四、
神様がいるのなら、願いを叶えて欲しい。
一つだけ、どうしても望んでるものがあるんです。
お母さんが、死んだ日の朝に戻してください。
*
その日、初めての家出をした。
父と口論になった原因は覚えていない。ほんの些細な、本当にくだらないことだったと思う。
頭に血が上った私は感情に任せて家を飛び出した。
それが朝。
そして昼過ぎ、お腹が空いたというくだらない理由で屋敷に戻った。
「いつき! よかった、帰って来たのね!」
庭先にいた母が、飛びつくように私を抱きしめた。
雨が降っているにも関わらず私も母も傘を差していなくて、家臣の人が慌てて私たちに大きめの傘をかぶせた。
「心配した、心配した……」
震えている母の身体が、寒さのせいだけじゃないことはわかっていた。
その時はまだ、確かに、温もりがあった。
「……父様は?」
だけど素直になれず、無表情のまま淡々と尋ねた。
母は私を抱きしめたまま、「探してる」と答える。
「いつきを探しに行ってる。よかった……本当によかった。おかえり、いつき」
「え?」
「帰ってきてくれてよかった、おかえり」
ぎゅぅーっと私を握りしめる母のか細い腕。
華奢な身体を抱き返そうとしたその時、
「いつき!」
背後に、父の声が聞こえた。
怒られる……
咄嗟に母を突き飛ばし、屋敷の中へと逃げ込んだ。
父様、お母さん、家臣の人たち、たくさんの人が私を追って名前を呼んでくる。
全て無視して、自分の部屋に駆け込んだ。机の上に置いていたランドセルが目について、それを乱暴に肩に担ぐ。
「待て、いつき! どこ……学校行く、のか?」
庭に飛び出ると、怒鳴り気味だった父の声が呆けたものに変わった。
「え、今日って平日?」
「平日だけど……待って、いつき! 今日は行かなくても……」
「皆勤賞狙ってるから!」
適当な嘘を吐き、全力疾走のまま屋敷の門をくぐり抜けた。門番の家臣も、訳がわからずといった風で誰も私を止めなかった。
嘘は見抜かれていたと思う。
皆勤賞なんて狙えない。学校は嫌いだ、先週だって半分は休んだ。
「い、いってらっしゃい、いつき!」
それでも、母は優しい声で私を送り出してくれた。
「待ってるからね。今晩はいつきの大好きなものにするから、美味しいご飯作るからねっ!」
美味しいご飯なんかいらない。
そう言えばよかった。
買い物になんて言ってくれなくてよかった。
家臣の人に任せておけばよかったのに。
家に居てくれたら、待っていてくれるだけで。
それだけで。
父は責めた、母を殺した人を。
私は責めた、自分自身を。
なぜ母がその日、家にいたのか。
なぜ体調の悪い母を、買い物にいかせたのか。
なぜ誰もついていかなかったのか。
『いつきの大好きなものはお母さんが作る。買い物から全部、お母さんが一人でやるからね』
なぜ。
聞かなくてもその答えは全てわかった。
私のために母は、体調を崩していたにも関わらず無理して買い物にいって、父や家臣の人たちも母の意を尊重して一人で送り出した。
次に会った時の母からは、温度を感じとれなかった。
あの日、「ただいま」と言えなかった。ううん、違う。
そうじゃなくて。
ちゃんと話をすればよかった。
心配した母の腕を、私はいとも簡単に振り解いた。
言葉を無視して、逃げ出した。
逃げなかったら、今過ごしている未来は、ほんの少しでも変わっていただろうか?




