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第1章5話:友理と父、啓介

安中榛名高校の入学式を終え、新しく加わった吹奏楽部への期待を胸に、友理は足取りも 軽く家路についた。


新しい住まいは、新幹線が止まる安中榛名駅から車で 5 分ほどの場所に ある、広々としたベッドタウンの一角。

中古ではあったが、手入れが行き届き、築年数の割 には非常に程度の良い一戸建ての住宅だ。


玄関を開けると、リビングからは、いつも聞いて いる父のパソコンのキーボードを叩く規則的な音が聞こえてくる。父、鳴瀬啓介(なるせ け いすけ)は、都心の IT 企業に勤めるエンジニアで、家でも仕事をしていることが多い。母は 専業主婦として、家で家族を温かく見守ってくれている。


「ただいま」


リビングに入ると、父はパソコンの画面から目を離さずに、片手を上げて応えた。いつもの光景だ。

友理は少しだけ声を弾ませて、今日一日の出来事を報告した。


「お父さん、私、吹奏楽部に入部したよ!」


友理の言葉に、父の指がキーボードの上でぴたりと止まった。ゆっくりと顔を上げた彼の表情は、一瞬、複雑なものに変わったように見えた。それは、驚きと、そしてどこか諦めにも似た色を含んでいた。


「......吹奏楽部に?お前、中学卒業する時、もう吹部はいいって言ってなかったか?」


父の声には、かすかな戸惑いが混じっていた。

無理もない。中学の吹奏楽部は、全国大会常連の強豪校だった。練習は厳しく、勝ちにこだわるあまり、音楽がまるで義務のようになっていた。

友理自身、その「無機質な音」に嫌気がさし、中学の最後のコンクールを終えた時、父に「もう楽器はいい」と漏らしてしまっていたからだ。

あの時、父はどこかホッとしたような、安堵の表情を浮かべていたのを覚えている。友理は、あの重圧を背負わせたくなかったのだろうと、漠然と感じていた。


「うん、言ったけど......でも、今日の部活紹介の演奏がすごく良くて、もう一度ホルンを吹きたいって思ったの」


友理は正直な気持ちを伝えた。

安中榛名高校の吹奏楽部の音は、東京の強豪校のそれとは全く違っていた。技術的に完璧とは言えないまでも、そこには温かさと、心からの喜びが満ち ていた。一人ひとりの音が、互いに寄り添い、喜びを分かち合うかのように響き合っていた。 その「生き生きとした音」に、私は再び音楽への情熱を燃やされたのだ。


父は、友理の言葉を聞くと、ゆっくりとパソコンの電源を落とした。そして、友理が座るソファの向かいに腰を下ろす。彼の表情は、何か遠い過去を懐かしむような、それでいてどこか切ないものだった。


「そうか......。お前がもう一度、心から吹きたいと思える音に出会えたなら、それは最高の事だ」


父はそう言って、自らの両手をじっと見つめた。その指は、エンジニアの仕事でキーボードを叩き続けるうちに、少しごつごつとしていた。


「お父さんもな、昔、お前と同じようにホルンを吹いていたんだ。高校は榛名高校で、吹奏楽部だった」


父の言葉に、友理は驚きを隠せない。いつも冷静で、現実的な父が、かつて楽器を吹いていたなんて、初めて聞く話だった。彼の過去は、友理にとって常に謎めいていた。


「それじゃ私が使ってるホルンって......お父さんの?」


私の問いに、父は一瞬目を見開いた後、苦笑いを浮かべた。


「ああ、バレたか。そうだ。あれは、俺が高校の時から使っていたものだ。お前がホルンをやりたいと言い出した時、また使う日が来るとは思わなかったよ。まさか、娘が俺と同じ楽器を手にすることになるとはな。あれは、プロの演奏家を目指していた頃の、俺の相棒だった」


父の声は、穏やかだが、そこに秘められた情熱と、そして少しの寂しさが感じられた。彼の言葉から、ホルンに対する深い愛情が滲み出ているのが分かった。


「高校時代は、本当に音楽に夢中だったよ。毎日毎日、ホルンを吹いて、プロの演奏家になりたいと本気で思っていた。顧問の先生にも、才能があると言われていたし、自分でもやれる、そう信じていたんだ」


父の瞳は、遠い過去を見つめるかのように、どこか焦点が定まらない。その表情には、今も消えない深い後悔と、諦めが入り混じっていた。


「だけど、ある時、色々な事情が重なってな......。 俺は、演奏家になる夢を、断念せざるを得なかった」


父は言葉を詰まらせた。彼の話す「ある事情」が何なのか、友理はまだ知らない。けれど、それが父の人生を大きく変え、音楽の道を諦めさせたことだけは理解できた。

その事情が、彼の中にどれほどの苦い思いを残しているのか、その横顔から痛いほど伝わってきた。


「結局、俺は演奏家の道を断念して、IT の道に進んだ。それはそれで、やりがいはあるし、家族を養っていく上では必要な選択だったと思っている。だが、もしあの時、別の選択をしていればと、時折考えてしまうこともあった。やはり、どこかで心残りがあったんだ」


父は顔を上げて、友理の目をまっすぐに見つめた。

その瞳は、まるで過去の自分を見ているかのようだった。その目は、友理に彼の果たせなかった夢を託そうとしているかのようだ。その重みを、友理はひしひしと感じた。


「だから、お前がもう吹奏楽はいいって言った時、正直、ホッとしたんだ。 俺と同じように、つらい思いをしなくて済むって......勝手に思ったんだ」


父の言葉に、友理は胸が締め付けられる思いがした。

(父は、私を心配してくれていたのだ。)

同時に、それは父自身の「夢の挫折」が、今も彼の中に深く残っている証拠でもあった。

しかし、彼の安堵は、友理自身の音楽への情熱を封じ込めてしまうことになるとも感じていた。


「でも、な。友理。お前がもう一度、心から吹きたいと思える音に出会えたなら、それは最高の事だ。俺ができなかったことを、お前にはやり遂げてほしい。心残りがないくらい、思いっきりホルンを吹いてほしい」


父は、少しだけ微笑んだ。その笑顔には、過去への未練と、未来への希望が混在していた。

彼の言葉は、友理の心に温かく響き、同時に大きな責任感を芽生えさせた。


「うん、ありがとう、お父さん。今度こそ、絶対、心残りなくやりきるから!」


友理は力強く頷いた。父の言葉は、友理の決意をさらに強くさせた。

中学時代の苦い経験、そして父の挫折。その全てを乗り越え、この安中榛名高校で、最高の音楽を奏でてみせる。そ

れは、友理自身の音楽への再挑戦であり、父の果たせなかった夢への、友理なりの挑戦でもあった。


三人の友情と、それぞれの家族の想いが交錯する、新たな高校生活が、今、本格的に始まった。

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