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第1章8話:顧問・佐々木梓

新入生歓迎の部活動紹介が終わり、体育館の熱気が少しずつ冷めていく中、吹奏楽部の顧問、佐々木梓(ささき あずさ)は、職員室に戻ると、新入部員たちが提出したばかりの入部 届の束を手に取った。


三十代半ばの梓は、常に生徒たちに寄り添う温かさと、音楽に対する揺るぎない情熱を併せ持つ女性だ。

この安中榛名の地で音楽教師として、そして吹奏楽部の顧問として日々を過ごしている。

長年、この学校の吹奏楽部を指導してきた彼女にとって、新入生の顔ぶれは、これからの部の未来を占う上で最も重要な要素だった。


「ふむふむ......今年もたくさん入ってくれたわね」


梓は一枚一枚、入部届に丁寧に目を通していく。期待に満ちた新入生たちの名前と、それぞれが希望するパートが並んでいる。新年度のスタートは、いつも希望に満ちている。


その日の職員室は、入学式の後片付けと新年度の準備で、普段よりも活気に満ちていた。

隣の席のベテラン教師、田中先生が「佐々木先生、今年も吹奏楽部は大盛況だったみたいだ

な」と、いつものように穏やかな口調で声をかけてきた。


田中先生は、梓が高校生の頃からこの学校にいる、物静かな社会科の教師だ。長くこの地で教鞭をとる彼は、学校の歴史や地域のことにとても詳しい。


「はい、おかげさまで。今年も個性豊かな子たちがたくさん入ってくれましたよ」


梓は笑顔で答えた。紙束をめくる梓の指先には、喜びと期待がこもっていた。


「ああ、そういえば、榛名中の高峰さん、吹奏楽やるって言ってた子、入ったのか?」


田中先生が尋ねる。梓が以前から注目していた生徒の動向を、田中先生も気にかけてくれていたようだ。


「ええ、もちろん!高峰春菜ちゃん、入ってくれましたよ。希望パートはトランペットです。中学の時、一度演奏を聴かせてもらったんですけど、本当に素晴らしい才能を持ってるんです。音に力があって、何よりも音楽に対するひたむきな情熱が感じられる。中学最後のコンクールで悔しい思いをしたと聞いていたので、高校でまた楽器を手に取ってくれるか、心配していたんです。だから、彼女の名前を見つけた時は、本当に安堵しました。これで、トランペットパートも安泰です!」


梓は興奮気味に語った。春菜の入部は、部の戦力強化において非常に大きい。彼女の存在は、きっと部全体の士気を高めるだろうと確信していた。


「それはよかったな。佐々木先生の熱意が通じたんだな」


田中先生は相好を崩し、優しく 微笑んだ。


「吹奏楽部も、これでまた強くなるだろう」


「そうですね。それに、音羽杏菜(おとわ あんな)ちゃんという子も、クラリネット希望で 入ってくれました。安中中学校出身で、中学には吹奏楽部がないのですが、吹奏楽への憧れ がすごく強くて。目を見れば、どれほど音楽をやりたいか、一目瞭然なんです」


梓は続けて杏菜のことも話した。経験はないものの、その瞳の輝きと、音楽への純粋な好 奇心が、梓には眩しく見えた。ああいう真っ直ぐな生徒は、部の雰囲気を明るくしてくれる。 技術的な面では時間がかかるかもしれないが、その情熱は部に欠かせないものになるだろう。


「へえ、安中中からか。それは面白いな。吹奏楽部がなかったのに、ここを選んでくれるとはな」


田中先生が興味を示した。

梓は満足げに頷き、次の入部届に目を移した。そして、その次の瞬間に、彼女の表情は驚きに固まることになる。


「鳴瀬友理......?」


梓は思わず、その名前を声に出して呟いた。希望パートはホルン。そして、その横に書か れた「全国大会出場経験あり」の文字。それだけでも十分すぎるほど驚くべきことだったが、 さらに目を引いたのは、保護者名の欄に記された「鳴瀬啓介」という名前に、梓の瞳が大き く見開かれた。彼女の手が、微かに震え始めた。


その様子を見た田中先生が、「どうした、佐々木先生。何かあったか?急に顔色が悪くなっ たぞ」と心配そうな顔で尋ねる。


梓は、手が震えるのを抑えながら、もう一度、入部届の「鳴瀬友理」という名前と、その 保護者名を凝視した。頭の中を、いくつもの記憶が、まるで洪水のように駆け巡る。それは、 梓が誰にも語ることなく、心の奥底に封じ込めていた、遠い昔の記憶だった。


「いえ......まさか......そんなはずは......」


梓の手から、入部届がはらりと落ちた。床に散らばった名簿が、彼女の動揺を物語っている。彼女の脳裏に、遠い昔の記憶が鮮明に蘇る。

それは、梓が高校時代を過ごした、榛名高校での出来事。そして、吹奏楽部でホルンを吹いていた、一人の男子生徒の姿だった。彼の音は、常に梓の心に深く刻まれていた。


「啓介くん......?」


梓の顔から、血の気が引いていく。それは、彼女が高校時代に経験した、忘れられない出来事と深く関わる名前だった。そして、その出来事が、彼女の人生、そして榛名高校吹奏楽部の歴史に、大きな影響を与えていたのだ。


田中先生が、拾い上げた入部届の保護者名を見て言う。


「鳴瀬......ああ、確か昔、榛名高校の音楽の先生に鳴瀬先生がいたな。そのお孫さんか何かか?」と、何気なく呟いた。


梓は、田中先生の言葉に、ゆっくりと顔を上げた。


「田中先生......鳴瀬先生には、一人息子さんがいらっしゃったのはご存知ですか?」


梓の声は、かすかに震えていた。その震えは、過去の記憶が現在に引きずり出されることへの動揺と、そしてその息子が今、ここに現れたことへの信じられない思いから来ていた。


田中先生は首を傾げた。


「息子さん?ああ、そういえば、昔、榛名高校が初めて関東大会に出た時の、あの天才ホルン奏者が、鳴瀬先生の息子さんだったと聞いたことがあるな。当時、音楽教師を目指していた佐々木先生も、彼の演奏を聴いて随分刺激を受けたと、当時の校長先生が話していた記憶がある。その後、東京の音大に進学して、プロの演奏家を目指すと聞いたが......それが、この子の父親なのか?」


田中先生の言葉は、梓の頭の中で散らばっていたピースを一つに繋ぎ合わせた。間違いない。全てが符合する。あの鳴瀬啓介だ。彼の娘が、今、自分の目の前の入部届に名前を連ねている。そして、あの時の出来事が、再び現実のものとなろうとしている。


「はい......多分、その啓介さんだと思います」


梓は、絞り出すように答えた。彼女の声は、まるで遠い過去から響いているかのようだった。


田中先生は、梓の尋常ではない様子に気づき、「佐々木先生、何かあったのか?無理はするなよ」と心配そうな顔で問いかけた。


梓は、ただ首を横に振った。この感情を、田中先生にどう説明すればいいのか、わからなかった。胸の奥に封じ込めていた過去の記憶が、一気に押し寄せてくる。それは、喜びでもなく、悲しみでもない、ただひたすらに、衝撃的な再会だった。


友理の入部は、単なる新入部員の加入ではなかった。


それは、過去と現在を繋ぎ、この吹 奏楽部の未来を大きく揺るがす、予期せぬ再会となる予感を、梓は感じ取っていた。そして、 この新しい出会いが、彼女自身の過去と、どのように向き合わせることになるのか、梓には まだ想像もつかなかった。


ただ一つ確かなのは、今年の吹奏楽部は、これまでとは全く違う、 予測不可能な一年になるだろうということだけだった。

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