いい加減にして
背中に伝わるベッドの柔らかさと、目の前にあるレオの温度。 あまりに急な出来事に、心臓が跳ねる。倒れたキャンバスが床を叩く鈍い音だけが耳に残った。
レオの腕が私の両脇を固め、逃げ道を塞ぐ。 いつもの軽薄な笑みは消え、その瞳には、射抜くような鋭さと、それ以上に隠しきれない「怯え」が混ざり合っているように感じた。
「レイナちゃんもさ、俺が理事長の息子だって知ってて近づいてきたんでしょ」
低く、突き放すような声。 彼は私を黙らせようとしている。
「レオ、私は――」
「はいはい、わかったから。どうせお世辞だろ? そんなに頑張ってご機嫌取りしなくていいよ」
レオは鼻で笑い、私の頬を指先でなぞった。こうして距離を詰め、空気を変えてしまえば、私が怯えて追求をやめると思っているのだ。 これまでの女の子たちも、きっとこうやって翻弄し、うやむやにして逃げてきたのだろう。
「大丈夫、肩書き目当てで来られるの、慣れてるから。レイナちゃんも、お望み通り【理事長の息子の彼女】にしてあげるよ。今日は、このまま俺と寝ていく?」
レオの指先は微かに震えている。きっと、彼は怖いのだ。私の言葉を信じて、後からそれが「お世辞」だったと知るのが。 期待して、また裏切られ、父親に否定された時のような絶望を味わうくらいなら、最初から何も信じない方がマシだと、そう叫んでいるように見えた。
自分の最高傑作を、汚いもののように「黒歴史」と呼び、自分自身で傷つけて。 そうやって予防線を張る彼の姿が、あまりにも悲しくて、それ以上に……腹立たしかった。
「……いい加減にして」
レオがゆっくりと顔を近づけてきたところで、私は彼の胸を強く押し返した。 驚きに目を見開くレオを睨みつけ、私は精一杯の声を絞り出す。
「あなたがそうやって自分の絵を茶化して、向き合おうとしてくれる人の気持ちを無下にするのは、自分を守るためかもしれない。でもね、レオ。今のあなたは、過去のレオ自身も、レオの絵を本気で好きだと思った私の気持ちも踏みにじってる…あなたは、昔お父さんにされたことを繰り返してるんだよ!」
「……っ」
レオの表情が、凍りついたように固まる。
「今までだって、あなたのことを本気で考えて、向き合おうとしてくれた人がいたはず。それなのに、傷つくのが怖いからって、そうやってふざけて、相手の気持ちを決めつけて……。自分だけじゃなく、周りの人の誠実さまで馬鹿にするのは、もうやめて」
ここに来る途中ですれ違った女子生徒の言葉を思い出す。
『私は応援するもん! レオは私の居場所作ってくれた恩人だから、本命見つけて幸せになれそうなら応援すべき!』
肩書き目当てでレオに近づくような人間から、あの言葉が出るとは到底思えない。しかも、レオがいない場では尚更。
彼女はきっと、心からレオ個人を大事に想い、自分から離れようとしていても幸せを願っているのだろう。純粋な優しさと愛情を当たり前に享受しながら、それを無下にする彼を心底憎らしいと感じた。
沈黙が部屋を支配する。 レオは瞳を揺らしながら、何も言わずに私を見つめていた。その瞳には、今度こそ逃げ場を失った、剥き出しの彼自身が映っていた。
「…帰ります。 レオの描いた絵、本当に素敵だった。ありがとうございました」
床に投げ出された抽象画を一瞥する。 形も、名前もない。でも、そこにはレオという人間の魂が、叫びが、確かに刻まれている。
これ以上彼との会話を続けたら、感情的になって酷い言葉を言ってしまいそうな気がして、私は逃げるようにその場を後にした。




