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三、



 朝目覚めるとやはり、世界は元に戻っていた。



 昨日と同じ今日。

 父と向かい合って黙々と朝食を片付け、「いってきます」と居間を出た。


「いってらっしゃい、いつき」


 背後から父の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。

 そんなことをしなくてもわかる。

 どうせ目は合わない。俯いて、新聞を読んでいるに決まっている。

 足早に廊下を駆け抜けて玄関の扉を開けた時、雨が降っていることに気がついた。

 傘、持ってこなきゃ。

 踵を返そうとしたとき、


「あのさ、いつき」


 真っ白な傘が頭上に広がった。


「俺に敬語、使わなくていいよ?」


 父が、私に傘を差し出していた。

 立ち竦んでいると、父は半ば無理やりに私に傘を押しつけてきた。


「気をつけて」


 それだけ言うと、父は踵を返して廊下を戻って行った。

 足音もなく、淡々と。

 ぼんやりとその背中を見つめていたが、はっと我に返って傘の柄を握りしめる。


「……わかん、ない」


 寡黙で表情を出さない父。

 母が死んでからは、私にさえ興味を示さなくなったように見えた。

 それなのに……

 傘を握りしめ、屋敷をあとにした。





 天気予報は「晴れ」と予言していたらしい。

 放課後、同じ制服を来た中学生たちがキャーキャー言いながら雨の中に飛び込んでいく。

 そんな中、私は白い傘を片手に下足場で立ちすくんでいた。

 私だけが傘を持っている。

 その状況がなんだかおかしくて、傘を差すことが申し訳なかった。


「いつき?」


 背後からの振り返ると、従弟の暁斗がいた。誕生日は二日しか違わないのに学年は私より一つ下、暁斗は中学二年生。

 その歳にしては背が高い方で、男女問わず人気があることは、本人以外には有名な話である。


「いつきも傘なくて困ってんの? 天気予報外れたな」


 苦笑いを浮かべる暁斗の眼前に傘を差し出すと、その表情が阿呆みたいなものに変わった。


「なんで傘持ってんの?」

「朝、雨降ってたから、父様が」

「朝? あぁ、屋敷の森は天候が不安定だからな」

「現金百円か、自販機限定の炭酸のジュース」

「金とんのかよ」


 ケラケラっと笑った暁斗が、私から傘を奪い取って広げた。

 とんっと、中棒を肩に乗せて私に振り返る。


「ジュース、今すぐがいい? それとも今度?」

「一日伸びるごとに利子が一本増えます」

「じゃあ明日、二本だな」


 目線だけで促され、私は傘の中に入り込んだ。

 これは、明日も一緒に帰る約束を取り付けられたことになるのだろう。

 人付き合いが苦手で友人と呼べる存在が皆無な私とは正反対、暁斗が誰からも好かれる人気者なのがよくわかる。

 見えないけれどきっと、暁斗の肩は片方だけ濡れているに違いない。


「なぁ、叔父さん元気?」


 不意に暁斗が話を始めた。

 私は正面を向いたまま、「なにが?」と返す。


「だから叔父さん……叔母さん亡くなってから、大変だったから」

「いつの話してんの?」

「だって叔父さん、まだ立ち直ってないだろ?」

「……父様だけじゃないけどね」


 暁斗が唇を結んだので、それ以上の会話は続かなかった。



 無言で歩き、いよいよお別れという時になって、暁斗が私の名前を呼んだ。


「いつき、さぁ」


 弱々しい声に、私は仕方なく振り返る。


「叔父さんとちゃんと話しろよ、今さらだけど」


 暁斗の家の玄関の前。

 私は傘を差したまま、暁斗を見上げた。


「聞こえない。寒いから、さっさと家の中入って」


 酷く不機嫌な声になってしまった自覚はある。

 だけど仕方ないでしょ、なんでこんな……


「叔父さんはちゃんと、いつきを好きだよ?」

「なに言ってんの。意味わかんないんだけど、ほんと」

「叔母さんのこと好き過ぎて変になってたけど。そろそろ、二人でやっていくべきだと思う」

「……馬鹿みたい。余計なお世話にも程がある」

「あ、待って。だから、叔父さんはいつきのこと、ちゃんと大好きだよ」


 最後まで聞いてられなかった。

 踵を返して歩き出す私に、暁斗が声を張り上げる。


「ありがとな、いつき!」


 傘のお礼だろうか。

 それなら明日、ジュースを奢ってくれればいい。

 お礼の言葉なんかいらない。

 堪らす駆け出す私の背中に再度、暁斗の声がぶつかった。


「ちゃんと家族で、二人で頑張れよ!」


 変なことを言わないでほしい。

 うちは三人家族だ。


 父と私と、母の……三人家族だった。


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