六、
お風呂から出てすぐ、当主の間へ向かった。
父が長を務める総勢七百五十人の名家一族の屋敷。本棟から少し離れた場所にその[当主の間]という部屋は存在する。
父と母が以前、私が産まれる前に使っていた場所。
「遅くなりました」
襖を開けると、父は勉強机に座って空を眺めていた。私に気づくと立ち上がり、床にある座布団に座るよう促した。
そっと腰を下ろすと、私と向かい合うように父様も座った。
「風邪ひいてない?」
私は首を振って、大丈夫と答える。そっかと父が呟き、「今朝も言ったけど、敬語使わなくていいよ?」と諭すように優しく言った。
意図して使っているわけじゃない。何となく無意識に、敬語になってしまうのだ。
ああ、でも。父様にはそれが、壁だと感じてしまうのかな?
「昔ね、娘が二人いたんだ」
唐突な父の言葉。
わけがわからず、私は首を傾げた。
なに、娘がいた?
聞き返したいのに驚きが半端ないせいか、声が出なかった。
「高校生の頃にね。あぁ、違う。血が繋がってるわけじゃなくて……あいつらが俺に父親を求めて、俺は本当の娘みたいに思ってた」
その言葉で、なんとなく理解した。
娘のような存在がいて、父様はその子たちに慕われていた。擬似親子関係を築くほどに、深い仲として。
「依樹と、あかつきって言うんだ」
いじゅと、あかつき。
父はわかりやすく、もう一度彼女らの名前を繰り返した。
「いつきって名前は漢字にするとこう書くんだけど」
そして机の上にあった紙を引っ張り出し、そこに名前を書いた。
『依月』
「依樹とあかつきは、こういう字」
次に、私の名前の下に二つ名前をつけたす。
『依樹』
『暁月』
「暁月は当て字だけどね、あいつたぶん漢字を知らない。あかつきってのもただの呼び名だったから」
ペンのキャップを締め、父が微笑んだ。
見たこともないくらい、優しい顔で。
「依樹と、あかつき」
その二人はどうしたの? 尋ねる手前で愚問だと気がついた。
初耳、今ここにいないということはそういうことなのだ。
「いつきが生まれた時、変な話だけどビックリしたんだ」
「ビックリ?」
「うん。本当に、娘が生まれたんだって。俺の娘だって。抱き上げるとすごく軽くて、小さくて……これが、いつきなんだって思った」
記憶を辿るように語ったあと、「嬉しかったんだよ」と微笑んだ。
「依樹はパパ様って言ってくれたし、あかつきは最後にお父さんって呼んでくれた。いつきはどうなんだろって楽しみに待ってたら、父様だもんな」
クスクスと、口元に手を当てて微笑む。
その姿が可愛くて。
あぁ、そうか……お母さんも昔よく、父様のこと可愛いって言ってたなと、そんなことを思い出した。
「お爺ちゃんが、父様だから」
「ん?」
「父様がお爺ちゃんのこと父様って呼んでたから、私の父様は、とうさま」
「……あー、そっか」
父は背筋を伸ばして納得したあと、もう一度嬉しそうに「そっか」と呟いた。
「おれ譲りなんだ? 父様って言葉は」
「譲りっていうか……」
「お母さんはもう一人のお爺ちゃんのこと、お父さんって呼んでただろ?」
「……うん。じゃあ、父様譲りだ」
「俺の娘だからな、いつきは」
ふわっと、大きな手のひらが私の頭に乗って、やがて髪をかき乱した。
優しく触れるように、次第に強く髪を乱すように。
「可愛いな、いつきは。生まれたときからずっと、今も可愛い」
泣きそうな声で言ったあと、父は私から手を離して座布団の上に座り直す。
「父子ってのは、どうも上手にバランスが取れないな。どこまで話していいか、わかんない」
困ったように笑う父を見て、私は自分の胸が熱くなるのを感じた。
だってずるいじゃないか、こんなの……
父様は、ずるい。
「父様が……話してくれなかったから」
「ん?」
「だって父様が、私と話してくれなかったから、だから……私も、父様と話せなかった」
「…………そっ、か」
黙って私の話を聞いていた父が、くしゃっと前髪に手を当ててため息をつく。
「そっか」
そして再度、大きなため息を吐いたあと、唇を噛んで私の方を向いた。
パチっとぶつかった目線を逸らさないまま、父が話を続ける。
「本当に不器用だな、俺は。言葉が足りないというか、自分の感情を表現するのが下手なんだ、たぶん。母さんにも、よく怒られてたよ」
「お母さん?」
「うん。広はもっと会話しないとダメだって。黙ってても、人は理解してくれないよって」
まるで今の俺だ、と笑った。
「うちはさ、お母さんがいたからこう……うまい具合に回ってたと思うんだ」
話をしながら、父は指で宙に円を描き「こう、くるくる」と可愛らしい表現をした。
その仕草がやはり可愛くて、母がこの人を好きだという気持ちを今になってようやく、理解した。
「だから俺も、安心して任せてた。二人が笑ってるのをずっと、見守っていきたいなって」
二人というのは言われずとも、お母さんと私のことだろう。
妻と娘、大切な家族。
「でもそろそろ、ちゃんと、二人でやっていかなきゃな?」
あれ、どこで聞いた言葉だろう?
二人で……
「ごめんな、いつき」
父が私の涙を拭った。
涙?
「うん……うんっ」
言われずとも、それは私の涙だった。
それを隠すように父が私を抱きしめた。
ぎゅーっと強く抱きしめる腕、筋肉で引き締まった胸から、確かな鼓動と温もりが伝わった。
「ありがとう、父様……ありがとうっ!」
泣きじゃくって、それでも言葉を紡ぎ出す私の耳元で、父がふっと笑った。
「このタイミングで感謝の言葉? いつきは人の話をワンテンポ遅れて理解する……お母さんそっくりだな」
その言葉がうれしくて、今度は声に出して泣いた。




