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魂の半分を亡くしたとさえ思うような、恋。

作者: 蒼キるり
掲載日:2026/03/07

 誰もが心地よく思うであろう爽やかな初夏の風が吹いた。

 けれど私はそれを良いものと思うことなどできなくて、逃げるように職員室棟に駆け込んだ。

 特に用があるわけでもなかったから、少し気まずい思いで俯き気味に歩く。ふと、見知らぬ人が廊下に立っているのを見つけた。

 うちの学校のジャージに一目ではそうとわからないほどたくさんの色の汚れをつけているその人は社会の松島先生と話していた。卒業生だろうか、学生時代のジャージを着る人はいると聞くし。

 絵を描いている人かしら、と会釈して通り過ぎようとしたその時、勢いよくその人が顔を上げた。

 不思議な人だった。赤に近い茶色の髪は左右で長さが違い、歪んだ切り方をしているのに妙にそれがしっくりくる。小さな目を見開いて私を見ていた。

 普通なら不愉快になるほど見られているのに嫌悪は何故かなかった。不意にその人の口が開かれた。吐息のような驚きの声が溢れて、ゆっくりと瞬きをされた。



「君、魂の半分どこに落としてきたの」



 そんな第三者が聞けば意味不明な言葉。だけどそれを聞いた瞬間、私は世界が一瞬止まったような錯覚に襲われた。

 この人の言葉の意味が私には、私だけには怖いほどわかって、思わず一歩下がってしまった。

 そしてそのまま無理やり視線を引き剥がし、振り返らずに駆ける。すれ違う教師に注意された気がするが、気にする余裕はなかった。

 もう一度あの人と目を合わせて、心の一番柔らかいところに触れられれば私は泣き崩れてしまう、そういう確信があったから。

 必死で表情を取り繕いながら教室に戻ったけど、特別親しい友人がいるわけではないから、みんな私の変化に気づくことはなかった。

 落ち着かない気分で授業を終え、愛想笑いでクラスメイトに挨拶をし、下駄箱から靴を取り出していたその時だった。

 さっきとはまた別の、私を否応なく動揺させる人が来た。向こうは一瞬気まずそうな表情をしたかと思うとすぐに取り繕って笑顔を見せてくる。その他人にするような仕草に私の胸は軋むように痛んだ。そういうこと全部必死に顔に出さないようにして「柳くん」とただの同級生みたいに呼びかける。



「えーと、柏木、さん。今、帰り?」



 なんて呼べばいいのかわからないといった風に呼ばれた名前に目を細める。気を遣わせて申し訳ないと思うけど、どうしたら気を遣わせずに済むのかもわからない。



「……柏木でいいのに」


「あ、ごめん。そう呼んでた?」


「ううん、そうじゃないけど……」



 けど、の先はなんで言えばいいのか私にもわからなくて、気まずい時間を埋めるみたいに髪を指先で弄ってしまう。あ、また気を遣わせている、と顔を見ていたらすぐにわかった。



「えっと、もしよかったら、一緒に帰る?」


「ごめんなさい。今日は友達と待ち合わせしてるから、またね」



 私の嘘に気づかず、あからさまにほっとしたのがよくわかった。あなたのそういう素直なところが好きだった。



「うん、また」



 軽く手を振って、変に思われない程度に顔を眺めてからその場を後にした。

 私が好きだった人と同じ顔なのに、私にだけ向ける微笑みを今も鮮明に覚えているのに、なんて遠いのだろう。私の髪を触れるのは私より彼の方がずっと多かったのに。

 もうあの優しい手が私に触れることはないのだろうか、なんてきっとかれこれ千回は思ってることを性懲りもなく思いながら家へと帰ろうとしたその時だった。



「あ、いたいた」



 軽やかな声と共に駆け寄ってくる人がいた。さっき廊下で私に向けて「魂を半分落とした」と評した人だと気づいて一瞬息を呑む。



「柏木、柏木朱音」



 私の名前を平然と呼んでいることにも驚く。けれど逃げる気にならなかったのはどうしてだろう。怖がったっていいはずなのに、どこかへ行ってしまおうという気にはならなくて、馬鹿正直に見つめ返してしまう。



「……あなた、どうして私の名前を知っているの」


「どうしてって、同級生だから」


「うそ」



 もしそうならいくらなんでも覚えているはずだ。私に友達が少ないといってもさすがに同級生の顔くらい……なんとなくは覚えている、多分。



「まあ同じクラスになったことないけどね。あ、そういえば、学校通ってた頃は髪染めてなかったな。真っ黒だったから、気づかなくても仕方ないよ」



 そうは言っても私だけ気づかなかったというのは居心地が悪い。そんな私の気持ちに気付いているのかいないのか、無邪気に言葉を投げかけてくる。



「ちょっと話せない? 君に興味があるんだ」


「興味?」


「だって、魂半分落っことしてる人なんて初めて見た。ていうか、普段そんなに他人の魂は見えないけど。とにかくレアだったから、話聞きたくて」



 だめ? と聞かれると、別に駄目ではないから頷いてしまった。どうせ放課後なんて前みたいに心が弾むイベントなんてひとつもない時間に成り果ててしまったのだから、別に話をするくらいなんてことない。



「いいわ、どこで話す?」



 私の問いに涼やかに笑ったその人は近くの公園に私を連れて行き、ベンチに座った途端に目を覗き込んできた。



「ねえ、どうして魂がそんなことになってるの」



 まるで本当に魂が見えているかのように言う。真っ直ぐに目を見つめられているのに、私ではなく私の奥底にあるものを見透かしているみたいだった。

 私はなんて答えようかと迷い、私の気持ちを詳らかに表す術など持ち合わせていないことを確認して、客観的に語ることにした。



「恋人が私のことを忘れたの」



 あの日の衝撃を今も鮮明に覚えている。恋人が交通事故に遭ったと知らされて病院に駆けつけ、「だれ?」と言われた瞬間、冷えていく身体と共に私は魂の片割れを失ったのだと知った。



「ううん、今のは語弊がある。私のことだけ、ではないわね。交通事故に遭って、高校生になった辺りからの記憶がぷつんと消えているらしいの。本人はまだ中学生の気分らしいわ。だから、高校生になって出会って付き合い出した私のことなんて、彼の中にはないのよ。ふふ、こんなことってあるのね」



 まるで物語みたい、なんて自分の声なのに他人事のよう。



「ほんと、物語みたいに喋るね、君」


「……この喋り方のせいで、同年代の子からあまり好かれないの。気取ってるって言われて。おばあさまのことが好きで、真似していたらこうなったの」


「気取ってたら悪いの?」


「ふふ、そうね」


「似合ってる」



 不意に苦しくなった。彼にも同じことを言われたから。彼は私を物語の中のお姫さまのように扱ってくれた。



「君の絵が描きたいな」


「なあに、それ。話したかっただけなんじゃないの?」


「うん、さっきまでそうだったけど、今、変わった。ねえ、うちに来てよ」



 颯爽と立ち上がったその人をぼんやり見つめ、私はバレリーナのように手を差し出して「いいわ」と作り笑顔もなしで言った。




 連れて行かれた家は広い割に人の気配がなく、床を踏むときしりと小さな音がした。

 長い廊下の正面に飾ってある絵を見て、背筋にぞくぞくとしたものが這い上がった。人の裸体を無秩序に繋ぎ合わせたようなその絵は、不思議とグロテスクには感じず、ただ人の魂を揺さぶる。



「あなたが描いたの?」



 うん、と当たり前に頷かれる。これだけの作品を描いておいて、なんて無頓着なのだろう。だからこんな格好で出歩けるのだろうか。

 私もあの作品のようになるのかしらとふらふら導かれるままに部屋に入り、制服の裾を摘んでみせた。



「脱いだりすればいい?」



 ゆっくりと目を見開かれ、子どもを諭すように言われる。



「……あのさ、リベンジポルノって知ってる?」


「え、そんなことするの? やめた方がいいと思うけど」


「いやしないけど」


「そもそも付き合ってないじゃない」


「ニュアンスとしての話。ほいほい脱ごうとしないで、危ないな」


「ほいほいそんなことしないわ……我ながら説得力に欠けるかもね。やっぱり投げやりになってるのかもしれないわ、魂が半分もないから」



 私の言葉には答えず、そこ座ってとソファーを指される。言われるがままに座るとあまりの柔さにゆるゆる力が抜けて、しなだれ掛かるようになってしまう。彼がいた頃、こんなふうに何度も寄りかかったものだ。



「今更だけど、顔隠して誰かわかんないように描こうか? これ、賞に出すかもしれないし。君の知り合いも見るかも。んー、角度を付けて隠せば、」


「……いい。そんなのつまらないもの」


「自分から言っておいてあれだけど、ほんと危ないな。まあうちに上がり込んでるのもそうだけど」


「もう私には、危ないことはよせって、止めてくれる大切な人がいないから」



 ふうん、とほとんど息でしかない返事。それがありがたかった。もう私のことを絵の材料としか見ていない声だったから。




 私を知っている誰が見てもその絵は私とわかるだろうけど、誰もがハッと後ずさってしまうような迫力がその絵にはあった。

 身体の半分は写真のように鮮明で、それなのにもう片方はのっぺりとしていて、少しひび割れてすらいる。そんな女が、まるで男に愛された後のような顔と仕草でソファーにしだれかかっている。服を一ミリも緩めていないのにこの有様だ。私があの時何を考えていたのか、絵描きのあの人にはお見通しだったらしい。



「魂が見える人だものね」



 賞を取ったこの絵は学校に飾られることになった。恥ずかしいとは不思議と思わなかった。どうでもいいのかも。だって私はこの絵の通りの人間だから。

 一歩下がって絵を見ようとした瞬間、人とぶつかってしまった。謝ろうとしてハッとした。彼がいて、泣いていたから。

 私は震えた。思い出したの? と問おうとして、違うと気づく。覚えている彼が私に気づかないはずがない。けれど彼は泣いていた。絵の私を見て。

 私は思わず顔を歪めた。初夏の風のように爽やかで心地よい彼をまだ完全には失っていないのだとしたら、想像しただけで割れた魂から滲み出るように泣いてしまった。

読んでくださってありがとうございます。

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