路を確認できたが、それでもやっぱり手間取ってしまった。
私は自分が乗るべき路線と乗り換える駅と、あと運賃を確かめ頭の中に叩き込むと、券売機へと並ぼうとした。しかし今の自分がいじっても機械は無反応だということを思い出し、改札へと向かった。乗車券も電子マネーも通さない私は咎められることなく改札口を通過できた。
周囲の建物はビルが多く、それらを眺めるために常に私は上を見なければならなかった。どの建物も本当に高く、空に向かってそびえ立っていた。おかげで自分は恵太がいる地上という人工的な世界に縛られているような感じが一層し、広々とした自由に真っ白な雲が浮かぶ綺麗な青空がいつにも増して遠くに見えた。
恵太の家の最寄り駅まで来た私は一人ぶらぶらと歩いていた。大通りから外れたところにある恵太の家までの道順は少しだけ複雑で、クリスマス・イブに来た時は地図と睨み合いながら行った。そんなわけで一度行ったことがあるといっても、今は地図も携帯も持っていない手ぶらな状態なので、恵太の家までの道順は全くわからなかった。
けれど私の足取りは軽かった。スキップしちゃうぐらいふわふわした身体で鼻歌を歌いながら駆けていた。子供のように無駄に勢いよく。
恵太の家まで辿り着ける自信がなぜか私にはあった。恵太に会いたい、この想いさえあれば大丈夫だと思った。見えない糸に引き寄せられるみたいに、いやその糸を引き寄せていくような感覚が、私の足取りを確かなものにしていた。
車用の信号がどこも縦ではなく横に青、黄、赤と実際に並んでいることを新鮮に感じながら、私は恵太の家へと向かった。道に迷うことは一度もなかった。
恵太の家は三階建てのアパートと大差ない、けれど鉄筋コンクリートでできたマンションの一室だ。彼はそのマンションの二階に住んでいる。
私は恵太の部屋の前まで来た。ドアには部屋番号が記載されているだけで、クリスマス・イブに来た時と同じく表札の類は出ていなかった。一人暮らしだし、出していない人が多いから俺も取り付けたりはしないと、過去に電話で恵太は話していた。
だから今も恵太がここに住んでいるかどうか、ドアを見ただけでは判別がつかなかった。しかし私には不思議と彼が今もこの場所に住んでいるという確信があった。
ドアは当然のことながら閉まっていた。きっと鍵も掛かっているだろう。それに恵太は今頃仕事の最中で家にはいない。
透明人間である私にはどのみちインターホンも押せないし、人と話すことはもちろん自分の存在に気づかせることもできないわけだから、最初から住人に断りを入れて上げてもらうという正攻法は通用しない。
私は非常識ではあるけれど、無断で恵太の家の中へと入った。玄関に靴は一足もなかった。それは今この家の中が無人であることを、さらに履かない余分な靴はきちんと靴箱の中に仕舞われていることを示していた。恵太は面倒臭がりで雑なところがあるから、彼一人だったらそのまま靴を次から次へと出していき放置してしまうはずだ。つまり、恵太の他にきちんと整理整頓する綺麗好きな誰かが一緒にいるのだ。
それが誰であるか容易に想像がつき、私は唇を引き結ぶ。お腹の底に溜まっているわだかまりがまた噴出しそうになったので、それを追い払うために玄関から恵太の家へずかずかと早足で遠慮なく上がり込んだ。
恵太の部屋は1DKで廊下を少し進むとすぐにダイニングへと通じていた。初めて見る東京での恵太の部屋に、私はウキウキする。未知の場所への好奇心の異常な高まり具合はまるで子供にでも戻ったみたいだった。
壁に掛けられている機能的で無骨な秒針まであるアナログ時計に、無地の絨毯とテレビに二人掛けの黒いビーズソファ。花柄の可愛らしいテーブルクロスが掛けられたダイニングテーブルにそこに収まっている二脚の椅子。その背後の壁には猫の写真が載っている壁掛けカレンダーが飾られていた。
無邪気に目を輝かせながら部屋中を眺め回していた私の表情は凍っていった。恵太じゃない誰かの好みでチョイスされたと思われる物がこの部屋には多い。恵太だけのセンスじゃ絶対にこんなレイアウトにはならない。可愛らしくておしゃれなデザインの物なんて恵太は置かない。
唇を強く噛み締め無地の絨毯を見つめる私の耳に突然電子音が響いてきた。思わず飛び上がりそうになりつつ音のする方へ振り返り近づくと、ファクシミリ付きの固定電話が鳴っていた。電話は鳴り続けていたが出るわけにもいかず、私は電子音がやむまでのかなり長い時間、呆然とその場に突っ立ていた。
電話が鳴りやみ再び室内が静かな状態に戻ると、私はダイニングの隣にある台所へと向かった。突然の電話に鬱屈とした思いが吹っ飛びかけるほど動揺したが、システムキッチンとその後ろにある食器棚や冷蔵庫を見ていくうちにその気持ちはぶり返した。魚の形を模した可愛らしいスポンジ、おそらく夕飯用にすでに出された二人分の食器と洒落たデザインの箸と箸置きにペアのマグカップ。冷蔵庫には小さく丸っこい字で食材の名称等が書かれたメモが磁石付きの猫型クリップで留めてあった。
私はこれらについて何も考えないように努めながら足を床に叩きつける勢いで踏み出し、洗面所、お風呂、そして寝室と見て回った。色違いのコップに歯ブラシ、恵太だったら使う必要のないヘアバンド、ダブルベッド、部屋のあちこちに飾られている可愛らしい動物を模した小物。それらが目に付いて私は恵太以外の誰かの存在を無視し続けられなくなった。恵太が一人ではなく、誰かと一緒に生活を共にしていることは明白だった。そしてその誰かというのは、あちこちにある物のセンスからしてきっと女。
私は恵太以外の、その女の存在を感じさせるものを片っ端から壊してやりたい衝動に駆られる。恵太が私以外の女と仲睦まじく生活しているという事実。その女は恵太に新たに選ばれてきっと愛されているんだという事実。私はやっぱり捨てられたんだという事実。どこかが抉られたかのように呼吸が苦しくなり、胸のそこに何かが重くのしかかってくるような感覚。物理的な痛みは一切ないのに、なぜかとても痛かった。
私は寝室においてあった観葉植物に手を伸ばす。丸い、頑張れば片手でも持てそうなぐらいの小さな植木鉢。小ぶりで生き生きとした緑色の葉をつけていて可愛らしい、恵太だったら絶対に置かないそれに。
その時また電子音がダイニングの方から響いてきた。私は慌てて手を引っ込めた。そしてすぐに、また電話が鳴ったのだと気づく。
今度もまた電話は長いこと鳴り続けていたが、やがて止まった。突然のけたたましい音に私の気は完全に削がれた。観葉植物を植木鉢ごと床に叩きつけたって、あの女の存在を突きつけてくる食器やカップ、その他小物の類を破壊したところで、恵太が彼女と生活を共にしているという事実は消えない。溜飲が下がったとしてもそれはきっと一時的なもので、すぐに惨めになるに決まっている。それにこれらの物自体に罪はないのだ。あの女はともかく、恵太を悲しませるようなことをするわけにもいかない。
重苦しく私を侵食していく心の痛みをなんとか鎮めるために深呼吸してみる。大きくすって、吐いて、吸って、吐いて……。新しい空気を吸い込んで澱んだ空気を追い出すイメージで。胸がつっかえるようなじわじわとくる真っ黒な痛みは消えなかったけど、少しだけ軽くなった。
一通り恵太の家を見て回りすることがなくなった私は、ダイニングのビーズソファに座った。黒というモノクロ色、シンプルで味気ないデザインのこのソファが一番、恵太っぽさを私に感じさせてくれた。
何もする気がおきず、私はずっとぼんやりとソファに座っていた。不思議と退屈だという気持ちはせず、ただただ恵太に会いたいその一心で彼を待ちわびていた。どうせ恵太にも私の姿は見えないのだろうけど、彼の姿が見たかった。
部屋は明るい光が差し込む昼間から徐々にオレンジ色に染まり、そして太陽が沈んでいくのか暗くなっていった。そして時計の針を確認するのが困難なぐらい周囲は闇に閉ざされた。
鍵を開錠し、ドアを開く音が玄関の方からした。いつの間にかソファで横になっていた私は慌てて起き上がる。この家の住人が帰ってきたのだ。
靴を脱ぎ揃える音と足音がし、ダイニングに電気が付いた。私は突然明るくなった視界に目がくらみ、まばたきをした。それから帰ってきた人物の方を見た。
ダイニングに入ってきたのは恵太ではなかった。胸よりも長く伸ばした黒髪のロングヘアーに、ナチュラルメイクなのにくりっとした大きな目。膝丈のスカートを履いた清楚目で上品な服装をした女だった。黒いビジネスバッグを肩に下げているから、きっと仕事帰りなのだろう。私は彼女が何なのか一目でわかった。なぜなら過去に二度、会ったことがあるから。一度目はクリスマス・イブの時、恵太の隣にいたのを。二度目は直談判しにきた恵太の隣にいたのを私はこの両目に焼き付けてある。
彼女は恵太の新しい恋人で私から彼を奪った女だ。
目の前に婚約者だった女がいるというのに、私の姿が見えない彼女は眉根一つ動かさずに寝室へと消えた。バッグを置いてきただけなのかすぐに再びダイニングへと姿を現した彼女は、夕飯でも作るためなのか台所の方へ向かって歩いていく。
その時また電話が鳴った。ソファに座っている間にも何度か電話が掛かってきたため、私はもう驚かなくなっていた。けれど彼女の反応の仕方に目を見張った。
彼女は弾かれたように固定電話の方へ振り返った。顔色を変え、電話の方を凝視したまま傍目からでもわかるくらいに震え出す。そして一歩、二歩と後ずさる。まるでメリーさんからでも電話が掛かってきたみたいな反応だ。なぜ彼女が電話に出ようとせず、それどころか怖がっているのか私にはわからなかったが、その様子はとても滑稽に見えた。
「あたしメリーさん。今あなたの後ろにいるの」
私は彼女の後ろに立ち、そう言ってみる。私を捨てたのは恵太だからメリーさんごっこをやるなら彼の後ろに立って言うべきだが、そうなってしまったのはこの女のせいなのだから問題ない。このまま都市伝説のように目の前の女を刺してしまいたかったが、私は刃物なんて持ってないし、恵太に会う前に殺人鬼化するわけにはいかなかった。
電話が鳴りやむと彼女は台所へは行かず、フラフラしながらビーズソファまで近寄るとその上に崩れ落ちた。
「もう許して……」
彼女が両手で耳を塞ぎながら、か細い声でそう言うのを私はなんとか聞き取った。この様子を見て普通だったらどうしたのか心配するんだろうけど、ざまあみろとしか私には思えなかった。彼女は私の婚約者を――最愛の人を横取りしたのだ。このぐらいの報いは当然だ。
ガタガタ震えながら頭を抱え俯く彼女を冷めた目で観察していると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
その声の懐かしさに私は玄関へと駆け出した。声の主の姿を一秒でも早く見たかった。
スーツ姿で革靴を脱ぎ捨てこちらに歩いてこようとしているのは、紛れもなく恵太だった。短く刈り上げたさっぱりとした髪型。二重のぱっちりとした瞳に黒縁メガネを掛けた恵太は私の記憶と寸分も変わっていなかった。
恵太は私と目を合わすことなく、ダイニングへと向かっていく。彼にも私の姿は見えていなかった。私は恵太とぶつからないように脇へと避けた。
「どうしたんだ?」
恵太はすぐさま頭を抱え震えている彼女のもとへと駆け寄りその肩を抱き、振り向かせる。
「電話。また電話がかかってきたの、今日も」
「透子の親か?」
「出てないからわからないわ。でもきっとそうよ」
彼女は静かな声でそう話ながら恵太にしがみつく。私の前で恵太に密着し始める彼女に強い苛立ちを覚えたが、それよりもなぜ私の親が恵太達に電話をかけてきたと断言されているのかが気になった。私の親が恵太達に一体どんな用があるというのだろうか?
「まだかけてくるのか。俺や君を責めたって透子は戻ってこないのにな」
恵太は顔をしかめ、忌々しげに言った。私の親に対しての憎悪さえ感じる恵太の様子。それに私が戻ってこないとは一体どういうことだろうか? 私には何がなんだかわからなかった。
「けど恵太や、特に私を責めたくなる気持ちはわかるわ。やっぱり私達の関係は許されるものなんかじゃなかったのよ。関係を持つべきじゃなかった。だって私はあの人からあなたを奪ってしまったのよ」
「そんなことはない。俺は君と出会えて愛せてこんなにも満ちあふれた気持ちになれた。人を愛することの本当の意味を知った。あいつと惰性的に結婚して一生を共にしたってそれは決して得られなかったに違いない。だから俺は君を愛したこと、選んだことを後悔しない」
恵太は彼女を――私以外の女を抱き締めた。
「私も恵太のことを愛してる。恵太と出会えて愛せて良かったと思っているわ。恵太と出会えなかったら私も人を本気で愛したりなんかできなかったはずよ」
白々しい。許されないことだったとか悔やんでいるかのように言いながら、ちゃっかり二人の世界を作り上げている癖に。私は彼女の言い分に腹が立った。それと共に恵太が口にした「惰性的」という言葉が心に刺さった。私が今までずっと大切にしてきた恵太と過ごした日々は彼にとっては全く価値がなかったんだろうか? 怒りと悲しみで私の胸は苦しくなった。
「でもね、私と恵太が一緒になった結果、あの人は死んでしまった。私達への恨み言を連ねた遺書を残して自殺してしまったのよ!」
彼女は顔を上げて叫んだ。彼女の大きな目からは涙が溢れ出していた。
「だから私達は、私は責め続けられている。今まで何十回も。これからもずっとずっときっと責め続けられる。お前が殺したんだ、返してって」
彼女は恵太の胸に縋りつきながら声を上げて泣き出した。私は彼女が何を言っているか理解が追いつかず、呆然とその様子を見ているだけだった。
彼女が言う「あの人」とは間違いなく私のことだ。でもそれなら私が死んだとは、しかも自殺したとは一体どういうことなのだろう? 透明人間化しているものの、私は今二人の目の前にいる。確かに存在している。勝手に殺さないで欲しい。
でも私の親も恵太達を責めている。何回もかかってきた電話は私の親からのものだったみたいだし、恵太もそれを否定しない。だからこの女の虚言でないと言えてしまう。
恵太達への恨み言を連ねた遺書を私が残した? そして自殺した? それが事実?
よくよく考えてみると、今日以前のことではっきり覚えているのは恵太と目の前の女が直談判しに来た三月のあの日であり、六月の今まで約三ヶ月も記憶が飛んでいる。恵太に裏切られてずっと引きこもって泣き続けた後、私はどうした? 胸がつっかえて息が苦しくなるが、私は思い出さなければならない。
悲しかった。苦しかった。疑問符ばかりが浮かんだ。憎かった。目の前が真っ暗になった。
ずっと恵太のことを想ってきた。恵太と結婚して一緒になる未来を思い描いてきた。恵太だけを私は愛してきた。なのに恵太はそうじゃなかった。恵太も私と同じ思いだと信じてきたのに違った。今まで二人で過ごしてきた時間、築いてきた関係、その全てが否定された。時間をかけて精密に作り上げたガラス細工が床に叩きつけられて一瞬で割れてしまうように、私と恵太の関係も崩れ去った。
恵太が浮気していたのをクリスマス・イブに目撃した時、ショックでどうしようもなかったけれど、それでも最終的には私の元へ帰ってきてくれると信じていた。でも恵太は私じゃなくて東京の女を選んだ。私はずっと恵太一筋だったのに。私が愛していたのは恵太だけだったのに。悪いことなんて何一つしていないのに。ただひたすら恵太が帰ってくるのを待っていたのに。
毎日午後十時からの通話と、メールだけで我慢してきた。私の一体何がいけなかったの? どうして見ず知らずの女なんかを恵太は選んだの? ずっと恵太の恋人で婚約者にまでなった私じゃなくて、まだ出会って多く見積もっても一年ぐらいしか経っていないであろう彼女を。なぜ私が捨てられなければならなかったのか。
私には恵太を繋ぎ止めるだけの魅力も価値もなかったと言われたみたいだった。私の存在なんかなかった、最初からいらなかった、自分そのものを否定された気がした。恵太にとって私と過ごした日々なんて無意味で無価値だったのだ。私なんかいてもいなくても変わらない。恵太に愛されない、捨てられた私なんかに存在する価値なんてないのだ。
その事実を突きつけてきた、そして恵太の愛を受ける彼女が憎かった。今まで二人で過ごしてきた時間をいとも簡単に捨てた恵太が憎かった。私の心を引き裂き、止まらない痛みに苛まれ続ける責め苦を与えた二人を恨んだ。恵太と彼女だけ幸せになるなんて、とてもじゃないが許せなかった。だからせめてもの意趣返しにと私は恨みつらみを全て紙に書き付けたのだ。悲しかったこと、苦しかったこと、憎くてたまらないこと。真っ暗で深海に沈んでいるかのように息苦しくて、重くのしかかってくる水圧に私は押し潰され、抜け出すことが最後までできなかった。
苦しくて苦しくて、視界はきちんと現実世界を描画していたもののなぜか真っ暗で、ドロドロと憎しみや悲しみが混ざり合って絶望化したそれに身体が満たされ支配されていた。何も考えられなかった。ただただこの状況から私は解放されたがっていた。だからグシャグシャに潰れて内臓が飛び出たりして見るに耐えない惨状になるとかそういう予想なんか度外視で、むしろそこまで考えが及ぶ前に私は近くのビルの屋上から地面目がけて頭から飛び降りたのだ。
そして私は死んだのだ。彼女が自殺したと言ったのはそういうわけなのだ。
「あいつがあんな遺書さえ残さなければ。あいつが自殺さえしなければここまで君を傷つけずに済んだのに。俺があいつとさえ付き合っていなければ……」
全てを思い出した私の耳に恵太の毒々しい、憎しみさえ感じる言葉が突き刺さった。しかも後悔さえ滲むそれは私に向けられたものだった。
「あいつさえいなければ……」
「それはさすがに言い過ぎよ。あの人は自殺してしまう程恵太のことを愛していたのよ」
「君は優しすぎる。あいつが俺のことを愛していた? ただの押しつけだろう、こんなのは。俺らに対して名指しで一方的に非難して自殺するなんてさ。俺はあいつと愛せないまま付き合い続けるなんて不誠実な真似はしたくなかったんだ。だからはっきりと君を連れて別れを告げにいった。なのにあいつは死んだ。いくら愛していようと振られたぐらいで死ぬなんておかしいだろう! 本当に俺を愛していたなら潔く諦めるべきだろう。当てつけのように遺書まで残して死にやがって。俺や君を、あいつの両親や知り合いの槍玉に上がるように仕向けるやがって」
忌々しげに恵太はさらに言った。その瞳には明確な憎悪が揺らめいていた。私に対しての。
私は恵太に憎まれている。いなければいいとはっきり言われた。私はただ恵太を愛していただけなのに、大人しく北海道で彼が帰ってくるのを待っていただけなのに、どうして彼にこんなにも憎まれなければならないんだろう。
深く、深く何かが私に刺さって抜けない。実際にはなんともないけど、そんな感覚が確かにする。恵太が吐く私への憎悪が私を深く抉る。ショックだった。大好きな人に向けられる負の感情は、他の誰のどんな罵詈雑言よりも私を傷つけた。
「全部あいつのせいだ。あいつのせいで君をこんなに傷つけている。あいつなんか最初からいなければ良かったのに。そうだったら君をこんなに泣かせずに済んだ。それか俺らがもっと早く出会えていれば!」
「私ももっと、あの人よりも早く恵太と出会いたかった。そうすれば私達は普通に、誰からも責められることもなく一緒になれたのに! こんな運命にした神様を呪いたいくらいよ!」
二人はギュッとお互いを強く抱き締め合った。まるでの悲劇のヒーローとヒロインのように。私は、この愛し合うお互いにとって最高のカップルである二人の邪魔をする悪役みたいだ。私が彼らにとっての邪魔者になっている。悪いことは何一つしてないのに、恵太が勝手に私を裏切って新しい女を作った癖に、どうして悪者扱いされなくちゃならないのか。理不尽だ。
私は泣きたくなった。けれど涙は出てこなかった。込み上げてさえこなかった。それはきっと私がただの透明人間じゃないからだ。誰からも姿が見えなくなっただけではなかったのだ。死んだのに今自我を持ち恵太の家までやって来た私は、透明人間というよりもどちらかというと足はあるが霊的なものに近いに違いない。だから誰も私の存在に気づかなかった。空港で発券機のタッチパネルが無反応だったのも、サラリーマンの肩を思い切り叩いても痛がる素振りすら見せなかったのは、そもそも私がそうしたと思っていただけであって、実際には触れてすらいなかったのだ。家から外へ出る時も、閉まったままの自動ドアを通る時も、恵太の家に入る時も私は一人だった。誰かが開けた後に一緒に入り込むのではなく、一人で通り抜けられた。妙にふわふわと身体が軽かったしそこまで意識していなかったから気づかなかったが、私にドアノブを握り扉を開けた記憶はなかった。恵太の家に勘で引き寄せられるように辿り着けたのも、きっと私の想いが強かったからだったのだ。
今の私が幽霊のようなものなのだったら、おそらく強く憎み殺意さえ抱けばきっと目の前で恵太と抱き合っている、私から最愛の人を奪った女だって殺せる。ポルターガイストのような現象を起こすのかとか具体的なことはわからない。しかし、強い憎しみさえあれば殺せる確信があった。でも……。
「ごめん。俺があいつと婚約までしていたばかりに、君をこんなにも傷つけている。けど俺は君を愛しているんだ」
「恵太が謝る必要なんてない。私は恵太が悪いとは思っていないわ。どれだけ私達の関係がいけないものだったとしても、私も恵太を愛しているわ」
その後、お互いの唇を重ね合わせる二人を見て私は思う。私が恵太を一番愛しているように、恵太も彼女のことを一番愛しているのだ。恵太の一番が私じゃなくて彼女なのが憎い。けれどだからって彼女を殺したりしたらきっと恵太は悲しむし、私をもっと恨むだろう。私だって恵太に何かあったら――怪我や病気をしたり、ましては死んでしまったりしたらなんて考えるだけで恐ろしいし、それが人為的なものだったらその首謀者を絶対に許さない。殺してやりたいほど憎むだろう。
恵太にとって大切で必要なのは彼女だった。私がどれだけ恵太のことを想ったってその事実は覆せない。むしろ私は恵太にとって邪魔な存在なのだ。いなければいいのだ。必要ないのだ。恵太に――最愛の人にいなければ良かったと言われた。私なんかいらないのだ。邪魔でしかないのだ。
事実、私は恵太の婚約者だったから、本当に愛し合う二人の邪魔を知らず知らずのうちにしていた。私が恵太のことをどんなに好いていても、愛していても、何年も付き合ってきたとしても、彼にとってはいつの間にか邪魔者になってしまっていたのだ。
自分という存在が崩れ去っていく音が聞こえた気がした。事実、私の身体は消え始めていた。さっきまで確かにあった足がなくなっていて、膝まで消え出していた。たぶん、私がいる意味がなくなってしまったからだろう。そして一度消えてしまえば、私という存在は今度こそ完全に死んでしまうに違いない。
消失し始めようとする身体を止めることはきっと可能だ。けれど恵太に――最愛の人に必要とされない私に存在する価値なんかない。
恵太が婚約者である私がいるにも関わらず浮気したのがいけないのに、私から最愛の人を奪ったそこの女がいけないのに、それでも二人にとって、そして恵太にとって邪魔で悪者なのは私なのだ。何も非はないのにいつの間にか私は、大好きな人にとって邪魔者でしかなくなっていたのだ。世界で一番愛している人に私は存在を否定されたのだ。それはとても理不尽なことだ。でもそれは紛れもない事実なのだ。
自分の胸辺りまで身体が消えていくのを感じながら、私は二人を見つめた。恵太と彼女、お互いをすごく愛し合っているカップルを。相手の肩をそれぞれ抱き、視線を絡ませキスし合う二人はこの上ないほどお似合いだった。物語だったらきっとこの二人を賛美するのだろう。許されざる愛を貫き通す、崇高で悲劇的なカップルだと。恵太の心が完全に離れた、彼のハートをしっかりと掴んでおけなかったみじめで残念な女は潔くさっさといなくなってしまえばいいのだ。恵太もそれを望んでいる。
恵太は彼女と幸せになる。私にとっての最愛の人は恵太だったけれど、恵太にとっての最愛の人は彼女だから。彼女と一緒になることこそが恵太の最大の幸福なのだろう。それが私じゃなかったのが悲しいし憎いけれど、私は恵太に心の底では笑っていて欲しい。恵太を愛しているからこそ、彼にこれ以上悲しい思いをさせたくはない。させるようなことをしちゃいけない。
だから私は消えるのだ。
END.




