第八話「混乱と逃走」
《クトゥグァ》の顕現――
それは形ある存在とは言い難かった。
灼熱と光が絡み合い、醜くうねる巨大な炎の塊。
観衆は凍りつき、数百の沈黙が場を支配した。
炎が不意に――表面におぞましい髑髏を浮かべると――
狂気めいた絶叫が渦を巻き、場は一瞬で阿鼻叫喚に変わった。
九重は意に介さず、神格に問いかける。
「Cur deus huius terrae factus es, et cur homines potestatem ignis habent」
≪なぜ貴様はこの地の神となり、なぜ人は火の力を持つのか≫
問いは虚空に吸い込まれた。
《クトゥグァ》は答えを拒む。
そして――嘘のように――スッと姿を消した。
残されたのは、焦げつく熱と耳鳴りのような残響。
九重は静かに肩を落とす。
「信じられん……数億年前から続く無関心さは今も健在なのか? 神というのは、つくづく扱いにくいな」
ジゼルが怒声を叩きつけた。
鋭い叫びが、観衆の混乱をさらに震わせる。
「ふざけるな! 何が神だ! 貴様ごときが! あんな化け物が! ――違う! そうであってたまるか!」
憎悪に突き動かされるまま、ついに剣を抜き、九重へと斬りかかる。
「教授様!」
レーナが叫び、拳を地面に叩きつけた。
ジゼルの足元から猛火が噴き上がり、その進路を阻む。
「ここから逃げましょう! 早く!」
「それは拒否する」
「――え?」
「調査すべきことが山積しているこの状況で、どこへ行くのかね。神秘の真相を得るため、この国の成り立ちから現代までを系統別に――ごぅ!」
九重の腹に鋭い衝撃が走る。
レーナの拳が、鳩尾を正確に打ち抜いていた。
細く小さな少年の身体。
格闘訓練を積んだ彼女の一撃に耐えられるはずもない。
九重は意識を失い、崩れ落ちた。
「お許しください、教授様……」
レーナは九重を抱き寄せ、落ちた《アル・アジフ》へと手を伸ばす。
その瞬間――形容しがたい悪意が全身を貫いた。
呪詛。怨嗟。無貌の知性が発する、圧倒的な敵意。
「ッ……!?」
レーナは恐怖に顔を引きつらせ、《アル・アジフ》を残したまま。
九重を抱き上げ、駆け出した。
逃げねば――
この国から、この狂気から。
*
混乱極まる中――
ひとりの司祭が、ゆっくりと《アル・アジフ》に歩み寄る。
そして迷いなく拾い上げると――
淡く光る紫の瞳で表紙をじっと見つめ、静かに微笑んだ。
▼次回「異例の裁定」
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