第3章5話:ちょいワルコンビの葛藤と新たな決意
五十嵐雅人の指導が始まって一週間。
その変化の波は、部員全員に同じように訪れるわけではなかった。
パーカッションの後藤謙一郎とアルトサックスの安原亨、通称「ちょいワルコンビ」は、五十嵐の求める「本当の音楽」の奥深さに、もがき苦しんでいた。
その日の練習後、謙一郎と亨は、安中榛名駅前のコンビニのイートインスペースで、スポーツドリンクとチキンを広げていた。いつもの軽口を叩く元気はなく、二人とも深い溜息をついていた。
「はぁ〜、マジ無理。五十嵐先生の言うこと、頭ではわかるんだけど、なんかこう、体が勝手に動かねえっていうかさ」
謙一郎がチキンをかじりながらぼやいた。彼のドラムは、以前は単なるリズムの叩き出しだったが、五十嵐の指導を受けてからは、音の粒立ちや間の取り方一つにまで意識が求められるようになっていた。
亨も深く頷いた。
「わかる!『その音には、もっと愁いを込めて』とか『魂の叫びを表現しろ』とか言われてもさ、どうすればいいんだよって話で。俺、アニソン吹いてりゃ楽しいのに、なんでこんな哲学的なこと考えなきゃなんねーんだよ......」
彼のアルトサックスは、以前よりも確かに表現力が増していたが、五十嵐の描く「音楽」の境地は遥か彼方に感じられた。
彼らの隣で、パーカッションパートの頼れる存在である松本武史が、黙って二人の話を聞いていた。武史は、謙一郎とは対照的に、五十嵐の指導をスポンジのように吸収し、その演奏は日々進化を遂げていた。
「でもさ、先生の音って、マジで半端ないよな。この前、先生がちょっとパーカッション叩いてくれた時、鳥肌立ったもん。なんか、音が体の中に入ってくるっていうか......」
謙一郎が思い出すように言った。
「そうだな。俺も先生にサックスの稽古してもらった時、音が直接心臓に響いてくるみたいで、正直ビビった。ああいうのが『本当の音楽』ってやつなんだろうな」
亨も、悔しそうな顔で呟いた。
二人の間には、五十嵐の音楽への畏敬と、それについていけない自分たちへの苛立ちが混じった、複雑な感情が渦巻いていた。彼らは、音楽が好きで吹奏楽部に入ったが、五十嵐の指導は、彼らがこれまで考えていた「音楽」の範疇を遥かに超えていたのだ。
「俺たちさ、本当にこのままで大丈夫なのかな......。他の奴らは、どんどん先生の言ってること吸収して、上手くなってる気がするし。特に、友理とか、杏菜とか、楓とかさ」
亨が、不安そうな眼差しで謙一郎を見た。
謙一郎は、しばし黙り込んだ後、ポンと膝を叩いた。
「まあ、無理なもんは無理だよな!
俺たち、いきなりプロの領域までいけるわけねーだろ」
「おいおい、諦めんのかよ?」
亨が呆れたように言った。
「諦めるんじゃねえよ!」
謙一郎は、亨の言葉を遮るように声を上げた。
「俺らが目指すのは、五十嵐先生みたいな『本物の音楽家』じゃなくて、俺らなりの『本物の楽しさ』だろ!もちろん、全国大会ゴールド金賞は目指すけどさ」
亨は、謙一郎の言葉にハッとした表情を浮かべた。彼の言う「本物の楽しさ」とは、彼らがこの吹奏楽部に入った原点だった。
「俺たちに、五十嵐先生みたいな深みのある演奏は、正直まだ無理だ。でもさ、俺たちにし か出せない音って、絶対にあるはずなんだよ」
謙一郎は続けた。
「例えば、俺のドラムは、誰よりもド派手に、聴いてる奴らが『うぉー!』ってなるような 音を出してやる!あんまりにも凄すぎて、五十嵐先生が『なんだあのちょいワル共の演奏は!』 って驚くくらいにな!」
「ははっ、それ面白いな」
亨の顔に、久しぶりに笑みがこぼれた。
「だったら俺は、誰よりもエモくて、聴いてる奴らが涙腺崩壊するようなサックスを吹いてやる!『安中榛名のちょいワルサックス、やべぇ!』って言われるくらいにな!」
二人の「ちょいワルコンビ」の顔には、再びいつもの悪戯っぽい笑顔が戻っていた。
彼らは、五十嵐の指導を完全に理解することはできないかもしれない。しかし、その指導から得たヒントを元に、自分たちなりの「音楽」を見つけ出そうと決意したのだ。
武史は、そんな二人を温かい眼差しで見つめていた。そして、静かに口を開いた。
「お前たち、それでいいんだよ」
謙一郎と亨は、武史の方を向いた。
「五十嵐先生が教えてくださってるのは、もちろん技術的なことだけじゃない。だけど、一番大事なのは、お前たちがどうしたいのか、どんな音楽を奏でたいのかっていう、その『想い』なんだと思う」
武史は続けた。
「俺は、五十嵐先生の指導を受けて、もっともっと上手くなりたい。先生が教えてくださる『本当の音楽』っていうのを、少しでも理解できるようになりたい。だから、俺は俺で、演奏で頑張る」
武史は、真っ直ぐな目で二人を見つめた。
「でも、謙一郎と亨。お前たちが、お前たちなりの音で、お前たちなりのやり方で、安中榛名高校吹奏楽部を盛り上げてくれる。それ自体が、俺たちの吹奏楽部にとって、すごく大事なことなんだ。だから、お前たちが『ちょいワル』のやり方で、最高の音を出すために頑張る。そのお前たちの頑張りを、俺は応援する。いや、応援を応援する」
武史の言葉に、謙一郎と亨は目を見合わせた。武史はいつも冷静で、彼らとは一線を画す 存在だったが、その言葉には、彼らを深く理解し、受け止める温かさが込められていた。
「松本......お前、なんだかんだ言って、いいやつだよな」
謙一郎が照れくさそうに言った。
「当たり前だろ。同じパーカッションパートの仲間だろ」
武史は、微かに笑みを浮かべた。 亨も、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「サンキュー、武史。なんか、すげー勇気出たわ」
「よっしゃ、じゃあ俺たち、明日から『ちょいワル流スペシャル練習メニュー』を組むか!」
謙一郎が気合を入れるように拳を握った。
「おう!五十嵐先生が驚くような音、出してやる!」
亨も力強く頷いた。
安中榛名駅前のコンビニの明かりの下、三人の部員たちは、それぞれ異なる方法で、 しかし同じ目標に向かって歩み出すことを再確認した。
五十嵐雅人の指導は、彼らに 「本当の音楽」の扉を開き、同時に、自分たちなりの音楽の道を模索するきっかけを与えた。 ちょいワルコンビと真面目なパーカッションの邂逅は、安中榛名高校吹奏楽部の音色に、さ らに多様な色彩と深みをもたらすことだろう。
彼らの新たな挑戦は、始まったばかりだ。




