第1章7話:三人の音
入学式の翌日。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、音羽杏菜、高峰春菜、そして鳴瀬友理の三人は、それぞれの胸に期待と、わずかな緊張を抱えながら、安中榛名高校の吹奏楽部の部室へと向かっていた。
新しくなった制服のスカートが風にひらめく。春菜は自前のトランペット、友理は父親から譲られたホルンを抱えている。
部室の扉を開けると、そこはすでに熱気に包まれていた。様々な楽器の音が調整のために鳴り響いている。クラリネットが指慣らしのフレーズを奏でる甘い音、トランペットが空気を震わせる鋭くも華やかな響き、そしてホルンが温かく、深く響き渡る音色。
その混沌としながらも、どこか心地よい音の渦に、杏菜は少し圧倒されながらも、胸の高鳴りを覚えた。
彼女の心臓は、まるでクラリネットのキーがカタカタと鳴るように、静かに、しかし確実にリズムを刻んでいた。
「ようこそ、吹奏楽部へ!」
入部届を提出した新入生たちを、部長らしき三年生の男子生徒が、満面の笑みで迎えてく れた。
彼はトランペットを肩から下げており、その姿は堂々としていて、部の中心人物であ ることが一目で分かった。彼の背中には、「大橋拓真」(おおはしたくま)という名札が縫い 付けられている。
「いよいよ、君たちも正式にこの安中榛名高校吹奏楽部の一員だ。まずは各自、希望パートの先輩のところへ行って、挨拶をしてくれ!そして、基礎練習から始めていこう!」
拓真部長の言葉に促され、新入生たちはそれぞれの楽器のグループへと散らばっていく。その中には入部届の時に杏奈と榛名をからかった2人の男子学生の姿も。
1人目は安中中学校出身パーカッション希望、後藤謙一郎。2人目 は榛名中学校出身アルトサックス希望の安原亨である。亨は中学校で吹 奏楽をやっていて、塾の友達の謙一郎を誘って入部したのである。
杏菜はクラリネットの先輩たちの元へ、春菜はトランペットの先輩たちの元へ、そして友理はホルンの先輩たちの元へと足を進めた。
杏菜は、初めて触るクラリネットの感触に戸惑いながらも、先輩に教えられた通りにリードを湿らせ、息を吹き込んでみる。 最初は「プーッ」という情けない音しか出なかったが、先輩の丁寧な指導を受け、何度か試すうちに、やっと「ピー」と細くても確かな音が出た。憧れの音が、今、自分の手から生まれたのだ。
しかし、隣を見れば、同じ新入生の高峰春菜は、すでに先輩たちと楽しそうに会話しながら、手慣れた様子でトランペットを構えている。流れるような指の動き、まっすぐ伸びる音色。
中学で吹奏楽部がなかった杏菜にとって、春菜の姿はまぶしいほどだった。
安中中学校出身である自分が、この中でちゃんとやっていけるだろうかという不安が、ふと頭をよぎった。
最初は「プーッ」という情けない音しか出なかったが、先輩の丁寧な指導を受け、何度か 試すうちに、やっと「ピー」と細くても確かな音が出た。
その瞬間の感動は忘れられない。
しかし、隣を見れば、同じ新入生の高峰春菜は、すでに先輩たちと楽しそうに会話しながら、 手慣れた様子でトランペットを構えている。流れるような指の動き、まっすぐ伸びる音色。 中学で吹奏楽部がなかった杏菜にとって、春菜の姿はまぶしいほどだった。
安中中学校出身 である自分が、この中でちゃんとやっていけるだろうかという不安が、ふと頭をよぎった。
一方、ホルンパートのスペースでは、鳴瀬友理が先輩たちと話していた。彼女たちの表情は、友理の言葉を聞くにつれて、驚きと尊敬の入り混じったものに変わっていく。
「え、全国大会に!?」
「まじで!?すごい!東京の学校ってやっぱり違うんだ!」
「どうして、安中榛名に来てくれたんですか!?」
そんな興奮した声が聞こえてくる。友理が東京の強豪校出身で、全国大会に出場経験があることを、彼女自身が話したのだろう。友理のホルンの腕前が、どれほどのものなのか。
春菜もちらりと友理の方を見て、その桁違いの実力への期待に胸を膨らませていた。
中学時代、銀賞で終わった悔しさを晴らすためにも、友理のような存在は心強い。
杏菜もまた、その話を聞きながら、友理の音を早く聞いてみたいという好奇心を募らせていた。
やがて、パートごとの自己紹介や簡単な説明が終わり、新入生たちは少しずつ緊張が解けてきた。
その日の練習は、主に基礎練習と、パートに分かれての音出しが中心だった。
それぞれのパートから、音階練習やロングトーンの音が響き渡る。
ホルンパートからは、友理のホルンの音が他の部員たちとは明らかに異なる、深みのある豊かな響きを放っていた。その音は、部室の隅々にまで浸透し、杏菜の耳にも心地よく響いてきた。
休憩時間になり、杏菜は春菜と友理の元へと歩み寄った。三人は初めての部活で感じたことや、それぞれのパートの雰囲気を話し始めた。
「友理ちゃん、すごいね!全国大会だなんて!私、初めてそんなすごい人に出会ったよ!」
杏菜は素直な憧れの言葉を口にした。
「うん、でも、中学の吹奏楽部はちょっと......堅苦しかったんだ」
友理は少しだけ表情を曇らせた。
「勝ちにこだわりすぎて、音楽を楽しむってよりは、正確さが全てって感じで。だから、安中榛名高校の演奏を聴いた時、ちょっと驚いたんだ。なんていうか、すごく生き生きしてるなって。それが、私がこの部を選んだ理由かな」
友理の言葉に、春菜は大きく頷いた。
「わかる!私も中学の最後、コンクールで銀賞だったんだけど、それから部の中がギクシャクして......。もう二度とあんな思いはしたくないって思ったんだ。だから、ここの吹奏楽部の音が、すごく心に響いたの。もう一度、心から音楽をしたいって」
春菜の率直な言葉に、杏菜も強く共感した。
「私の中学には吹奏楽部がなくて、ずっと楽器を吹くことに憧れてたんだ。だから、ここでみんなと一緒にできるのが、本当に嬉しい。まだ全然だけど、これから頑張って、みんなみたいに吹けるようになりたいな」
三人の視線が交錯する。それぞれが異なる過去を持ち、異なる理由でこの場所へやってきた。
一人は憧れを胸に、一人は過去の挫折を乗り越えるために、そしてもう一人は、失われた音楽の喜びを取り戻すために。それぞれの動機は違えど、皆がこの安中榛名高校の吹奏楽部で、新しい自分と、新しい音楽に出会いたいと願っている。
「ねぇ、私たち、なんだか気が合うね」
友理がふわりと笑った。その笑顔は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。
「うん、そうだね!なんだか、運命みたいだね」
杏菜も、友理の言葉に心が温かくなるのを感じた。不安だった気持ちが、少しだけ和らいでいく。
「これから、きっと最高の仲間になれるよ!一緒に頑張ろうね!」
春菜が力強く言った。
彼女の瞳には、希望の光が宿っている。
その日の練習を終え、帰り道。杏菜はふと、母の音羽美佐子から聞いた言葉を思い出した。 友理の父親もホルン奏者で、母とは「少し因縁がある」と。春菜もまた、母の期待を背負い ながら、新たな決意を固めていたはずだ。
まるで、親世代の未練や情熱、そして過去の因縁が、自分たち子どもたちに受け継がれているかのようだ。
この安中榛名の地で、それぞれが抱える過去と未来が、今、三人の音として重なり合おうとしていた。それは、単なる新しい部活動の始まりではない。歴史が動き出し、新たな物語が紡がれていく予感に満ちた、特別な一日だった。




