第1章4話:杏菜と母、美沙子の会話
安中榛名高校の入学式での高揚感と、新しい出会いの興奮を胸に、杏菜は足取りも軽く家路についた。
自宅の玄関を開けると、夕食の準備をする母親の、香ばしくてどこか懐かしい匂いが漂ってくる。キッチンの奥からは、母が楽しそうに鼻歌を歌う声が聞こえてきた。
「ただいま!」
「あら、杏菜。おかえりなさい」
母、音羽美佐子が振り返った。優しげな顔立ちの母は、いつも杏菜を温かく見守ってくれる。その目元には、杏菜の成長を喜ぶような、柔らかな光が宿っていた。
「お母さん、聞いて!私ね、今日、吹奏楽部に入部したよ!それに、すごい子たちと友達になったの!」
杏菜は興奮気味に、今日一日の出来事を話し始めた。中学では吹奏楽部がなかったため、高校で念願のクラリネットをできる喜び、そして体育館での部の演奏に心底感動したこと。そして、新しく出会った友達のこと。
「春菜ちゃんって子はね、榛名中学校から来たんだけど、トランペットがすごく上手なんだよ!それに、からかわれた時に助けてくれた、東京から来た、鳴瀬友理ちゃんって子がいてね。その子がまた、ホルンがめちゃくちゃ上手なの!全国大会にも出たことがあるんだって!」
杏菜が勢い込んで友理の経歴を話すと、美佐子の手が、鍋の蓋を持つところでぴたりと止まった。フライパンからはジュウジュウという油の音が響き、その音だけが、部屋の静寂を破る。
「......全国大会、ですって?」
美佐子の声は、それまでの温かい響きとは違う、どこか緊張を帯びたものだった。杏菜は、 母の異変に気づき、小首を傾げる。
「うん、そうだよ?すごいでしょう?」
「ええ、すごいわね......それで、その友理ちゃんのご両親は?」
美佐子の表情が、何かを考えるように曇る。杏菜には理解できない、複雑な表情だった。
まるで、遠い記憶を辿るような、そんな表情だ。
「お父さんが、新幹線通勤で東京に通ってるから、安中榛名駅近くのお家を買って引っ越し てきたって言ってたよ。」
美佐子は、杏菜の返答に小さく息をついた。そして、フライパンの火を消すと、杏菜の方へ向き直った。その顔は、いつもの穏やかな母の顔とは少し違っていた。真剣で、どこか懐かしさに満ちている。
「......鳴瀬さん、というのね」
美佐子は、まるでその名前を確かめるように、小さく呟いた。そして、杏菜の目を見て、ゆっくりと話し始めた。その瞳には、杏菜の知らない、遠い過去の光が宿っていた。
「杏菜が生まれるずっと前の話よ。お母さんもね、昔、吹奏楽をやってたの」
「えっ?そうなの!?」
杏菜は驚いた。母が吹奏楽をしていたなんて、一度も聞いたことがなかったからだ。物心ついた時から、母はいつも家庭を守る優しい専業主婦で、楽器に触れている姿など想像もできなかった。
「ええ。安中高校の吹奏楽部でね。パートはホルンよ」
「ホルン!友理ちゃんと同じパートじゃない!」
杏菜は思わず声を上げた。意外な共通点に、胸がときめく。まるで、昔から友理と繋がっていたかのような、不思議な感覚だった。
「そうね......。その頃、お父さんも吹奏楽部だったのよ。トランペット担当で、隣の榛名高校にね。私たちは、練習試合とか合同練習とかで、よく顔を合わせていたの」
美佐子は遠い目をして、懐かしむように語り始めた。その声は、まるで遠い過去の情景を描写する吟遊詩人のようだった。
「あの頃の安中高校と榛名高校の吹奏楽部は、ライバルでもあり、良き仲間でもあったわ。 お互いの学校の演奏を聴きに行って、刺激し合っていたのよ。合同で演奏会を開いたり、時 にはお互いの部室に遊びに行ったりもしたわね。私たち安中高校は、どちらかというと伝統 を重んじる真面目な部風だったけれど、榛名高校はもっと自由で、新しいことにも積極的に 挑戦するような雰囲気だった。良い意味で、お互いを高め合っていたのよ。」
杏菜は、母の話に引き込まれた。まるで、自分の知らない安中榛名の物語が、そこで息づいているかのように。それは、今の安中榛名高校が抱える、安中出身と榛名出身の生徒たちの間に残る、かすかな隔たりを思えば、信じられないような絆の物語だった。
「それでね、その頃、榛名高校に、鳴瀬先生という音楽の先生がいらっしゃったの。吹奏楽部の顧問をされていてね。とても厳しいけれど、生徒からの信頼が厚い、素晴らしい先生だったわ。常に生徒たちの可能性を信じて、私たち他校の生徒にも分け隔てなく接してくださった」
美佐子の声に、敬愛の念が込められているのが感じられた。
「その先生の指導で、榛名高校の吹奏楽部はどんどん実力をつけていったの。そして、あ る年、ついに県大会を突破して、関東大会に出場したのよ。それはもう、街中が大騒ぎにな ったわ。新聞にも大きく取り上げられて、安中榛名全体が、まるで自分たちのことのように 喜んでいたのよ。私たち安中高校の吹奏楽部員も、本当に誇らしかったわ。」
美佐子は微笑んだ。その時の喜びが、今も鮮やかに蘇るかのように、その表情は輝いてい
る。
「......そしてね、その鳴瀬先生には、一人息子さんがいらっしゃったの。名前は確か......啓介さんという名前で、鳴瀬さんの苗字だったわ。その息子さんもね、ホルンを吹いていたのよ。それはもう、尋常じゃない才能だったわ。まるで楽器が体の一部であるかのように、本当に美しい音を奏でるの。彼のホルンの音は、あの時代の安中榛名の吹奏楽部員なら誰もが憧れたものだったわ。」
美佐子の言葉に、杏菜の頭の中に、パチリと電気が灯ったような衝撃が走った。すべてが繋がった気がした。友理の父親が、新幹線通勤で東京から転居してきたこと。そして、その父親がホルン奏者であり、全国大会経験者の娘を持つこと。
「それって......友理ちゃんのお父さん!?」
杏菜は思わず身を乗り出した。美佐子は、杏菜の問いにゆっくりと頷いた。その瞳は、何かを決意したかのように、真っ直ぐに杏菜を見つめていた。
「ええ、多分......そうだと思うわ。その啓介さんは、高校を卒業して、東京の音楽大学に進学したと聞いていたから。プロの演奏家を目指して、この街を離れていったのよ。もし、友理ちゃんのお父さんがその方だとしたら......」
美佐子は言葉を途切らせ、杏菜の顔をじっと見つめた。その瞳には、懐かしさだけではない、どこか複雑な光が宿っていた。それは、喜びとも悲しみともつかない、形容しがたい感情だった。
「その鳴瀬啓介さんとは、お母さん、実は少し因縁があってね......」
美佐子の声が、なぜか少しだけ沈んだ。杏菜は、ごくりと唾を飲み込んだ。一体、母と友 理の父の間に、何があったのだろう。ただの偶然では片付けられない、何か特別な繋がりが あるのかもしれない。それは、単なるライバル関係だったのか、それとも、もっと個人的な、 深い関係だったのか。母の表情から、計り知れない過去が垣間見えた気がした。
「ま、昔のことよ。今は関係ないわ」
美佐子はそう言って、笑顔を作ろうとしたが、その表情にはまだ、微かな影が残っていた。 その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
杏菜は、新しく始まった高校生活が、思っていたよりもずっと深く、この安中榛名の歴史と繋がっていることを感じた。そして、友理という存在が、単なる友達以上の意味を持つかもしれないと、漠然とした予感に包まれた。
「お母さん、私、もっと友理ちゃんに話聞いてみてもいい?」
杏菜の問いに、美佐子は一瞬戸惑った表情を見せたが、やがて優しく微笑んだ。その微笑みには、少しだけ安堵の色が混じっているようにも見えた。
「ええ、いいわよ。きっと、色々な話が聞けるでしょうね。そして、もしかしたら、杏菜が思っている以上に、私たちと鳴瀬さんには深い縁があるのかもしれないわ」
その夜、杏菜は、ベッドの中で、今日の出来事を何度も反芻した。
鳴瀬友理。全国大会出 場経験を持つホルン奏者。そして、母の過去と深く繋がるその父親。
この安中榛名で、自分 たち三人の音が、どんなハーモニーを奏でていくのか。期待と、そしてほんの少しの不安が、 杏菜の胸に広がっていた。それは、ただの音楽の物語ではない。過去と現在、そして未来が 交錯する、壮大な物語の序章なのかもしれない。




