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世界が変わる、

[月曜日 「一目で恋に落ちました」(変な奴に出会いました)]


 俺と彼女の出会いは唐突だった。

 廊下の曲がり角でぶつかったのだ。今日、苦手教科である数学のテストが終わって、俺は少しだけ高揚した気分でさっさと家に帰ろうとしていた。明日もテストがあるから、今日は部活が休みだ。

 あまり良い生徒でない俺は勉強のことなど頭になく、家に帰ったら何をして過ごそうか、なんて考えていて、これからの空き時間に思いをはせていたのが悪かったのか。

 前方不注意だった俺は、階段に差し掛かる手前の曲がり角で俯きながら走ってきた彼女とぶつかってしまったのだった。


「ご、ごめん。大丈夫か?」


 彼女は小柄だった。身長は俺の腰くらいまでしかなくて、思い切り彼女を突き飛ばしてしまう。

 慌てて腰を折り、尻餅を付いた彼女に手を差し伸べる。

 ベタベタなシチュエーションに周りにいる生徒たちが少しざわついた。

 しかし、彼女は苺のジャムが塗られた食パンの代わりに大量のプリントを持っていた。教室に持ってくるように先生に頼まれたか、何かの係・実行委員にでも入っているのだろう。

 そして、当然のように、俺とぶつかった時そのプリントは廊下に散乱してしまった。

 ぶつかったことに悪気は勿論無いし、彼女も腕の中のプリントに気を取られていたようだったから、前方不注意だったからといって俺だけ責められるのは可笑しい。だが、怪我でもされていたら寝覚めが悪いし、申し訳ないという気持ちは湧いてくる。よって、俺はプリントを拾うのを後回しにして彼女に手を差し伸べたのだ。


「あ、ご、ごめんなさい。私、前見てなくて……」


 俺の手を取り、立ち上がりながら彼女が謝る。童顔が申し訳なさそうな表情に染まった。ちょっとだけ、可愛い子だな、と思いながら俺は苦笑した。


「いや、こっちこそごめん。怪我してない?」

「は、はい、大丈夫です」

「そう、良かった」


 俺は本当にほっとして、自信なさげにへにゃりと笑った。

 テスト明けの日曜には大会があるのだ。今まで部活の仲間たちとその大会で優勝することを目指して一生懸命練習してきて、レギュラーにも入れたのに、彼女に怪我をさせた為にレギュラー落ちなんて笑い話にもならない。

 目の前の彼女を見ると、こちらを見つめてぽけっとしていた。気のせいか頬が赤い。

 まさか本当は怪我していたのかと、周囲の床に散らばるプリントのことも忘れて俺は焦る。


「やっぱり何処か痛いのかっ?」


 俺の顔がくしゃりと歪んだ時、彼女ははっとしたように激しく首を横に振った。


「い、いえ! 何処も痛くないです、すみません! ――あ、あのっ!」


 必死に否定する彼女を見て、良かった、怪我は本当に無いようだ――と安堵する暇も無いまま。


「貴方の、名前っ! 教えて下さい!」


 俺は少女の剣幕に押され、思わず答えた。


「……き、霧園優雅(きりぞの・ゆうが)、だけど」

「霧園、さん……! いえ、二年の廊下にいるってことは先輩ですよね! 私、一年F組の新條沙耶(しんじょう・さや)って言います! 霧園先輩、よろしくお願いします!」


 正直、彼女のペースに付いていけない。何をよろしくするのかも分からない。

 だが取り敢えず、よろしくされたのだから返事する必要はあるだろう。


「お、おぉ。よ、よろしく……?」


 思わず疑問形になったのは仕方ない。

 何だか輝いた瞳で顔を凝視され、俺は居心地悪く困惑した。


「……はい。何ベタな展開になってんの」


 と、そこで俺と彼女の間に声とプリントの束を差し入れたのは、俺のクラスメイトで部活仲間でもある悪友、小鳥遊(たかなし)だった。小鳥が遊ぶと書いて『たかなし』と読む。彼とはもう五年近い付き合いだが、中学に入学して隣の席になり、俺が真顔で『ことりあそび君』と呼んで面白がった小鳥遊はそれを訂正しなかった為、今も俺は癖で彼を『ことりあそび』と呼んでいる。因みに俺が小鳥遊の本当の読み方を知ったのは彼と初めて会ってから一週間後だった。


「こ、ことりあそび?」

「何? 僕、今日の午後優雅と遊ぼうと思って追って来たんだけど。というか、ほんと何、あんた等。少女漫画?」


 何、を連発する小鳥遊の言っている意味が分からない。この後コイツと遊ぶのもいいな、なんて考えながら俺は首を捻った。

 そこで、沙耶と名乗った少女が声を上げた。慌てて小鳥遊が持っていたプリントを受け取ると、深く頭を下げた。


「すみません、プリント拾ってくれたんですね。ありがとうございます」


 沙耶の長い髪がさらりと垂れる。それは少し茶色い。彼女に見つめられた時に気付いたことだが、睫毛も少し茶色かったので恐らく地毛なのだろう。


「どういたしまして」


 小鳥遊がそう言うと、沙耶は顔を上げた。


「そ、それじゃあ、すみません、私急いでいて……本当にありがとうございました! 霧園先輩、また明日!」


 沙耶は俺たちの横を通り過ぎると、足早に去っていった。

 また明日って何だ、と思いながら俺は身体を反転し、その背中を数秒眺める。何だか変な忙しない子だなぁ、というのが彼女の第一印象だった。

 肩から提げているエナメルバックを掛け直し、俺は横に立つ小鳥遊を見た。


「ことりあそび、遊び行くんだろ? 腹減ったからマック奢って」


 言いながら俺は歩き出す。しかし、悪友は何故か足を動かそうとはしなかった。

 それに焦れた俺は、歩みを止めて小鳥遊と向かい合う。彼は呆れたような視線を俺に向けていた。それに若干苛立って、俺は面倒臭そうな声を出す。


「もしかして奢りたくねぇの? 悪ィけど、俺、今日金持ってきてないし。つか、お前が遊び誘ったんだろうが」

「……お前、さぁ……」

「あ? 何だよ」

「……いや、何でもない。マック奢ってやるから、早く行くよ」


 小鳥遊は緩く首を振ると、何かを諦めたように歩き出した。俺は怪訝な顔をしながらも彼の後を追う。

 沙耶と俺の衝突事件にざわついていた生徒たちは何時の間にかいなくなっていた。皆、放課後は暇じゃないということなんだろう。まぁ、明日はテスト最終日だし当然か。午後からは部活も再開するし。今から遊びに行こうとしている俺と小鳥遊くらいしか、暇人はいないのかもしれない。

 ただ、暇である理由は、俺は勉強したくないからで、小鳥遊はテスト勉強なんかしなくても余裕で満点を取って先生を泣かせるような天才だから、という掛け離れたものだったが。


「俺ビッグマックね。あとポテトの(エル)

「ざっけんなよ、どんだけ食うんだポテト野郎。お前にはパンケーキがお似合いだよ」

「いや、あれ美味しいけど、量的に男子高校生の胃袋にはお似合いじゃねぇよ」


 小鳥遊びとそんな軽口を交わしながら、俺は学校を後にした。


 ――新條沙耶と出会ったことが悪夢だったと俺が思い知るのは、翌日の火曜日のことだった。




[火曜日 「私にも春が来たみたい」(俺には冬が来たようだ)]


 テスト最終日の朝、家の玄関を出るとそこには制服姿の新條沙耶。

 突然、大好きです、と告白された。俺は友達から始めよう、と言った。

 そして流れで学校まで一緒に登校して教室まで送られた。

 たった十分だけのテスト合間の休み時間、廊下には制服姿の新條沙耶。

 楽しそうに笑って話を振ってくる。

 昼休憩、購買には校内で一番人気のカツサンドを抱えた以下略。

 そのまま彼女とお昼を共にする。

 部活前、体育館の前にはスポーツドリンクを抱えた以下略。

 彼女はバスケ部の練習を眺める。

 帰宅時、当たり前のように俺を校門で待ち伏せる以下略。


「私たち恋人みたいですね」

「うっせぇな以下略。付いてくんな」

「これから制服デートしましょうか」

「話を聞け。そして腕を絡めるな」


 結局家まで送られた。

 何で俺の住所知ってんの? 何で俺がA組だって知ってんの? 何で俺が昼は購買派だってこと知ってんの? 何で俺がバスケ部だって知ってんの?

 俺の新條への認識は今日一日で三六〇度改められた。

 彼女は決して、忙しなくて変な子などではない。


 ――新條沙耶はストーカーだ。





[水曜日 「毎朝家までお出迎えを」(今日も奴がやって来る)]


「おはようございます、霧園先輩! 清々しい朝ですね!」


 やっぱり今日もいるのか。出来れば昨日限りにして欲しかったよ俺は。昨日よりも早い時間に家を出たっていうのに。

 確かに今日はカラリと晴れて良い天気だが、お前が玄関前にいるだけで俺の朝は清々しくはなんねぇよ。寧ろ鬱々としてるわボケ。

 ストーカーは俺の渋面にも気が付かないで笑い掛けてくる。


「霧園先輩、私昨日クッキー焼いたんです。食べますか?」


 黒い革製のスクールバックを漁る新條に、俺は眉を寄せた。

 溜息をつきながら、言う。


「テメェの手垢が付いたクッキーなんぞ誰が食えるか」


 ひゅっ、と新條の喉が鳴った。ぽかん、として彼女はこちらを見てくる。そして一瞬だけ、くしゃりと苦しそうに笑った。

 何で俺なんかを好きになったのかは知らないが、これで諦める、というより冷めるだろう。そう思って、俺はそれ以上彼女の顔を見ずに学校へ向かって歩き始めた。

 ――だが。


「あっ、待って下さい霧園先輩!」


 後ろから追いかけてくるのは、新條と、俺に言われたことなんて何でもないと言いた気なストーカーの声。

 すぐに、新條は早足で歩く俺の隣に並んだ。


「分かりました、先輩クッキーは苦手なんですねっ? 情報収集が至らなくてすみません」


 情報収集って、何ですか。


「次はケーキを焼いてきますね!」


 どうしてそうなる。そして、どうやったらそんなにポジティブに生きられるんですか。喜べ、そこだけは尊敬してやるよ。

 俺は片手で額を押さえた。今日から朝練が開始されるというのに、もう既に俺は疲れている。


「……ああ、忘れてた」

「え? 霧園先輩、何を忘れたんですか?」


 ――ストーカーって、しつこいんだっけ。





[木曜日 「早く消えてくれますか」(それは俺の台詞だ)]


 今日の放課後、ストーカーは体育館前にいなかった。では俺の教室まで迎えにきたのか、と言われればそれも違う。彼女は俺の前に姿を現さなかったのだ。

 掃除の時間、アイツと偶然会って、手をぶんぶん振られながら笑顔で「霧園先輩! 大好きです!」とか叫ばれたのに。


「何だよ、諦め早ぇな……」


 ま、清々したけど。口の中でそんな呟きを転がした俺は、自分の眉間に深い皺が出来ていることに気付けなかった。

 最近は、ここ――体育館前で新條からスポーツドリンクを渋々と受け取ったら、さっさと体育館内に入って部室へと行くのが習慣になっていた。バスケットとバレー、卓球の部室は体育館に併設されているのだ。

 新條がスポーツドリンクを用意してくれるから、俺は今日部活用の飲み物を持って来なかった。というのに、彼女はいない。つまり今日、俺はかなりの汗をかく部活中に水道水を飲むしかない。

 苛々しながら、体育館に入ろうとスニーカーを脱いだ。そして、それを横の棚にきちんと仕舞っていた時。

 奴は体育館へと走り込んで来た。

 荒い息をつき、俺の顔を見ると表情を輝かせる。


「あ、霧園先輩! 良かった、部活前に渡せて! はい、これ、遅れてすいませんでした」


 腰ほどまでの長い茶髪に、走ったせいで少し紅潮した童顔の可愛らしい顔。花が咲いたような笑顔を俺へと向けるソイツは、何度見ても俺のストーカーだった。

 俺はきょとんとして新條を見る。俺への恋はもう冷めたんじゃないのか?


「……お前、何で」


 差し出されたスポーツドリンクのペットボトルを条件反射で受け取ってしまいながら、俺は呟くように言った。


「え? あっ、もしかして遅れたことですか? すみません、ちょっと体育館裏に呼び出されてました」


 彼女は話しながら、困ったように笑う。


「えへへ、告白されちゃいました。同じクラスの田中君です。でも安心して下さいね、霧園先輩。先輩との部活前ラブラブタイムを邪魔されたんで、好きって言われてからゼロコンマ一秒で断りました。『ごめんなさい、早く消えて下さい』って」


 にっこりと笑う新條の笑顔に背筋がぞっとした。顔も知らない田中君、同情するぜ。

 なんて考えていたら、新條の肩越しに走り去っていく田中君が見えた。彼は、泣いていた。しかし俺は、彼の告白を蔑ろにした新條を責める気持ちにはなれなかった。


 ――ストーカーって、怖いな。





[金曜日 「はい、ラブレターです」(呪いの手紙の間違いだろ)]


『ごく普通のサラリーマンのお父さんと保険会社に勤めるお母さん、それに大学生の兄と中学生の弟がいる家庭で育ち、小学校三年でミニバスを始め、中学時代もバスケ部に所属し部長を務め、高校でも活躍する身長189センチ、体重60キロ、座高82センチ、胸囲――以下略――の霧園優雅先輩へ』


 朝練の後、そんな書き出しから始まる、ラブレターというよりももはや呪いの手紙にしか思えないブツをストーカー――いや、変態から渡された日。

 偶々、新條が田中君と楽しそうに話しているのを見かけた。

 昨日、あんな悲惨なことがあったっていうのに、凄いな。田中君には是非そのガッツで新條を俺から離して欲しい。

 俺は移動教室中だったので、二人から気付かれることもなく、勿論俺から新條に話しかけるなんて自殺行為なこともせず、その場を後にした。

 ――そして、今。

 何時もは必ず寝てしまう地理の授業。俺は、珍しく目が冴えていて、一秒も眠ることはなかった。


「何、どうしたの。寝ないの? 珍しいこともあるもんだね。飯島先生が涙目で感激してるよ。……もしかして生理? さっきから優雅、ちょっとおかしいよ」

「テメェぶっ殺すぞ」


 後ろの席から小声で話しかけてきた小鳥遊を睨み付ける。

 だが、小鳥遊の軽い言葉を何時ものように笑って受け流せなかった今の俺は、彼の言う通り何処かおかしいのかもしれなかった。


 ――因みに、呪いの手紙に書かれていたことに間違いは一切無かった。そして書き出しを見た時点で俺はそのブツを捨てた。





[土曜日 「今日も先輩が大好きです」(毎日毎日飽きない奴だ)]


 大会前の部活、最終日。

 俺は、今日だけは絶対に誰にも邪魔されたくなかった。

 だから、土曜だっていうのに飽きもせず俺の家に訪れる彼女に言ってやった。


「キモい。もう俺に近付くな」


 新條は、何時ものように明るく笑った。

 罵倒されて笑える新條の神経が俺は分からない。もしかしてマゾなのか? ストーカーで変態でマゾヒストだなんて救えない奴。

 そんなことを思っていると、新條はやはり全く堪えた様子がないまま、肩から下げたバックを開いた。


「えへへ、すみません。そうですよね、明日大事な大会ですもんね。――あ、私レモンの蜂蜜漬け作ってきたんです。要りますか?」

「……だから、お前の手作りなんて食いたくねぇって言ってんじゃん」

「あ、蜂蜜苦手なんですか? それともレモン?」

「……もういい。早く消えろ」


 俺は深い溜息をついて、新條の横を通り過ぎた。

 だが、背中に声が掛けられる。


「あ、霧園先輩! 部活にはお邪魔しませんから、すぐ帰りますから、学校まで一緒に――」

「今日俺、チャリだから」


 俺は新條の願いを一言でぶち切ると、庭の隅にある倉庫から自転車を取り出してサドルに跨った。登校時はいつも徒歩だが、休日の部活や遊びに行くときは毎回自転車を使う。

 俺はハンドルを握っていない方の手を制服のスラックスのポケットに突っ込み、自宅前の道路に出ると学校に向かって自転車を走らせた。

 昨日、いや一昨日から、彼女を見ているともやもやする。それは、付き纏われている苛々とはちょっと違った。

 今日の部活だけは、そんな訳の分からない感情に邪魔されたくない。

 俺は一度も後ろを振り返らなかった。


 ――だから、新條がこちらを見送りながら泣きそうな顔をしていることに気付けなかった。





[日曜日 「霧園先輩!」(……その名で呼ぶな)]


 結論から言う。

 俺の学校は、勝ち進んでAブロックで一位になった。今日は予選だったから、一月後の休日には本戦トーナメントが始まる。

 だが、俺個人に関して言えば、不調だった。

 傍から見て分かるような大きなものではなかった。シュートの際の手首のスナップに違和感があるだとか、いつもよりちょっとだけスティールの回数が少ないとか。

 だが、中学から付き合いのある悪友だけには気付かれてしまったらしい。


「今日、どうしたの? スランプ?」


 そんなことを言われたのは、学校へ向かう帰りのバスの中でだった。

 悪友――小鳥遊は、怪訝な顔をして隣に座る俺の顔を覗き込んでくる。


「あー、まぁ、そんな感じ。今日迷惑掛けてたらごめん」

「正直早くベンチに引っ込んでくれないかなって思ったよ、何か不調の優雅見てたらイラッとして」

「……ここはフォローしようぜ」

「本戦までには元の調子直しといてね」

「おう。元より強くなってやる」


 何だかんだで支えてくれる小鳥遊に向かい、俺は自信たっぷりに右手を握って見せた。

 それから、窓側に座っている俺はガラスを挟んで流れていく景色を見つめた。隣では小鳥遊が背凭れに背中を投げ出し、顔にタオルを乗せて眠りの体勢に入る。

 しばらくして、熟睡していた彼が起きた。もうすぐ学校に着こうかというところで、彼の携帯が鳴ったのだ。音で分かる。小鳥遊の彼女からの着信だった。

 俺は寝惚けている小鳥遊の代わりに携帯を彼のバックの中から取り出して、ジャージの袖で目元を擦る悪友の手に握らせた。


「お前の彼女からだろ、その着メロ」


 言うと、小鳥遊は目を見開いて覚醒した。慌てて電話に出る。


「もしもし。どうしたの、(りん)


 周りの部活仲間が騒いでいるので、小鳥遊の声はあまり響かない。

 通話中、事故だとか、救急車だとか、嫌なフレーズが飛び交う。半分ほど続いたそんな会話の中で、段々と彼の顔が血の気を失せていくのが分かった。


「……どうした? 何かあったのか」


 携帯を閉じた小鳥遊に問うと、彼はこちらに青い顔を向けた。


「……あのさ、凛――僕の彼女さ、新條沙耶ちゃんのクラスメイトで友達なんだって」

「……あのストーカーの?」


 何で今このタイミングで新條の名前が出てくるのか分からない。俺は眉を顰めた。


「大会お疲れ様、って俺たちに言う為に二人で学校向かってたんだって。でも、その途中で沙耶ちゃん事故ったって……」

「――は?」

「飲酒運転の車にもろ撥ねられたらしい。轢き逃げで、凛、混乱して警察と病院に電話入れてそんで今、僕に掛けてきて――優雅に、伝えて欲しいって」


 事故に遭った。誰が? ――アイツが。

 気付けば俺は必死の形相で小鳥遊に詰め寄っていた。


「新條は……? ――ッ、アイツは大丈夫なのか!?」

「き、気絶してるって」

「事故った場所は!」

「し、新緑公園の前!」


 俺は物凄い勢いで窓の方を振り向いた。

 視界の隅をよく部活帰りに行くコンビニが過った。

 ――今いるのは新緑公園のすぐ近くだ。

 そう思うと同時、俺は立ち上がって運転席へと叫んでいた。


「バス止めろ!!」


 俺の余りの剣幕に運転手は素直にバスを路肩へ止めた。訝しそうな顔をしながらも、顧問の先生も何も言わなかった。

 俺は扉を抉じ開けるようにしてバスから降りた。そのまま新緑公園へと駆け出す。後ろから小鳥遊が追って来たが、今の俺には彼を気に掛ける余裕など無かった。

 ――走り出して何分経ったろうか。

 公園の前に着いたとき、そこには警察がいた。三台ものパトカーが赤いランプを点灯させたまま公園の駐車場に停まっている。

 だが、新條もいないし小鳥遊の彼女もいない。荒い息をついて、俺は顔を上げた。遠くに救急車が見えた。二人はそれに乗っているのかもしれない。


「……あ」


 救急車が遠くの交差点で俺の視界から消えた後も、俺はその方向をじっと見つめていた。そんな時、ふと、公園の植え込みの下に白い紙箱が転がっているのを発見した。

 泥でよごれ、拉げたそれを、俺はゆっくりと開いていく。

 中には苺のショートケーキと一枚のカードがが入っていた。


『次はケーキを焼いてきますね!』


 水曜にアイツに言われた言葉を思い出す。

 その言葉を俺に強くぶつけるように、カードにはただ一言だけがあった。


『霧園先輩へ。大会お疲れ様でした』


 可愛らしい丸文字。すぐに新條のものだと分かった。

 箱の内側はクリームがこびりつき、苺が潰れていた。ぐちゃぐちゃになったケーキは、それでも明らかに市販のものだった。ケーキの周りを包んだ透明のフィルムが、俺にその事実を突き付ける。


「……手作りじゃねぇのかよ。嘘吐くな、焼いてくるっつった癖に」


 自分が手作りなんか食べられないと言った癖に虫がいい、と思いながら、俺はそう呟くのを止められなかった。

 やがて俺に追いついた小鳥遊と共に、俺は警察に聞いた新條の入院先の病院へと、再び駆け出した。

 病院へ着くまでに、もうかれこれ6キロは全力で走っているだろうが、俺には不思議と疲れが無かった。病院に着いたとき、俺の後ろに小鳥遊の姿は無かった。

 センサーが俺の存在を認識して自動ドアを開けるまでの一秒ほどを酷くもどかしく思った。俺はエントランスフロアに駆け込むと、奥のカウンターまで一直線に走った。

 夕刻だからだろうか、患者の数は少ない。俺の必死な表情を見たからだろうか、エントランスにいた彼らは走る俺を素早く避けてくれた。誰かの迷惑になるとか、そんなことは考えもしなかった。

 一番端のカウンターで自分の名前を言い、その後に新條の名を告げた。それから新條は学生かと聞かれたので「高校一年だ」と早口で伝えると、カウンターの中にいた女性はすぐに俺がさきほど救急車で運ばれてきた少女の関係者だと気付いたらしい。


「君は新條さんの……友達、かな?」


 女性はカウンターの中から出てきて訊いてくる。

 その問いに首を横に振り、俺がはっきりとした声で答えると、女性は人好きのする顔で優しげに微笑んだ。

 今、新條は手術中らしいとその女性から聞いた。そして俺を集中治療室(ICU)まで案内してくれる。ICUは地下にあった。彼女にその前の廊下にあるベンチに座るよう示された。毛布を持ってくるわ、そう言って女性は踵を返した。

 戻ってきた女性は幾ら何でも長時間自分の仕事をほったらかしにすることが出来ないのか、俺に毛布を渡して一言謝罪するとエントランスの方へ小走りに帰っていった。

 ベンチに座って太股に肘を付き、両手の指を絡める。祈るようなそんな姿で、俺は夜までそこにいた。数人の看護師やここまで案内してくれた受付カウンターの女性が俺に「もう遅いから帰った方が良い」と言ったが俺は頑として首を縦に振らなかった。

 二十一時になっても、新條の両親は来なかった。そのことを看護師に訊いてみたが、どうやら連絡が繋がらないらしい。もしかしたら新條の家庭事情は複雑なのかもしれない。

 ――俺は、新條のことを何も知らない。彼女は俺のことを何だって知っていたというのに。

 何度目か、そんなことを思ったときだった。

 ICUの扉の上――赤く光っていた『手術中』のランプが消えた。

 俺は思わず立ち上がって、扉を凝視した。そして、それはゆっくりと開かれる。隙間から、手術室の中の煌々とした光が漏れていき、俺は目を細めた。

 中から、薄い水色をした白衣を身に纏った壮齢の男性医師と、数人の若い医師が出てくる。

 若い医師たちは慌ただしげに俺を素通りして行ったが、壮齢の医師だけは俺に目を留め、目の前に立って微笑んだ。

 瞬間、俺はその笑みの意味を知る。


「成功だ。三ヵ月も掛からず彼女は退院出来るよ。退院した後は普通の生活を送れるだろう」


 少しだけしゃがれた、しかし穏やかな壮齢の医師の声に、俺は何時の間にか涙を零していた。

 それから二時間後、個室に移された新條は麻酔から目を覚ました。

 俺は真っ白なベッドに身体を投げ出す彼女の手を自分の手で包み、また泣きそうになりながら徐々に意識を回復していく新條を見つめた。

 新條が目を開けてからも俺は黙ったままだった。二分ほど経ったときだろうか、彼女はゆっくりと首を回してベッドの横の丸椅子に座る俺を見た。


「……霧園先輩?」


 今までは気付けなかった、透き通って美しい声が不思議そうに俺の名前を紡ぐ。だが、今、俺が呼んでほしいのはそれでは無かった。


「……その名で俺を呼ぶな」

「え?」

「――名前で、呼べ。優雅、って」


 新條の幼い顔が、ぽかん、とした。そして数秒後、俺が言ったことの意味を理解したのか、耳まで顔を真っ赤に染める。


「え、えぇっ? でも、先輩の迷惑じゃ……」

「アホ。今更迷惑とか抜かすな。――言っておくが、拒否権は無いぞ。数時間前、病院の受付さんに『俺は新條の恋人です』って言っちまったからな」


 ぼっ、という擬音が聞こえそうなほど、新條は更に赤面した。

 それから困惑した表情と声で訊いてくる。


「え、え、えっ? そ、それって、あの……」


 ちらちらと、こちらを窺うように目を向ける新條。どうやら元気そうだ。まだ麻酔の効果が切れていないのか、首から下は動かないままだったが。

 俺は、一瞬だけ自己嫌悪に下唇を噛んでしまってから、笑った。多分、今までの人生で一番優しい笑みを浮かべられたと思う。


「今まで、ごめん。――沙耶、好きだ。もしお前の気持ちがまだ俺から離れていないなら、俺と付き合ってくれないか」


 そこで、やっと――

 彼女はいつもよりも素敵な、最大級の笑顔を俺に見せてくれた。

 時計の長針と短針はどちらも、ちょうど零時を指していた。

 それから俺は、「それで何で私は病院にいるんですか?」と可愛らしく首を傾げながら訊いてきた沙耶にノックアウトされ、衝動的に彼女にキスしてしまった。まぁ、これはまた別の話だ。


 ――彼女は、俺の世界を変えた。たった、一週間で。

 登場人物は前書きに書けば良かったんじゃないかと今更思った。……すいません。

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