三、
朝目覚めるとやはり、世界は元に戻っていた。
昨日と同じ今日。
父と向かい合って黙々と朝食を片付け、「いってきます」と居間を出た。
「いってらっしゃい、いつき」
背後から父の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
そんなことをしなくてもわかる。
どうせ目は合わない。俯いて、新聞を読んでいるに決まっている。
足早に廊下を駆け抜けて玄関の扉を開けた時、雨が降っていることに気がついた。
傘、持ってこなきゃ。
踵を返そうとしたとき、
「あのさ、いつき」
真っ白な傘が頭上に広がった。
「俺に敬語、使わなくていいよ?」
父が、私に傘を差し出していた。
立ち竦んでいると、父は半ば無理やりに私に傘を押しつけてきた。
「気をつけて」
それだけ言うと、父は踵を返して廊下を戻って行った。
足音もなく、淡々と。
ぼんやりとその背中を見つめていたが、はっと我に返って傘の柄を握りしめる。
「……わかん、ない」
寡黙で表情を出さない父。
母が死んでからは、私にさえ興味を示さなくなったように見えた。
それなのに……
傘を握りしめ、屋敷をあとにした。
*
天気予報は「晴れ」と予言していたらしい。
放課後、同じ制服を来た中学生たちがキャーキャー言いながら雨の中に飛び込んでいく。
そんな中、私は白い傘を片手に下足場で立ちすくんでいた。
私だけが傘を持っている。
その状況がなんだかおかしくて、傘を差すことが申し訳なかった。
「いつき?」
背後からの振り返ると、従弟の暁斗がいた。誕生日は二日しか違わないのに学年は私より一つ下、暁斗は中学二年生。
その歳にしては背が高い方で、男女問わず人気があることは、本人以外には有名な話である。
「いつきも傘なくて困ってんの? 天気予報外れたな」
苦笑いを浮かべる暁斗の眼前に傘を差し出すと、その表情が阿呆みたいなものに変わった。
「なんで傘持ってんの?」
「朝、雨降ってたから、父様が」
「朝? あぁ、屋敷の森は天候が不安定だからな」
「現金百円か、自販機限定の炭酸のジュース」
「金とんのかよ」
ケラケラっと笑った暁斗が、私から傘を奪い取って広げた。
とんっと、中棒を肩に乗せて私に振り返る。
「ジュース、今すぐがいい? それとも今度?」
「一日伸びるごとに利子が一本増えます」
「じゃあ明日、二本だな」
目線だけで促され、私は傘の中に入り込んだ。
これは、明日も一緒に帰る約束を取り付けられたことになるのだろう。
人付き合いが苦手で友人と呼べる存在が皆無な私とは正反対、暁斗が誰からも好かれる人気者なのがよくわかる。
見えないけれどきっと、暁斗の肩は片方だけ濡れているに違いない。
「なぁ、叔父さん元気?」
不意に暁斗が話を始めた。
私は正面を向いたまま、「なにが?」と返す。
「だから叔父さん……叔母さん亡くなってから、大変だったから」
「いつの話してんの?」
「だって叔父さん、まだ立ち直ってないだろ?」
「……父様だけじゃないけどね」
暁斗が唇を結んだので、それ以上の会話は続かなかった。
無言で歩き、いよいよお別れという時になって、暁斗が私の名前を呼んだ。
「いつき、さぁ」
弱々しい声に、私は仕方なく振り返る。
「叔父さんとちゃんと話しろよ、今さらだけど」
暁斗の家の玄関の前。
私は傘を差したまま、暁斗を見上げた。
「聞こえない。寒いから、さっさと家の中入って」
酷く不機嫌な声になってしまった自覚はある。
だけど仕方ないでしょ、なんでこんな……
「叔父さんはちゃんと、いつきを好きだよ?」
「なに言ってんの。意味わかんないんだけど、ほんと」
「叔母さんのこと好き過ぎて変になってたけど。そろそろ、二人でやっていくべきだと思う」
「……馬鹿みたい。余計なお世話にも程がある」
「あ、待って。だから、叔父さんはいつきのこと、ちゃんと大好きだよ」
最後まで聞いてられなかった。
踵を返して歩き出す私に、暁斗が声を張り上げる。
「ありがとな、いつき!」
傘のお礼だろうか。
それなら明日、ジュースを奢ってくれればいい。
お礼の言葉なんかいらない。
堪らす駆け出す私の背中に再度、暁斗の声がぶつかった。
「ちゃんと家族で、二人で頑張れよ!」
変なことを言わないでほしい。
うちは三人家族だ。
父と私と、母の……三人家族だった。




