第3章7話:木管、ダブルリードの奥深さに触れる
金管セクションが大森拓海の指導で目覚ましい進化を遂げる中、安中榛名高校吹奏楽部の木管セクション、特にダブルリード楽器のオーボエとファゴットにも、伊香保音楽センターからの特別な指導者が訪れることになった。
やってきたのは、国内有数のオーケストラでオーボエ奏者を務める水野咲希 と、ファゴットの第一人者である高橋亮平だった。
二人は、その楽器が持つ独特の響きと表現の幅を、生徒たちに伝えるためにやってきた。
木管パートの練習場に足を踏み入れた水野と高橋は、まず、部員たちの演奏を静かに聴い た。オーボエパートには、経験豊富な三年生の吉村美咲、二年生の佐藤葵 (さとうあおい)、そして一年生の山本優子と中村健太 のがいた。ファゴットパートは、三年生の田中健太と橋本拓也、二年生の小林大輔、そして一年生の加藤綾乃 が揃っていた。
水野は、オーボエの吉村、佐藤、山本、中村に優しい笑顔を向けた。
「吉村さんの音は、とても安定していて美しいですね。佐藤さんは、昨年からの成長を感じます。山本さんと中村さんも、まだ荒削りな部分もあるけれど、音の伸びしろを強く感じます」
彼女はそう言うと、自身のオーボエを構え、ある旋律を奏でた。
その音は、まるで絹糸が たゆたうように滑らかでありながら、どこか物悲しさを帯びていて、聴く者の心を締め付け るようだった。続いて、同じ旋律を、今度は喜びや希望に満ちた音色で表現してみせた。
「オーボエの音色は、時に『悲劇の女王』、時に『天使の歌声』と表現されることがあります。 たった一本のリードから、これほど多様な感情を表現できるのが、この楽器の魅力です」
水野は、リードの選び方、調整の仕方から丁寧に指導を始めた。オーボエの音色の多くは リードで決まると言っても過言ではない。彼女は、生徒たちが使っているリードを手に取り、 わずかな削り方や、息を入れる角度で、音が劇的に変化することを実演して見せた。
「リードは、あなた方の『声帯』のようなものです。自分の声が一番美しく響くように、リ ードも丁寧に育ててあげましょう。オーボエのリードは非常に薄く、その繊細な調整は、音 の立ち上がりから響きの深さまで、全てを左右します」
吉村は、これまで感覚的に行っていたリード調整の奥深さに改めて驚き、水野の細やかなアドバイスに真剣に耳を傾けた。佐藤も、プロの奏者がいかにリードと向き合っているかを肌で感じ、自身のオーボエの音色に対する意識が大きく変わっていくのを感じた。
一年生の山本と中村も、初めて目にするプロの技に目を奪われ、その真剣な眼差しは、彼らの音楽へ
の情熱を物語っていた。
一方、ファゴットの高橋は、田中、橋本、小林、加藤に真っ直ぐな視線を向けた。
「田中君と橋本君のファゴットは、とても力強くて存在感がある。小林君も安定しているね。 加藤君は、これからどんどん音が育っていくのが楽しみだ」
高橋もまた、ファゴットのリードについて語り始めた。彼は、リードの開き具合や、先端の薄さによって、音の響きやレスポンスがいかに変わるかを丁寧に説明した。
「ファゴットは、オーケストラの中では『道化師』とも言われますが、その深みのある音色は、時に人間の感情の最も深い部分を表現できます。地の底から響くような重厚なハーモニーも、軽やかに跳ねるようなスタッカートも、全てはリードとあなたの息遣いから生まれるのです」
高橋は、ファゴットのリードもまた、オーボエとは異なる難しさを持つことを強調した。
「ファゴットのリードは、オーボエより大きい分、ほんの少しの調整が全体のバランスに大きな影響を与えます。湿度や気温といった環境の変化にも敏感で、常に完璧な状態を保つためには、細心の注意と経験が必要です。一枚一枚、そのリードの『個性』を見極めて、最高の音を引き出してやる。それが、ファゴット奏者の醍醐味であり、リード作りの難しさでもあります」
高橋は、ファゴットパート全員と共に、基礎的なロングトーンから見直していった。
ファ ゴット特有の、深く温かい響きを最大限に引き出すための、腹式呼吸と息の支え方。そして、 音と音のつながりを意識したレガート。三年生の田中と橋本は、これまで以上に自分の楽器 と深く向き合う中で、ファゴットが持つ無限の可能性を再確認した。二年生の小林も、その 深い知識に感銘を受け、一年生の加藤は、ファゴットの奥深さに魅了されていった。
「このフレーズは、まるで深い森の中を歩くような感覚で吹いてみよう。そして、次のフレ ーズは、その森に差し込む一筋の光を表現するんだ」
高橋は、楽曲の解釈についても具体的なイメージを与え、生徒たちが音に感情を乗せる手助けをした。彼らは、ファゴットの音色が、単なる伴奏楽器としてだけでなく、物語を語る主役にもなれることを知り、その魅力を再発見した。
水野と高橋は、ダブルリード楽器の特性として、音程の取り方や、他の楽器とのアンサン ブルにおける役割についても熱心に指導した。特に、オーボエとファゴットが奏でる重奏は、 吹奏楽の響きに豊かな色彩と深みを与える重要な要素だ。二人は、それぞれの楽器が持つ音 色の個性を生かしながら、いかに調和のとれたアンサンブルを築くかを、実演を交えながら 伝えた。
「オーボエとファゴットの音色は、まるで親子のような関係です。互いに寄り添い、支え合 うことで、他に類を見ない美しいハーモニーを生み出すことができます」
プロの音楽家たちの指導は、オーボエの吉村、佐藤、山本、中村、そしてファゴットの田 中、橋本、小林、加藤に、ダブルリード楽器の奥深さと、その無限の可能性を教えてくれた。 彼らは、これまで以上に自分の楽器を愛し、その音色で表現できることの喜びを感じ始めて いた。水野と高橋の言葉は、生徒たちの技術向上だけでなく、音楽に対する情熱をさらに深 く燃え上がらせた。
練習の終わり、水野と高橋は、パート全員にエールを送った。
「皆さんの音は、これからもっともっと成長します。何よりも、音楽を楽しむ心を忘れずに、 これからも楽器と対話してください」
彼らの言葉は、木管セクションの部員たちにとって、大きな希望となった。五十嵐雅人、そして伊香保音楽センターのプロの音楽家たちとの交流は、安中榛名高校吹奏楽部が、ただ技術を磨くだけでなく、真に魂のこもった音楽を追求するための、かけがえのない経験となっていた。




