第3章3話:恩師の指導、音の覚醒
顧問の佐々木梓からの懇願を受け、五十嵐雅人は安中榛名高校吹奏楽部の指導を引き受けることになった。それは、部員たちにとって、想像をはるかに超える音楽体験の始まりだった。
五十嵐が初めて練習場に姿を現した日、部員たちはその穏やかながらも鋭い眼光に、ただ ならぬ雰囲気を察知した。友理の祖父、鳴瀬 健一郎が「伊香保音楽祭の立役者」と語った人 物の指導を直接受けられることに、友理は大きな期待と少しの緊張を抱いていた。
五十嵐の指導は、これまでの練習とは全く異なっていた。
彼は、まず部員たちに「なぜ、 その音を出すのか?」「このフレーズは何を表現したいのか?」と、常に問いかけた。技術的 な正確さだけでなく、音の一つ一つに意味を持たせ、感情を込めることの重要性を徹底的に 教え込んだのだ。
「君たちの音は、確かに正確だ。だが、まだ『音符の羅列』に過ぎない。君たちの感情が、魂が、そこに宿っているか?」
五十嵐の言葉は、時に厳しく、しかし常に的を射ていた。
最初は戸惑っていた部員たちも、 彼の指導の本質が、自分たちの音楽をより深く、より感動的なものにすることにあると理解 し始めると、真剣な眼差しで彼の言葉に耳を傾けるようになった。
特に、部長の鳴瀬友理は、五十嵐の指導から多くのことを吸収した。ホルンの音色を磨き上げてきた友理だが、五十嵐は彼女に、さらに音の「色彩」と「奥行き」を求めるよう促した。
「君の音には、温かさがある。だが、喜びだけでなく、悲しみや、決意の色も、もっと表現できるはずだ」
彼の言葉は、友理の音楽への探求心をさらに深く掘り下げていった。友理は、由那学園の藤堂雅也の指揮から感じた「魂に語りかける力」が、五十嵐の指導の根源にもあることに気づき始めていた。
クラリネットパートの音羽杏菜も、五十嵐の指導で大きく変化した一人だ。彼女は技術的に完成しつつあったが、表現することへの自信が足りなかった。五十嵐は、杏菜の繊細な音色に注目し、彼女の内面に眠る感情を音に乗せるよう導いた。
「君の音は、まるで絹のようだ。だが、その絹で、嵐も表現できることを知っているか?心のままに、音を紡ぎ出すんだ」
五十嵐の言葉を受け、杏菜は恐れずに自分の感情を音に乗せる練習を重ねた。 すると、彼女の音色は、単なる美しさだけでなく、聴く者の心を揺さぶるような、深い情感 を帯びるようになった。
本人はまだ完全には自覚していないが、その進化は、パートリーダ ーとして杏菜を推薦した友理、春菜、そして見学していた OB の勇吉の目に、確かなものとし て映っていた。
二年生の木村 楓も、五十嵐の指導を通して、技術に裏打ちされた「音楽的な 表現」の重要性を深く理解し、自身の硬質な音色に温かみと柔軟性を加える努力を始めた。 楓は、先輩である杏菜の音色の変化にも刺激を受け、互いに高め合うように練習に励んだ。
五十嵐は、楽器の指導だけでなく、部員たちのアンサンブル全体にも目を配った。パート間の連携、ハーモニーのバランス、そして曲全体の解釈。彼の指導は、安中榛名高校吹奏楽部全体の音を、一つ上の次元へと引き上げていった。練習場には、以前にも増して一体感のある、そして深みを増した響きが満ちるようになった。
顧問の梓は、恩師である五十嵐の指導ぶりを間近で見て、改めてその偉大さを痛感していた。五十嵐の言葉は、時に梓自身の指導者としての視野を広げ、彼女自身の音楽への理解も深めていった。
梓は、生徒たちが五十嵐の指導によって劇的に成長していく姿を見るのが何よりも喜びだった。
安中榛名高校吹奏楽部の音色は、五十嵐の指導によって、確かな進化を遂げていた。由那学園の「圧倒的な音楽力」という壁は、未だ高い。しかし、彼らは今、その壁を乗り越えるための、確かな一歩を踏み出したのだった。




